« 2009年5月 | トップページ

2009年6月

【上席】創作(自作)落語の部 東海道五十三次(神奈川編) (5)

さて、次の宿は、藤沢でございます。
藤沢というと、湘南の海、片瀬海岸、江ノ島でございます。

さてその次は江ノ島で
岩本院の稚児あがり
ふだん着馴れし振り袖から
髷も島田に由比ガ浜
打ち込む浪にしっぽりと
女に化けて美人局
油断のならねえ小娘も
小袋坂に身の破れ
悪い浮名も竜の口
土の牢へも二度三度
段々超える鳥居数
八幡様の氏子にて
鎌倉無宿と肩書きも
島に育ったその名さえ
弁天小僧菊之助

江ノ島、湘南の海、あさっての七月一日、もう海開きですよ。
夏休みになるてえと、海水浴客で大賑わいですよ。人、人、人、人、人、人、人、人、人、人、人、人、・・・・・・・・・・。
しつこいですね、
「どうだ、波の具合は?」
「人波でいっぱいだよ」

もう一ついきます。
「どうだ、クラゲは出たか?」
「いや、人出(ヒトデ)でいっぱいだよ」

『かわさき落語草子』 清流亭いしあたま著 まつ出版 本体1,200円 より抜粋

| | コメント (15)

【上席】創作(自作)落語の部 東海道五十三次(神奈川編) (4)

次は、保土ヶ谷の宿でございます。
東海道、今は国道一号線でございます。この一号線と交差する保土ヶ谷バイパス。凄い渋滞ですよ。毎日、毎日。何十キロの・・・・・。そもそもバイパスてえのは、わかります? 渋滞を緩和するために、混雑している市街地を迂回して、避けて通る道路なんですかァ。交通渋滞にブレーキがかかんないですかねェ。
「冗談言っちゃあいけねェ。 ブレーキのかけっ放しだよ」
「何で?」
「何でたって、前の車が動かねぇんだよ。ブレーキかけてなくっちゃあ、ぶつかっちゃうよ」
「あ、そうかァ」なんてェ。
車だけにブーブー言ってもしょうがありませんから、つぎの宿へ行きたいと思います。

次が、戸塚宿でございまして・・・・・・。
この辺りというのは、古くは、古墳群が多く発見されまして富塚といったそうでございます。この富塚から戸塚となったというのが地名の起源でございまして、落語てえのは、こうやって考古学の知識も必要なんですよ。凄いでしょ。「ウーン」と、うなずいている方がいらっしゃいますけど、有難うございます。
今はてえと、住宅地でございまして、バブルのはじける前なんてえのは、もう新興住宅地で人口が急増しまして。政治家のセンセイへの政治献金、ゼネコン汚職が大手を振っておりまして、
「まあ奥様、ご立派な新築のお住まいですこと」
「何をおっしゃいます奥様、お宅のほうこそ鉄筋で」
「まあ、うちなんか、鉄筋というより借金コンクリートですよ」
「まあ、ご冗談ばっかり」
「ところで、あそこの政治家センセイのお宅は?」
「ああ、あそこは、『献金』コンクリート作りでしょう」

『かわさき落語草子』 清流亭いしあたま著 まつ出版 本体1,200円 より抜粋

| | コメント (0)

【上席】創作(自作)落語の部 東海道五十三次(神奈川編) (3)

さて次は、神奈川の宿でございます。
神奈川といえば、あの東京・箱根駅伝で活躍の神奈川大学がございます。
この駅伝というのは、元を正せば中国から伝わったんですが、これホントなんです。
あたしは、大体ホントの話が多いんです、ええ。

五街道。東海道、中仙道、奥州街道、甲州街道、日光街道、この五街道に宿駅制度が出来まして、宿場から宿場を飛脚や馬でつないでいく交通機関としてッ急遽、発達した訳でございまして、ですからこの東海道五十三次てえのは、駅伝なんですよ。面白いでしょ。ねェ。これが陸上競技として今の駅伝として残っている訳でございまして。
もう、この東京・箱根駅伝は、国民的行事ですよ。お正月の風物詩ですよ。
あたしも大好きなもんで、毎年、川崎の街道で小旗を振って応援してるんですが、生で見ると凄いですよ。あの迫力、選手の息づかい。あんな細い身体で二十何キロも一人で走り、あのタスキをつないでいくんですから。
「よく身体がもちますね」
「はい、お正月だけに、モチがいい」

で、帰りに、一人で、まあ、こう一杯やって。あたしも、これが大分、好きな方ですから。何軒かハシゴしまして、ああ、又、飲み過ぎちゃったなァ、午前様だなァと思って、こう、お土産をぶら下げて帰ったんですけど。帰った途端うちのカミさん、お正月早々だというのに、
「あなたッ、今までどこへ行らしてたのッ?」
ヤですねェ、あの響き! しょうがないから言い訳したんです。
「いやァ、宿場寄席の事で、役所の人と一緒に飲んでたんだけど」
「役所の方から、お電話ありましたけど・・・・・・」

『かわさき落語草子』 清流亭いしあたま著 まつ出版 本体1,200円 より抜粋

| | コメント (0)

【上席】創作(自作)落語の部 東海道五十三次(神奈川編) (2)

さて次は、ご当地、川崎宿でございます。
川崎宿は、その昔、川崎大師様への街道として栄えた宿場でございまして・・・・・。
川崎大師様てえと、皆様もうご案内でございますが、境内にハトがうわ~っといまして、お店屋さんもこうやって並んでおりまして・・・・・。おばあちゃんが何を思ったのか財布から百円玉を出して、こうハトに投げるんですよ。百円玉を。あ、あのおばあちゃんボケちゃったのかなァと思って、あたしは親切なもんですから、
「おばあちゃん、何やってんですか?」
「はあ、あたしゃか。あたしゃな、ハトにエサやってんだよ」ってえから
「おばあちゃん、それ、エサじゃないですよ。百円玉ですよ」って教えてやると、
「おめえは、バカか」
「いや、あたしはバカじゃあないですけど」
「バカじゃあなかったら字ィ読めんだろ。ほら、あそこの店に書いてあんの読んでみな。ハトのエサ、百円!」

で、今の川崎てえのは、昔の煤煙の黒い煙の工業都市とは、すっかりイメージチェンジをしましてクリーン川崎。クリーン川崎ですよ。別に今日この寄席が川崎市共催だからといってヨイショする訳ではございませんが、開かれた市政、市民の意見をよく聞いてくれるんですよ。川崎市役所に行ってごらんなさい。あの時計台の。あれ、川崎市役所のシンボルだったんですよ。
あそこは、玄関から入りますてえと、右側の所にこんな箱が置いてあるんです。で、上の方に、この位の口があって何か入れられるようになってるんです。
その前で、おじいちゃん、
「あー、あー」大きな声で怒鳴ってるんです。
市の職員さん、びっくりして飛んで来て、
「おじいちゃん、こんな所で大きな声、出しちゃ困りますよ」
「え、ワシゃか。ワシゃな、役所のいう通りにやってんだよ」
あたしも傍に行って見たましたら、おじいちゃんの言ってる方が正しかったですよ。合ってましたよ。
箱の所にちゃんと書いてありましたよ。
市民の皆様へ
「あなたの声をお聞かせ下さい!」

『かわさき落語草子』 清流亭いしあたま著 まつ出版 本体1,200円 より抜粋

| | コメント (0)

【上席】創作(自作)落語の部 東海道五十三次(神奈川編) (1)

【上 席】とは、寄席で、
     一ヶ月のうち一日から十日までの興行のこと。

お江戸日本橋から京都三條大橋までの東海道におかれた五十三の宿駅、宿場を次々、順につないでいくので東海道五十三次と申しまして・・・・・。今、苦もなくサラーと申しましたがここが本日の重要なポイントでございます。日本橋から京都の、その間の、五十三の宿場の事でございまして。中には、日本橋から京都までが、五十三と思っていた方も多いと思いますが。ですから日本橋と京都は、五十三の数には入らないんですよ。おわかりになります? タメになるでしょ。落語てえのはタメになるんですよ。聞いてる人は。やってる人はダメになるんです!

