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2009年5月

恨みがあるなら金に言え 『勧善懲悪覗機関』 (2)

そういう世の中ですから、「昔は良かった」と昔を賛美する人も多くなりました。近代を飛び越えて、江戸時代を理想視する人もいます。しかし、それは事実と違います。江戸時代の日本には確かに優れた面もありましたが、身分制度など、遅れていた点もたくさんあったのです。だからこそ、徳川幕府は崩壊しました。

資本主義社会の現代から見ると、江戸時代は経済的に未発達でした。しかし、すでに金銭が人の心を蝕(むしば)む時代に入っていました。その証拠に、元禄期の西鶴や近松の作品にも、歌舞伎にも、金にまつわる話はたくさん出てきます。たとえば、『忠臣蔵』も忠義を旗印にしてはいますが、実は「金」と「色」の話です。(作者は「五段目」で斧定九郎に「金が敵」と言わせています)。

この芝居の初演は、幕末の一八六二(文久ニ)年。配役は四代目市川小團次の長庵・番頭久八の二役などです。黙阿弥はこの作品の後、一八六四(文久四)年に初演した『御所五郎蔵』の「縁切り」で、敵役・星影土右衛門の子分に「百人が九十九人欲を知らねえ者はねえ。乗り換えるのが当世だ。腹も立とうが我慢しろ。金が敵の世の中だ」と言わせます。そして一八七九(明治十二)年、英国のリットンの『マネー』を翻訳し、ズバリ、『人間万事金世中』という名題をつけます。さらに、一八八五(明治十八)年初演の『四千両小判梅葉』の「伝馬町牢内」で御金蔵を破って捕らえられ牢にいれられた富蔵も「地獄の沙汰も金次第だ」と言い放ちます(ただし、この諺は、文化文政期に式亭三馬が書いた『浮世風呂』に出てきます)。

黙阿弥は幕末の世情を写実的に描きました。名題にある「覗機関」は、見物人に穴から大きな箱を覗かせて、何種類も入れておいた絵を替えて見せる見せ物のことです。
この作品の趣向は覗機関のように世の仕組みを暴いて見せることだったのでしょう。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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恨みがあるなら金に言え 『勧善懲悪覗機関』 (1)

現在妹の亭主ゆえ、いわば義理ある弟だが、金と聞いては見逃されず、手荒い療治の血まぶれ仕事、酷(むご)い殺しも金ゆえだ。恨みがあるなら金に言え。

【注】現在=ここは「まぎれもない」の意。 まぶれ=まみ(塗)れの変化。

「白浪作者」と言われた河竹黙阿弥は、盗賊を主役とする作品を多数書きました。しかし、黙阿弥作品に出てくる盗賊は大概、小悪党です。『三人吉三』『白浪五人男』『河内山と直侍』など、何か事情があって盗賊になり、やむにやまれぬ事情で殺人を犯し、前非を悔いて自害するような人物がほとんどです。

ところが、『勧善懲悪覗機関(かんぜんちょうあくのぞきからくり)』(通称『村井長庵』)の村井長庵は、正統派の悪人というか、極悪人で、金が欲しいというだけで親類縁者も簡単に殺します。しかも仕組んで殺人を犯す知能犯。良心の呵責に悩むこともありません。
村井長庵は三州(現・愛知県)藤川の生れの医者。妹婿、すなわち義弟の重兵衛は貧苦のため、長庵の世話で、娘を吉原に売ります。長庵は「赤羽根橋」で重兵衛の帰りを待ち伏せして殺し、姪を吉原に売った金を奪ってしまうのです。

表記したのは義弟の重兵衛を殺す時の長庵のせりふです。この殺人がいわば悪事の発端で、これから長庵の連続殺人・強請(ゆす)り騙(かた)りが始まります。七五調の名文ですが、長くて全部を表記できなかったので、前の部分を紹介しましょう。

「ちょうど時刻も寅の刻、千里一飛び闇雲(やみくも)に、後をつけたる暗(くら)まぎれ、篠突(しのつ)く雨に往来の、ないを幸いにばっさりと、夜網にあらぬ殺生も、わずか五十に足らねえ金、人の命も五十年、長い浮世を長袖の、小袖ぐるみで交際(つきあい)も、丸い頭を看板に、医者というのが身の一徳、しかし十徳を着る長棒に、しょせん出世の出来ネエのは、言わずと知れた藪(やぶ)育ち、蚊よりもひどく人の血を、吸い取る悪事の配剤(はいざい)は、数年馴れたるわが匙先(さじさき)、現在妹の亭主ゆえ・・・・」

資本主義が極限まできた現代日本は、金にまつわる話題にこと欠きません。みみっちいひったくり事件にはじまり、銀行・郵便局・コンビになどへの強盗事件、会社ぐるみの詐欺などの経済事件まで、金をめぐる事件は毎日のように起きています。資本主義が持っている構造的な問題と言ってもいいでしょう。長庵の「恨みがあるなら金に言え」というせりふは現代も通用する名せりふです。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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ほっと ひと息!!