ご当地、川崎宿。神奈川県は武蔵の国、相模の国でございます。品川から箱根まで「東海道五十三次・神奈川編」と題しまして、僅かばかりのお時間でございます。
どうぞ、気をしっかり持ってお付き合い願いたい訳でございますが・・・・。

♪ お江戸日本橋 七つ立ち
             初のぼり
  行列そろえて アレワイサノサー
  コチャ高輪 夜明けて
            提灯消す
     コチャエー コチャエー
                        (「お江戸日本橋」より)

お江戸日本橋を旅立ちまして、先ず、第一番目の宿場が品川でございます。
男の方はニヤニヤしてますけど、宿場、宿場には、お女郎さんてえのはもう付き物でございまして・・・・・・。昔の男てえのは、お女郎さんがいないと困るそうでございます。何だかよくわからないんですけど。

で、今の品川てえと、もうコンクリートのジャングルでございまして、土なんてえございませんよ。道路は勿論、学校の校庭だってアンツーカーですよ。自然のまんまの土がないもんですから、カーデニングなんてえ花の鉢植えが流行りまして、カーデニングブームですよ。ガーデニングブーム、ガーデニングブームですよ。落語も横文字の入る時代でガーデニングブームですよ。
「定吉、今まで、どこへ行ってたんだ?」
「エヘヘ、わかってるくせに、旦那さんと同じですよ」
「ニヤニヤして気持ち悪いね。どこへ行ってたんだ?」
「エヘヘ、品川でしょ。女郎ですよ。ガーデニングですよ。ジョロ買い、ジョロ買い」

で、あたしも、こう、花の園芸やってるんですよ。
どっちかというと、直ぐ、夢中になっちゃう方で、休みの度に、土いじりしてたんです。近所の人が、
「いしあたまさん、落語の稽古しないんですか?」
「園芸(演芸)も、同じ、芸の肥やしです」

『かわさき落語草子』 清流亭いしあたま著 まつ出版 本体1,200円 より抜粋

| | コメント (0)

【一番太鼓】

「落語草子なんてェ、偉そうな名前、つけたねェ」
「何で?」
「枕草子があるだろう」
「なあに、心配いらねェ」
「ン?」
「落語には、枕(マクラ)が、あります」

【一番太鼓】は、寄席で開場の際、一番のお客さんを迎え入れる時、「大入り満員」を願って、ドントコイ ドントコイと叩きます。

たちばな記
「八四〇の客席がみるみる埋まっていくんですよ。どうしたんだい、このにぎわいはってね、もう、びっくりでしたよ。うれしかったね、もう、びっくりでしたよ。」
もともと情にもろい気性のようで、感極まった様子が、顔と言葉の両方から、噴き出てきました。

川崎市幸区古川町、珠算塾経営、深見政則さん(52)が中心になって行っている「さいわい寄席」の三周年特別寄席が、爆発的な人気を集めて去る十九日、幸い文化センターでめでたく開かれました。
深見さんは、自ら「清流亭いしあたま」と名乗る落語ファン。本誌「USO放送」の投稿常連者でもあり、洒落や冗談、気っぷのよさが五体にしみ込んでいるよう。同行の士に呼びかけて三年前「さいわい寄席」を旗揚げしました。プロの落語家を一人呼んで”木戸銭”無料の気前のよさ。春秋二回の寄席を心待ちするファンが増えるのも当然でしょう。
立ち見も出た記念寄席には、三笑亭可楽さんら四人の真打が出演。あまりの盛況に感激した師匠連は、そろって持ち時間オーバーの熱の入れようだったといいます。

川柳仲間や地元ボランティア団体の後押しがあって実現した記念寄席でしたが、かかった費用の話になると、「そういうことはいいんですよ」と深見さんは口をつむぐばかり。
どうやら、小遣いを工面して開いている「さいわい寄席」。
いよっ、旦那、やってるね。

読売新聞 平成8年5月26日付 提供:読売新聞社

『かわさき落語草子』 清流亭いしあたま著 まつ出版 本体1,200円 より抜粋

| | コメント (0)

【開口一番】

白玉の歯にしみとおる秋の夜の 酒は静かに飲むべかりけり   牧水

書いてないんです。(広げて読んでいた扇子を見せる) (笑)
お酒のおいしい季節でございます。
別に秋じゃなくてもいいんです。一年中・・・・。 (笑)
こう好きなもんですから・・・・・。そんな訳で、この歳になりますてえと、身体の方がちょっと気になりまして。え、検査したんです。血ィ取って。血液検査です。
糖がちょっと出かかっちゃいまして、血糖値が・・・・。お医者さんから体重を五キロ落せと言われまして・・・・・・・。食事制限で。
で、今は安定してるんでお医者さんに聞いたんです。
「先生、いつまで食事制限するんですか?」
「当分(糖分)」 (爆笑)

で、お医者さんが、座って落語ばかりやってないで歩きなさいって言うんです。
今、毎日、一時間ばかり歩いているんですけど、これはいいですよ。うっすらと小汗をかいて・・・・。こう血の巡りがよくなって。フッと、アイディアが浮かぶんです。
「アルキメデスの原理」 (爆笑)

大体こんなレベルなんです。あんまり期待しないで頂きたい訳でございますが・・・・・。

(昨秋・第二十八回さいわい寄席での口演「枕」より)

高座に上がって「十秒以内」に「笑い」を取る。お客様を引き込む。
いしあたま流の落語です。

「川崎さいわい寄席」を旗揚げして、この秋に、十五周年記念・第三十回を迎えます。
お陰様で、今や「川崎名物」と言われるまでに発展いたしました。
アマチュア落語にプロ真打をゲストにお迎えして、春・秋・年二回、木戸銭無料、一日二回公演。一七〇〇人ものお客様が集まります。これだけ大規模な寄席は全国的にも類を見ません。
古典落語を中心に落語に取り組んでおりますが、今まで、川崎を舞台にした創作落語を数多く作っています。口演だけだと流れてしまう。十五週年の節目に一冊の本にまとめてみました。

『かわさき落語草子』 清流亭いしあたま著 まつ出版 本体1,200円 より抜粋

| | コメント (0)

ほっと ひと息!!

花菖蒲(はなしょうぶ)

Dsc00135_web_edited1 ・文目(あやめ)科。
・開花時期は、 6/1頃~  6/25頃。 梅雨の頃の代表的な花の一つ。
・野生の「
野花菖蒲(のはなしょうぶ)」を原種として改良された、国産の園芸植物。
・葉が
菖蒲に似ていて   美しい花が咲くことから「花菖蒲」。
・500年くらいの栽培の歴史がある。 花の系統は江戸系、肥後系、伊勢系の3つに  大きくわかれる。  (その他に、長井古種とアメリカ系、がある) 
・よく開催される「あやめ祭り」の”あやめ”とは  この花菖蒲のことを指すことが多い。  昔の人が花菖蒲とあやめを間違えて、祭りの名前にしてしまったらしい。  (ただでさえ見分けにくいのに、よけいに ややこしくなります) 
・5月5日、6月8日の誕生花(花菖蒲)
・花言葉は「うれしい知らせ、心意気」(花菖蒲)
・三重県の県花(花菖蒲)

| | コメント (0)

付章 歌舞伎の台本とせりふ (8) 「演劇の台本は時代と民族性を映す」

シェイクスピアは『ハムレット』で、「役者は時代の縮図、簡素な年代記だ」と言っています。主語を「演劇」や「せりふ」に置き換えてもいいでしょう。

演劇は俳優と観衆の間に成立する芸術なので、作られた時代の傾向を敏感に映し出します。なぜでしょうか。第一に、人間は「時代の子」です。作者・俳優も観衆も時代の考え方から離れられません。第二に、演劇は演じる側の主観だけでは成立しない芸術です。演じる俳優と観る観衆がいてはじめて成立します。小数の観衆しか集まらない演劇は、短期公演はできても、長期講演は出来ません。経済的に成り立たない演劇は長続きできないのです。多数の観衆を集めるには、その時代の観衆の嗜好を読み取らなければなりません。つまり、演劇は時代と添い寝する性格を持っているのです。

また、延的はその時間・その場所に居なければ観られない性格も持っていますから、その演劇が生まれた国の人々の国民性・民族性を色濃く映します。
すなわち、演劇の基礎である台本・せりふには、その国・民族、その時代に生きた人々の考え方が強く映されています。

歌舞伎も人形浄瑠璃も、江戸時代の日本に成立した演劇です。当然、江戸時代の日本に生きた人々の考え方を強く反映しています。江戸時代の日本人は、仏教、儒教、伝統的な神道(明治以降の国家神道は別物)や民間信仰などの影響を受けていましたから、歌舞伎のせりふも当然そういう考え方に覆われています。また、歌舞伎・人形浄瑠璃は江戸時代の日本人の価値観や美意識・嗜好を強く映しています。

しかし、そういう宗教・思想が長い間生きてきたということは、その中に真理が含まれているということです。また、そういう宗教・思想の下に生まれた文化・演劇もその国の人々の生活にマッチしていたのです。善くも悪くも私たちの祖先が培ってきた文化ですから、その文化を捨てることはアイデンティティーの喪失を意味します。古い文化は一概に否定すべきではなく、取捨選択するのが正しい態度でしょう。

演劇は時代と密着しなければ隆盛になりませんが、そういう演劇は時代の変化とともに衰退する運命にあります。我々はその例をたくさん見てきました。けれども、国や民族、時代は違っても、同じ人間のことですから、共通して感動するものがあるはずです。歌舞伎やシェイクスピア作品が時代や国境を越えて親しまれているのは、その中に人間としての普遍的なものを含んでいるからでしょう。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

| | コメント (0)

付章 歌舞伎の台本とせりふ (7) 「演劇の台本の言葉は変形されている」

言語には音声言語(話言葉)と文字言語(書き言葉)があります。先に生まれたのは音声言語、すなわち口で言い耳で聴く言葉です。のちに、人間は、文字に書いても他人へ伝達できることを覚え、文字言語が生まれました。

歌舞伎の台帳も人形浄瑠璃の丸本も文字で表されます。つまり、文字言語です。演劇として立体化するためには、俳優(太夫)が文字で書かれた言語を眼で読み、身体に沁みこませたのち、音声言語に変換しなければなりません。
別の言い方をすれば、演劇の台本は観衆が耳で聴くことを想定して書かれます。したがって、読者が眼で受け取るための読み物と観衆が耳で聴くための台本は文章の書き方が異なります。耳て聴いて、観衆の心に響くように書くためには、日常的な平板な言葉より、変形(デフォルメ)した言葉のほうが優れています。耳に心地良い印象にも残ります。日常会話のように書いたものでは、聞く人の記憶に残りません。そのため、演劇の台本は言葉のリスムを計算し、韻を踏むなどして書かれます。

古い時代の西洋演劇の台本も韻を踏んで書かれました。別の言い方をすると詩劇でした。(西洋では演劇は詩の一つと考えられています)。日常生活で話す言葉に近く書かれるようになったのは十八世紀以降です。しかし、そのような自然主義的戯曲は近代の一時期に流行ったものの、元に戻り、現代の欧米演劇の台本も変形して書かれています。人形浄瑠璃の丸本も同様で、韻を踏んで書かれています。歌舞伎の台帳も、人形浄瑠璃より日常会話に近く書かれているものの、変形されていることに変わりありません。

近松門左衛門や河竹黙阿弥の作品はその傾向が強くなっています。特に大事なせりふは、縁語・掛け詞・語呂合わせ(もじり・洒落・地口)などを多用しながら七五調で書かれています。日本語のリズムを考えた、音楽的なせりふに書かれているのです。

つまり、歌舞伎の台帳も人形浄瑠璃の丸本も、強調と省略、別の言葉で言えば飛躍して書かれています。歌舞伎や人形浄瑠璃の台本のせりふ(詞章)を他のものにたとえれば、歌詞に近いでしょう。歌詞も散文として読めば支離滅裂ですが、逆にそのように書かれているからこそ人々の心を打つのです。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

| | コメント (0)

付章 歌舞伎の台本とせりふ (6) 「歌舞伎の台本は俳優のために書かれた」

こうして、歌舞伎では台帳の書かれた後も、工夫を重ねましたので、当然、台帳は変化していきました。歌舞伎の名せりふの中に、初演の台帳にも「本行(ほんぎょう)」(原作の人形浄瑠璃)にもなく、俳優が作ったと思われるせりふが多いのはそういう事情によります。
現代演劇でも書き換え作が作られますし、テキスト・レジイ(台本の加筆・削除)も当たり前に行われています。人形浄瑠璃も丸本のまま語っているわけではありません。演劇の台本はそのまま上演されることは少ないのです。

江戸時代、歌舞伎の台帳は基本的に刊行・販売されませんでした。一方、人形浄瑠璃の丸本は、新作が作られると、必ず刊行・販売されました。
歌舞伎の台帳は稽古の過程で変化するものなので、小数しか作られませんでした。俳優には「書き抜き」(その俳優が言うせりふだけ書いたもの)が渡され、それに基づいて稽古が進められたのです。当然、稽古の過程で、演劇的効果を考え、削除される所もあれば、書き足される所も出てきます。
要するに、歌舞伎の台帳は上演するための劇場内部の覚え書きで、読書するために書かれたわけではないのです。当然、詠むことによって感動を得る文学的効果よりも、俳優が演じることで感動を与える演劇的効果を重視しました。

ただし、江戸時代中期の上方で「絵入り根本(ねほん)」(「根本」は台帳の上方の言い方)が作られ、江戸でも台帳を転写した貸し本が作られたこともありました。(現代残っている台帳はこれが多い)。しかし、これはあくまで副次的な利用です。
一方、人形浄瑠璃の丸本も、本来は上演のために作られました。しかし、全部の詞章を太夫が語るように書かれたため、また人形の動きを計算して、状況や心理が伝わるよう細やかな筆致で書かれたため、読み物に近い性格を持っています。文学としても、通用するのです。そのため、読み物としての需要が多く、新作が作られるたびに刊行・販売されました。

そういう性格を無視して、「歌舞伎の脚本には文学性がない」と非難する人がいます。しかし、それは虚弱な「優等生」が高い身体能力を持っているスポーツ選手を頭が悪いと批判するのと似た見苦しい主張です。歌舞伎は演劇も舞踊も音楽も曲芸も含んだ総合芸術で、演劇と文学のとちらが上ということはないのです。

演劇の台本に求められることの第一は、俳優が演じて、観衆に感動を与えることです。台本は上演されてはじめて価値を持つのです。別の言い方をすると、自分を殺して、はじめて自分が活かされるのが演劇の台本です。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

| | コメント (0)

付章 歌舞伎の台本とせりふ (5) 「歌舞伎の台本は俳優のために書かれた」

演劇は俳優の表現が中心の肉体表現芸術(パフォーマンスアーツ)です。したがって、演劇の出来は俳優の個性や技倆などによって大きく左右されます。そのため、歌舞伎の作者は、俳優の個性を活かし、俳優の「芸」を引き出すよう台帳を書きました。その上、江戸時代は新作の上演が原則になっていたので、毎回、出演する俳優にあてて書き直されました。
歌舞伎の台帳の様式はその性格をよく表しています。現代演劇の台本はせりふの頭に登場人物の役名が書かれていますが、歌舞伎台帳のその箇所には俳優名が書かれています。すなわち、せりふは劇中の登場人物ではなく、俳優が言うものでした。

一方、人形浄瑠璃は、複数の太夫が、自分の担当する部分の詞章を語ります。ある太夫が担当する部分に数人の登場人物が出てくれば、原則として、そのすべてを独りの太夫で語り分けなければなりません。そのため、人形浄瑠璃の台本は、俳優の個性に囚われることなく書けます。また、再演の際も書き直す必要はありません。初演と異なる演奏者・人形遣いが出演しても、出演者が脚本にあわせていけばいいのです。

つまり、歌舞伎の台帳は演劇台本の本来的な形をしており、人形浄瑠璃の丸本は近代の西洋演劇のように文学に近付いていると言えるでしょう。
歌舞伎の台本を台帳と言うのは「土台になる帳面」という意味です。土台なのですから、歌舞伎俳優は台帳が出来上がった後も、躊躇なく修正を加えました。むしろ修正しないことは工夫しないことだったのです。稽古場で声に出して詠んで直し、舞台に掛けてからも観衆の反応を見ながら直していきました。言い換えたり、原作にないせりふを入れたり、逆に原作にあるせりふを略したりしたのです。

演劇の台本はせりふによって成り立っていますから、せりふ術を重視するのはどの演劇も同じです。舞踊性・絵画性の強い演劇である歌舞伎も変わりません。
たとえば、歌舞伎には「一声、ニ振り、三男」「一調子、ニ振り、三顔」という言葉があります。演技に何が重要か、その順を表した言葉で、前の言葉のうち、「声」は「声の質やせりふ術」、「振り」は「所作・動作」、「顔」は「容姿」のこと。つまり、いずれの説によっても、所作や容姿より、声の質やせりふ術を上に置いています。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

| | コメント (0)

付章 歌舞伎の台本とせりふ (4) 「台本は集団で作られた」

もともと歌舞伎に台帳はなく「口立(くちだて)」で作られていました。口立とは、先に大まかな筋立(プロット)てだけを決めておき、俳優の動き・しぐさ・せりふなど、細部は口頭で打ち合わせながら芝居を作ることを言います。しかし、劇構造が複雑になるとともに、あらかじめ俳優が言うせりふなどを決め、それを文字に記録しておくことが必要になりました。

映画の台本をシナリオと言います。この語は本来、ルネッサンス(文芸復興)時代にイタリアで興った即興仮面喜劇、コメディア・デラルテの用語で、イタリア語では「セナリオ」と言います。(「舞台の道具建」の意)。コメディア・デラルテの俳優は、道具建を書いたメモ(セナリオ)を見て、後は即興で演じました。初期の映画も簡単な覚え書きに基づいて撮影されたので、その用語を映画も使うようになったわけです。
つまり、映画のシナリオも歌舞伎の台帳も同じような成り立ちをしたのです。

初期の歌舞伎は、主演俳優やベテラン俳優が作者(「狂言作者」と言う)を兼ねていました。狂言作者の名が記録に現れた最初は延宝年間(十七世紀後半)の富永兵衛ですが、富永も初代團十郎も俳優と作者を兼ねていました。しかし、次第に専門化されていき、元禄期(十七世紀~十八世紀)の近松門左衛門の時代になって専任の狂言作者が生まれます。

総合芸術という演劇の性格上、歌舞伎の台帳も、人形浄瑠璃の丸本も、早くから集団で作られました。人形浄瑠璃は、近松の時代までは助手を使いながら個人の責任で書かれていたものの、享保期(十八世紀前半)以降は基本的に複数で書かれるようになりました。歌舞伎は、人形浄瑠璃より少し遅れたものの、宝暦期(十八世紀半ば)以降は立作者(たてさくしゃ)を中心とする集団創作が制度化されました。

以降、歌舞伎の台帳は、明治期に外部の文学者が書くようになるまで、この体制で作られました。現代まで繋がる形が出来上がってから、古典化が始まる時期まで、集団創作されたのです。一方、人形浄瑠璃は、天明期(十八世紀末)以降、今日まで伝えられているような目立った新作は作られなくなり、古典化していきます。
つまり、近松門左衛門などの例外はあるものの、いま上演されている歌舞伎・人形浄瑠璃のほとんどは集団創作で作られたものです。作品評価は措くとして、今世界を席捲しているハリウッド映画はプロデューサーを中心にして集団で作られています。人形浄瑠璃・歌舞伎の創作方法はその先駆だったわけです。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

| | コメント (0)

付章 歌舞伎の台本とせりふ(3) 「歌舞伎と人形浄瑠璃は兄弟の演劇」

歌舞伎と人形浄瑠璃はほぼ同時代に生まれました。歌舞伎の原形は、歌と舞踊に寸劇を加えた、現代で言うレビューみたいなものです。一方、人形浄瑠璃は、語り物(浄瑠璃=義太夫節)と操り人形が一緒になったもので、義太夫節(太夫・三味線)の演奏に基づいて人形を操ります。つまり、音楽的要素の濃い人形劇です。
同時代に生まれた二つの演劇は、初期から互いに影響をあたえあってきました。たとえば、初代市川團十郎は金平(公平)浄瑠璃をヒントに「荒事(あらごと)」を創造したと伝えられます。

この関係は、正徳生(十八世紀前半)以降、さらに親密になります。当時振るわなかった歌舞伎は、起死回生の策として、人形浄瑠璃のヒット作の歌舞伎化を始めたのです。以降、歌舞伎の中で、人形浄瑠璃を原作とする作品は大きな比率を占めるようになります(人形浄瑠璃を歌舞伎化した作品を「義太夫狂言(物)」「丸本物」などと言う)。逆に、人形浄瑠璃も歌舞伎を採り込みました。
しかし、二つの芸能は、形が異なるため、台本の書き方は違います。
歌舞伎の台本(「台帳」と言う)は基本的に、人(擬人)と人(擬人)が対話する、対話形式で書かれます。ト書き(登場人物の動きの指定)と舞台書き(大道具指定)を除き、それぞれの役のせりふで成り立ちます。

一方、語り物である人形浄瑠璃の台本(「丸本」と言う)は、すべての詞章を太夫(語り手)が語るように書かれています。(ただし、長編なので、複数の語り手が自分の担当する部分だけを語ります)。人形遣いはそれに基づいて人形を操るのです。
したがって、人形浄瑠璃を歌舞伎にするためには、人形浄瑠璃の丸本を歌舞伎の台帳に書き直さなければなりません。浄瑠璃の詞章は大別して、登場人物のせりふの部分と小説で言う地の文に別れますが、人間の動きでは無理な所などがあるので、俳優が演じられるように書き直さなければならないのです。
こうして、対話を中心としながらも、状況説明や役の心理などを義太夫節の太夫が語るという、歌舞伎の義太夫狂言の様式が成立しました。本来の歌舞伎台帳の様式と人形浄瑠璃の様式を折衷し、俳優だけでなく、義太夫節の太夫・三味線も出演するという特殊な様式が生まれたのです。

江戸時代の人々は、知的創造物を私有化する権利、すなわち著作権という概念は持たなかったものの、原作を尊重する意識は強く持っていました。そのため、義太夫狂言の多くは原作(「本行(ほんぎょう)」と言う)の人形浄瑠璃に即して歌舞伎化され、せりふも基本的に人形浄瑠璃の詞章を踏襲しています。
歌舞伎は成立した時から音楽性・舞踊性の高い演劇です。人形浄瑠璃は人形浄瑠璃を「観る」演劇であると同時に浄瑠璃を「聴く」音楽でもあります。そのため、人形浄瑠璃の語りはもちろん、歌舞伎のせりふ術も音楽性が強いことが特徴になっています。

歌舞伎では、朗誦するように言うせりふ術、欧米演劇でいう(朗読術・雄弁術)を重視していて、このせりふ術を「歌う」と言います。また義太夫狂言では、立役(たちやく)(男役)の見せ場である「物語」や女形の見せ場である「クドキ」は、義太夫の三味線に乗ってせりふを言います。(これを「糸に乗る」「乗り地」と言う)。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

| | コメント (0)

付章 歌舞伎の台本とせりふ(2) 「台本もせりふもリサイクルされた」

江戸時代、能・狂言は幕府の式楽(しきがく)(儀式芸能)となり、幕府や有力な武家の保護を受けていました。また、古い時代の西洋演劇も、王家や貴族の保護を受けていました。逆に、歌舞伎・人形浄瑠璃は、保護を受けるどころか、風紀を乱す「悪所」として、取締りの対象になっていきました。弾圧されていたのです。

では、歌舞伎(芝居)や人形浄瑠璃(人形芝居)の人々はどうして生活していたのでしょうか。不特定多数の人々に芝居を観て貰うことによって生活費を得ていたのです。
つまり、歌舞伎・人形浄瑠璃ははじめから、大衆の観劇料で生活する商業演劇でした。商業演劇として生きていくためには、多くの人に劇場へ足を運んでもらう必要があります。そのためには、よく知られている伝説、有名な文学芸能作品を劇化し、過去に大当たりした作品を再演するのが一番の近道です。作品に信用がありますから。

けれども、再演ばかりでは、飽きられてしまいます。観衆を惹き付けるためには、新しいもの、珍しいもの、奇抜なものを上演することも必要です。江戸時代の演劇人は寝る間も惜しんで、この矛盾する二つを同時に解決する方法を研究しました。
そのため、江戸時代の歌舞伎は新作の上演が原則になっていました。しかし、新作と言っても全くのオリジナルではありません。

歌舞伎や人形浄瑠璃は、有名な伝説、先行芸能・文芸などを作品の骨格にしました。この作品の骨格を「世界」と言い、(本来は仏教語)、たとえば『忠臣蔵』は『太平記』の世界を借りて作られています。また、当時起きたセンセーショナルな事件も作中に採り込みました。作者が頭の中で考えた、まったくのオリジナルではなく、必ず原型があったのです。

けれども似たような作品ばかりでは新鮮さに欠けます。そこで、流行なども織り込み、新鮮な工夫も加えました。これを「趣向」と言います。
江戸時代は良いものは捨てずに再利用していましたが、演劇も過去に大当たりした作品に工夫を加え、何回も利用したのです。台本だけではありません。せりふも再利用しました。以前の作品で評判が良かったせりふを新しく作った作品で再利用することは珍しいことではありませんでした。そのため歌舞伎・人形浄瑠璃にはたくさんの類型作品・類型場面・類似のせりふが成立しました。

要するに、古い作品を受け継ぐことと新しい作品を作ることを同時に行ったのです。型を受け継ぎつつ、型を破ってきたと言い換えることもできます。こうして、歌舞伎・人形浄瑠璃は、古い形を残すことで洗練を重ね、新しい感覚を採り込むことで幅を広げていきました。芸術性を高めながら、同時に時代に適応する力も付けてきたのです。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

| | コメント (0)

付章 歌舞伎の台本とせりふ (1)

江戸の文化には世界に稀な特徴があります。庶民(町人)が文化を担っていたのです。
現代の我々は、江戸文化と言えば、芸能では歌舞伎、絵画では浮世絵、文学では絵草紙や俳句・川柳などを思い浮かべます。これらはすべて庶民の文化です。それまでは、支配層の文化が時代を代表していました。たとえば、平安文化と言えば貴族の文化だったし、鎌倉文化も支配者であった武士の文化でした。これは西洋も同様で、支配者・権力者の文化が時代を代表していました。江戸時代の文化だけは特異で、権力とは遠いところにいた庶民が文化を担っていたのです。

その江戸を代表する演劇は歌舞伎です。歌舞伎は江戸幕府の開府と時を同じくして誕生し、他の庶民文化と一緒に、元禄期(十七世紀~十八世紀初頭)に花開きました。そして、時代を代表する芸能として、他の文化に大きな影響を与えてきたのです。

もちろん、江戸時代の文化も宗教や当時の支配思想の影響を強く受けていました。しかし、それとは価値観の異なる庶民文化が咲き誇っていたのです。たとえば、日本演劇最大のヒット作『忠臣蔵』は「忠義」を旗印にしているものの、描いている中身は「金」と「色」です。大星由良助(大石内藏助)など赤穂の浪士が敵討を果たすまでを描いていると見せながら、社会と人間の根源を描いたのです。歌舞伎を支えた庶民に人気のあったのは、仇討ちに加わる金を調達するために死んでいった勘平であり、勘平の心を察して色街に身売りしたおかるでした。

江戸の文化のもう一つの特徴は古いものを尊重したこと。古い形を遺しつつ新しい形を作ってきたため、歌舞伎は大変幅広い演劇になり、さまざまな特徴を持っています。歌舞伎のせりふを理解するために、その台本・せりふの特徴を整理しました。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

| | コメント (0)

ほっと ひと息!!

葉牡丹の花とアゲハチョウ

Rimg0010_2l_edited1_web ・油菜(あぶらな)科。
・開花時期は、4/1頃~5/10頃。
・ヨーロッパ原産。17世紀に渡来。
・キャベツやブロッコリーの仲間。葉はキャベツにそっくり。  「花キャベツ」という別名もある。2月頃から中央部がだんだん盛り上がってきて、4月頃からその先端に花をつける。  「駿河の初日(するがのはつび)」などの園芸品種も多い。
・重なり合った葉が牡丹の花のように美しい ことから「葉牡丹」。
・江戸時代の貝原益軒も本で紹介しているらしい。当初は「牡丹菜(ぼたんな)」の名前だった。その頃から、日本の正月飾りとして   親しまれている。(紅白の色合いがおめでたいとされる)       
・冬のあいだじゅう鑑賞用として  花壇に植えられている。
・12月30日の誕生花(葉牡丹の葉) ・花言葉は「物事に動じない」(葉牡丹の葉)

※撮影場所:団地の花壇

| | コメント (0)

呑んで言うのじゃあございませんが 『新皿屋鋪月雨暈』 (2)

以上は「弁天堂」までの粗筋ですが、眼目は次の「宗五郎内(うち)」にあります。宗五郎は「魚屋風情には珍しく、理屈を言い、道を道と立てる」男で、お蔦が殺されたのは何かの間違いと律儀に殿様を信じています。ただ、酒を呑むと乱れる弱点があります。

お蔦の家族が悲しみに沈んでいるところに、同じ家中に奉公しているお蔦の友達、おなぎが見舞いに来て、真相が明らかになります。心の憂さを晴らすため、宗五郎は禁酒を破って酒を呑みますが、酒乱の本性が顕(あらわ)れ、宗五郎は酒の勢いを借りて、磯部の屋敷に怒鳴り込んでいきます。つまり、この芝居の一番の見どころは宗五郎が酒に酔っていく過程にあります。

続く「磯部邸玄関」で、宗五郎がわめくので、典蔵は宗五郎を手討ちにしようとしますが、紋三郎の父・十左衛門がそれを止めます。表記したのは、ここで宗五郎が十左衛門に向かって言うせりふです。

せりふにあるように、宗五郎は殿様に恩義を感じています。しかも、酒の勢いを借りなけれは怒鳴り込めない小心者。「呑んで言うのじゃあございませんが」とありますが、本当はまだ生酔い状態だからこそ侍に向かって口がきけるのです。宗五郎だけでなく、大概の江戸時代の庶民は武士に向かって対等な口はきけませんでした。宗五郎は、次の「磯部邸庭先」で、殿様の詫びの言葉を聞いて感涙に咽(むせ)びます。

ちなみに、題名の「皿屋鋪」は、皿にまつわる怪談をお家騒動の中に入れ込んだ人形浄瑠璃『播州皿屋鋪』から来ています。また「月雨暈」は「月の暈が重なる時は大風が吹く」という俗説を借りています。つまり、磯部家のお家騒動を皮肉っているのです。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

| | コメント (0)

呑んで言うのじゃあございませんが 『新皿屋鋪月雨暈』 (1)

呑んで言うのじゃあございませんが、妹が殿様のお目にとまり、支度金に二百両下すった時の有難さ、実は内の雑物(ぞうもつ)を残らず質に置いてしまい、その日に困った所ゆえ、ほんのことだが親子四人、磯部様のお陰だと有難く、涙に暮れました。

歌舞伎など、演劇は「肉体表現芸術(パフォーミングアーツ)」です。歌舞伎の台本はこれを前提として役者の「芸」を引き出すように書かれましたので、文学が最高の芸術と考える人は歌舞伎の台本は文学性が無いと批判します。しかし、台本は本来、芝居を上演するためのものですがら、文学性の有無で台本の優劣を判断すること自体間違いなのです。

『新皿屋鋪月雨暈(しんさらやしきつきのあまかさ)』(通称『魚屋宗五郎』)は、役者の芸の魅力を引き出すように書かれた台本の見本です。作者は河竹黙阿弥。初演は一八八三(明治十六)年。配役は五代目尾上菊五郎のお蔦(つた)・宗五郎、三代目片岡我当の磯部主計之介・浦戸紋三郎、四代目尾上松助の岩上典蔵、三代目河原崎國太郎の宗五郎女房お浜などです。

この作品の初演の二年前、六十五歳の二代目河竹新七は、明治政府が推進する演劇欧米化の嵐を避けるため、引退を表明し、黙阿弥を名乗りました。(黙阿弥の名は、「黙っていよう」の「黙」と、「再び筆を執ることもあるだろう」の、「元の木阿弥(もくあみ)」を掛けている)。しかし、すでに代表的歌舞伎作者になっていましたから、案の定、執筆依頼は途切れることなく、以後も書き続けます。そういう時期ですから、この作品も力を込めて書いたのでしょうが、肩の力が抜け、老練の技が感じられます。

魚屋の宗五郎の妹・お蔦は、磯部の殿様(主計之介)の目にとまり、妾奉公をしています。お家横領を企む家来の岩上典蔵は、お蔦が殿様から預かっている名宝の井戸の茶碗を盗みだしたものの、割ってしまいます。そこに猫を探しにきたお蔦が通りかかり、お蔦は典蔵の当て身で気絶、同じ家中の浦戸紋三郎に救われます。典像が殿様に、お蔦と紋三郎が不義をして、茶碗もお蔦が割ったと訴えたため、短気な殿様はお蔦を手打ちにして井戸に投げ込みます。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

| | コメント (0)

人は見掛けによらないものだ 『島鵆月白浪』 (2)

望月は代言人(弁護士)になってお照ると一緒に棲んでいます。そこを千太が尋ねあて、指輪を証拠にお照を強請りますが、望月の貫禄に負けて帰っていきます。望月はお照の母親の言葉によって、以前、お照が枕捜し(睡眠中の人の、枕もとや布団の下の金品を盗むこと)をしていたことを知ります。

表記のせりふはその場面の幕切れで望月が言います。このせりふの前段も後段も、美しい人でも正体はわからないという譬(たと)え。重ねて言っているわけです。お照は何人もの男が惚れる美人なのに、盗人をしていました。いまは名士の望月も、元は盗賊だったことがのちに明らかになります。

この芝居は、明治政府が強要する「演劇改良」に嫌気がさした二代目河竹新七が、引退を決意して書いた、「一世一代」の作品として有名です。(以降、黙阿弥を名乗ります)。歌舞伎は立作者(たてさくしゃ)を中心にして集団で創作されました。鶴屋南北も河竹黙阿弥も同じです。しかし、この作品の場合は、「二代目河竹新七」としての引退記念作品なので、例外的に一人で書きました。黙阿弥が単独で書いた芝居はこれだけと言われます。

一八八一(明治十四)年、東京・新富座で、九代目市川團十郎の望月、五代目尾上菊五郎の島蔵、初代市川左團次の千太、八代目岩井半四郎のお照・四代目尾上松助の野洲徳ほかの配役で初演されました。團十郎・菊五郎・左團次は「團・菊・左」と並び称された名優。三名優の揃い踏みで新七の引退に花を添えたわけです。(実際は引退せずに書き続けますが)。

白浪(盗賊)物の集大成のような作品ですが、明治期に書かれた作品なので、江戸時代の日本になかった言葉も出てきます。その一例がダイヤモンドで、千太の強請りの種である指輪はダイヤモンド入りという設定です。つまり、外来語も入った珍しい歌舞伎ですが、このような明治期の風俗を描いた歌舞伎をその髪型から「散切(ざんぎり)物」と言います。

この話は結局、先に堅気になっていた島蔵が勧めて、千太も野洲徳も改心して自首します。黙阿弥作品によくあるパターンです。面白いのは望月という人物。明治期はそれまでの政治・経済体制が崩れて、新しい権力が成立した時期です。政府の高官にも弁護士にも望月のような人物はいっぱい居たと思われます。黙阿弥は明治政府の実体を辛辣に見ていたのです。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

| | コメント (0)

人は見掛けによらないものだ 『島鵆月白浪』 (1)

(へび)喰うと聞けば恐ろし雉(きじ)の声(お照)「え」)、人は見掛けによらないものだ。

これは河竹黙阿弥の白浪(盗賊)物、『島鵆月(しまちどりつきの)白浪』の「望月輝(あきら)町住居(すまい)の場」で望月が言うせりふです。このせりふは諺(ことわざ)としても有名です。
ある諺辞典は例として、一八六〇(安政七)年初演、ということはこの作より二十一年前に書かれた、同じ黙阿弥の『加賀見山再(ごにちの)岩藤』に出てくる「いや人は見掛けによらぬもの。律儀そうなこなた衆兄弟、こんな不義理はさっしゃるまいと、思い込んだがこっちの見違い」というせりふを引いています。

また、歌舞伎の『加賀見山(鏡山)旧錦絵(こきょうのにしきえ)』の岩藤のせりふにも「人は見かけによらぬもの」とあります。
この作品は一七八〇(安永九)年初演の歌舞伎『加賀見山廓写本(さとのききがき)』と、一七八二(天明ニ)年初演の人形浄瑠璃『加賀見山旧錦絵』を併せて脚色したもの、一七八三(天明三)年に初演されました。つまり、黙阿弥は『旧錦絵』のせりふを『再岩藤』や『島鵆』に使ったのです。

望月のせりふの前段にある「蛇喰うと聞けば恐ろし雉の声」も諺辞典に載っていますので諺と言ってよいと思いますが、実は芭蕉の俳句です。

歌舞伎の作者はその作品の中によく知られた諺や俳句を採り込みました。井上ひさし氏流に、「歌舞伎の台本は諺で成り立っている」と書きたいほどです。新聞やラジオが現れるまで、歌舞伎はマスメディアの役割も果たしていたので、この二つの諺は『旧錦絵』『再岩藤』『島鵆』のせりふによって広がって行ったとも考えられます。

明石の島蔵と松島千太の二人は質屋に押し入った後、郷里に向かいます。その途中、旅芸者・お照が強欲な母親にねだられているのを見かねた千太は、百円を渡し、代わりに名入の指輪を受け取ります。千太は峠でお照を犯そうとしますが、車夫・野州徳の垂れ込みによって探索方が現れたので逃走。そのすぐ後、車夫もお照を犯そうとしますが、士族の望月が現れてお照を救います。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

| | コメント (0)

こいつは宗旨を替えにゃあならねえ 『船打込橋間白波』 (2)

松五郎は鉄瓶を修理しながら、「諸式(品物の値段)の高いのは貧乏人殺しだ」「天秤棒を肩へあてて、日がら一日稼いでも、これでやっと喰うのがすうすう」と嘆いたのち、庚申塚の話題に絡んで、「わっちゃあ門徒だ」と浄土真宗の信徒であると言います。
修理を終えて、帰宅しようとした鋳掛松は、川に浮かぶ屋形船で、野暮な田舎客の島屋文蔵が妾のお咲とよろしくやっているのを目にとめます。

表記したのは、この場面の幕切れで鋳掛松が言うせりふ。屋形船で豪勢に遊ぶ連中を目撃した鋳掛松は、我が身が嫌になり、鋳掛の道具を川に投げ込みます。
少し前に鋳掛松は屑屋との対話で自分の宗旨を話ますが、それはこのせりふの布石です。江戸時代の戸籍は「宗旨人別帖(にんべつちょう)」によって管理されていたので、宗旨を本当に変えることは大変でした。ここで宗旨を変えると言っている意味は、別の宗派に入ることではなく、自分の生きかた・考え方を変えることです。信心深い慎ましい生活をしていた鋳掛松が、別の生き方をすることを宣言したのです。これに似た言い方は『菅原伝授手習鑑』にも出てきますから、江戸時代にはよく使われていた言い方のようです。

この後、松五郎は、首を吊ろうとした花屋佐五兵衛を助け、花屋の難儀を助けるため、通りかかったお咲の跡を尾(つ)けて家に忍び入りますが、旦那と思っていた文蔵はお咲の実兄で梵字(ぼんじ)の真五郎と名乗る盗賊、お咲は自分が前に仮の契りを結んだ女とわかり、松五郎とお咲は改めて夫婦となります。

と話は進みますが、実は、近年この芝居はあまり上演されません。演劇はすべて時代を映しますが、時代に近づき過ぎた芝居はあとに残らないようです。この芝居と「天川屋(あまかわや)の義平は男でござる」というせりふで知られる『忠臣蔵・十段目』は、せりふが有名なために後世まで名前が残った作品の双璧です。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

| | コメント (1)

こいつは宗旨を替えにゃあならねえ 『船打込橋間白波』 (1)

こう見たところが江戸じゃあねえ。上州あたりの商人体(あきんどてい)、だが、横浜(はま)ででも儲けた金か。切れ放れのいい遣(つか)いぶり。あれじゃあ女も自由になる筈。鍋釜鋳掛(いかけ)をしていちゃあ、生涯出来ねえあの栄耀(えよう)あああれも一生、これも一生。こいつは宗旨(しゅうし)を替えにゃあならねえ。

【注】鋳掛=金物の壊れた部分を、はんだや銅などを使って修理すること。またその人。 栄耀=栄えて輝くこと、転じて贅沢すること。 宗旨=宗派、信仰、主義など。ここは「生き方」の意。

二代目河竹新七(黙阿弥)作 『船打込橋間白波(ふねへうちこむはしまのしらなみ)』は、鋳掛屋の松五郎を主人公としていることから、通称『鋳掛松』と言われます。一八六六(慶応ニ)年、『生立(おいたち)曾我』の二番目(世話物)として、『富治三升扇(ふじとみますすえひろ)曾我』と題され、四代目市川小團次の鋳掛松、二代目尾上菊次郎のお咲、三代目関三十郎の島屋文蔵ほかの配役で初演されました。
最大の特徴は庶民の生活を生き生きと描写していることで、庶民を描いた「世話物」の中でも、特に下層庶民の生活を写実的に描いた「世話物」の中でも、特に下層庶民の生活を写実的に描いた「生世話物」に入ります。

序章の「花水(はなみず)橋」で、鋳掛屋の松五郎は、屑屋(くずや)のぐず八に出会い、拾ってきた鉄瓶の修理を頼まれます。鉄瓶を鋳掛している間、二人は四方山話をしますが、その会話に当時の風俗が出てきます。面白いので、二つだけ紹介しましょう。

その一つは、鋳掛屋という職業。江戸時代、生活物資のほとんどは、何度も再生して使用していました。リサイクル社会だったので、鍋・釜など、金物を修理する鋳掛屋も成り立ったのです。しかし、明治以降、近代化が進み、特に戦後は大量生産大量消費の時代になって、鋳掛屋は衰退しました。戦後しばらくまで見かけたものの、いまは全く見かけないので、おそらくこの職業は消えてしまったのでしょう。

その二は、鉄瓶を作った所の地名として川口が出てくること。私は吉永小百合さん主演の映画『キューポラのある街』でいまの埼玉県川口市が鋳物の街であると知りましたが、幕末にはすでに鋳物の生産が行われていたわけです。ちなみに、キューポラとは川口独特の小熔銧炉を言います。いまも川口にはキューポラがあるのでしょうか。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

| | コメント (0)

闇があるから覚えていろ 『曾我綉侠御所染』 (2)

初演は一八六四(文久四)年。配役は、四代目市川小團次の百合の方・五郎蔵など三役、三代目関三十郎の星影土右衛門など二役、二代目尾上菊次郎のさつき、四代目市村家橘(五代目尾上菊五郎)の時鳥ほかでした。つまり、小團次のために書かれました。
巴之丞の家臣五郎蔵と腰元・さつきは不義(人の道から外れた恋愛)で主家を離れ、五郎蔵は男伊達(おとこだて)(侠客)になり、さつきは廓勤めをしています。廓は京・五条坂という設定ですが、これはお上への配慮で、江戸・吉原に読み替えていいでしょう。

元は五郎蔵と同じ家中の武士で、今は剣術の師範をしている土右衛門は、さつきに横恋慕しています。さつきは五郎蔵が旧主のために金策していると知り、土右衛門になびいたと見せかけて百両を手に入れようとします。そのため、さつきは五郎蔵に偽りの愛想づかしを言い、それを真に受けた五郎蔵が去り際に土右衛門に向かって表記のせりふを言います。(括弧の中は土右衛門のせりふです)。

「晦日に月の出る廓」とありますが、ここで言っている「月」は本物の月ではありません。江戸時代は旧暦でしたから、毎月十五日頃が満月で、晦日に大きな月が出ることはありません。江戸時代前期の俳人・其角(きかく)に「闇の夜は吉原ばかり月夜かな」という句があり、黙阿弥はそれを受けてこのせりふを書きました。

このあと、五郎蔵は花道を引っ込む時、貸した金の催促に来ていた脇役の与助を投げ飛ばします。面白いのは、その与助が五郎蔵の「闇があるから覚えていろ」というせりふを繰り返して、笑いを誘うことです(この手法を「鸚鵡(おうむ)」と言う)。この二度目の与助のせりふは、黙阿弥が計算して書いたのが、のちに役者が工夫して入れたのかわかりません。前者であれば黙阿弥がはじめからこのせりふを重視していた証明であり、後者であれば五郎蔵役者がこのせりふを目立たせるために考えたのでしょう。

その後、五郎蔵は待ち伏せしてさつきを襲います。が、人違いで、主君の愛人・遠州を殺してしまい、五郎蔵とさつきは自害することになります。つまり、歌舞伎によく出てくる「愛想づかし」のパターンで、偽りの愛想づかし→真に受けての殺人と進みます。

珍しいのは五郎蔵が尺八、さつきが胡弓を奏(かな)でながら果てること。ある時、黙阿弥は小團次から「何か私が困るような皮肉なものを書いてくれ」と頼まれ、柳亭種彦の読本『浅間嶽面影草紙』に尺八と胡弓を奏でながら果てるくだりがあったことから、小團次と菊次郎にあてて脚色したと伝えられます。しかし、種彦の小説は歌舞伎の『傾城浅間嶽』を脚色したもの。つまり、江戸時代は同じ題材を再利用して使ったのです。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

| | コメント (0)

闇があるから覚えていろ 『曾我綉侠御所染』 (1)

これ土右衛門(どえもん)、晦日(みそか)に月の出る廓(さと)も、闇があるから(土右衛門「や」)覚えていろ。

【注】晦日=月末。 廓=遊里。江戸の庶民は、漢語的な堅苦しい言葉を使わず、「さと」と言った。

歌舞伎を見たことのない人も、このせりふは聴き覚えがあるでしょう。テレビドラマの悪役が「闇夜もあるからな。覚えていろ」などと言いますが、その種類のせりふの元祖は河竹黙阿弥作『曾我綉侠(もようたてしの)御所染』の「甲屋(かぶとや)奥座敷」で主人公・御所の五郎蔵が言うこのせりふです。

『曾我綉侠御所染』は長編で話が入り組んでいます。前半は五郎蔵の元主君・浅間巴之丞の愛妾・時鳥(ほととぎす)が浅間家の正室(正妻)の母親・百合の方になぶり殺されるくだりが中心になっているので通称を『時鳥殺し』、後半は侠客・御所の五郎蔵が中心になっているので通称を『御所五郎蔵』と言います。

別の言い方をすると、前半は時代味、後半は世話味が強い作品です。と言っても、両花道を使って渡りぜりふの応酬や、「鞘当(さやあて)」や「縁切り」など趣向に様式性が強い作品で、全体としては「時代世話」に分類されます。近年は、怪異・嗜虐趣味が勝った『時鳥殺し』はあまり上演されず、「縁切り」を中心とした『御所五郎蔵』だけの上演がほとんどです。

題名に「曾我」とありますが、曾我物ではなく、柳亭種彦の『浅間嶽面影草紙』を脚色した浅間物です。実は御所の五郎蔵はあだ名。曾我五郎を抱きとめた御所の五郎丸から来ています。仲の町の土右衛門のせりふに「曾我兄弟が討ち入りに似た喧嘩から名を売って、あだ名によばれる御所の五郎蔵」とあります。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

| | コメント (0)

« 2009年5月 | トップページ