ガザニアとてんとう虫

Rimg0003_2l ・菊(きく)科。
・学名  Gazania : ガザニア属 Gazania の名は、アリストテレスなどの書物を ラテン語に翻訳したギリシャ人「ガザさん」の 名前に由来。
・春から秋まで長い間、 オレンジ色、黄色などの花が咲きます。
・南アフリカ原産。明治末期に渡来。
ガーベラに少し似てます。
・晴れた日の日中にのみ花開く。
・別名  「勲章菊(くんしょうぎく)」 花の色や形が勲章に似ている。

撮影場所:団地の花壇 ※生まれたての赤ちゃん?

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問われて名乗るもおこまがしいが 『青砥稿花紅彩画』 (2)

河竹黙阿弥作『青砥稿花紅彩画』(通称『白浪五人男』『弁天小僧』)は純歌舞伎の世話物に分類される作品ですが、せりふが音楽的な七五調で作られているので、型物のようにアマチュアも覚えやすいため、地芝居でもよく上演されます。

また、替え歌のように他の言葉に置き換えやすいので、宴会の自己紹介などでもよく使われます。アマチュアが一番使うせりふというのはそういう意味です。

呉服店に押し入るなど、悪事を重ねてきた、日本駄右衛門、弁天小僧ら五人組の盗賊は、稲瀬川(隅田川)の土手に勢揃いし、覚悟をきめて首領の日本駄右衛門から順に来歴と名前を名乗っていきます。
表記したのはその場面の駄右衛門のせりふです。これに続いて、弁天が「さてその次は・・・・」、忠信利平が「続いて次に控えしは・・・・」、赤星十三郎が「またその次に列なるは・・・・」、南郷力丸が「さてどんじりに控えしは・・・・」と、次々に述べていきます。

この芝居は、三代目豊国の見立て絵を見た五代目菊五郎が、黙阿弥に頼んで出来上がったとされています。また、豊国が黙阿弥の勧めによって、その絵を描いたという説もあります。いずれにしても、三人の芸術家の連携によって成立したわけです。

この芝居に出てくる五人の盗賊のうち、日本駄右衛門、忠信利平、南郷力丸には実在のモデルがいます。駄右衛門のモデルは、延享年間(十八世紀半ば)に東海道筋を荒らし廻った日本駄右衛門(浜島庄兵衛)。利平はその手下の忠信利兵衛、力丸もその手下の南宮行力丸です。日本駄右衛門以下の役名はそのモジリです。

この五人の盗賊が言う長ぜりふを「名乗りぜりふ」と言います。名乗りぜりふは「ツラネ」の変型で、ツラネという語は猿楽などの「連ね事」から来ました。主に荒事の主役が花道で言いますが、黙阿弥はそのせりふ術を世話物に応用したわけです。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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問われて名乗るもおこまがしいが 『青砥稿花紅彩画』 (1)

問われて名乗るもおこまがしいが、産まれは遠州浜松在、十四の年から親に放(はな)れ、身の生業(なりわい)も白浪の、沖を越えたる夜働き、盗みはすれど非道はせず、人に情けを掛川から、金谷をかけて宿々(しゅくじゅく)で、義賊と噂高札(たかふだ)に、廻る配符(はいふ)の盥越(たらいご)し、危ねえその身の境界(きょうがい)も、最早(もはや)四十に人間の、定めは僅(わず)か五十年、六十余州に隠れのねえ、賊徒の首領日本駄右衛門(にっぽんだえもん)

掛川=現在の静岡県掛川市。東海道の宿場の一つ。「掛ける」の洒落。 金谷=現在の静岡県金谷町。東海道の宿場の一つ。 高札=布告文や罪人の罪状などを書いて人通りの多い所に立てた札。 廻る配符=配符は手配書。人相などを書き、回覧された。 盥越し=盥で川を渡ること、すなわち危ないこと。 境界=境涯・境遇。 六十余州=日本全国の意。

このせりふはおそらく、アマチュアが一番使うせりふでしょう。
全国各地に伝わる地芝居でも、この芝居はよく上演されます。地芝居は「その地に伝わる歌舞伎」のこと。戦前までプロが演じる地芝居もありましたが、いま行われている地芝居の出演者は他に仕事を持っている人たちです。

地芝居では大概、義太夫狂言の時代物を上演します。義太夫狂言は人形浄瑠璃を歌舞伎化した作品のこと。時代物は室町時代以前の武士・貴族社会を描いた作品のこと。この義太夫狂言の時代物を俗に「型物」と言います。型は先人が考えた体の動き(振り)やせりふの言い方のこと。義太夫狂言の時代物は、体の動きやせりふの言い方などが伝えられているため、型物と言われるのです。義太夫狂言の時代物は型があってアマチュアでも演じやすいため、地芝居は大概そのような種類の芝居を上演します。

その対極にあるのが純歌舞伎(歌舞伎オリジナル作品)の世話物(当時の庶民を描いた作品)です。この種類の芝居は雰囲気で見せるため、アマチュアが演じるには難しく、地芝居で上演されることは稀です。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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知らざあ言って聞かせやしょう 『青砥稿花紅彩画』 (2)

五人の盗賊は浜松屋という呉服商に押し入ろうと、弁天小僧が武家のお嬢様に、南郷力丸がその供侍に化けて、下見に出かけます。弁天小僧は、万引きしたと見せかけて、わざと殴られ、顔に傷を付けられたのを種に店を強請(ゆす)ります。しかし、店に来ていた玉島逸当(いつとう)という武士が、万引きしたのは女ではなく男と見破ってしまいます。

表記のせりふは、男と見破られた弁天小僧が言います。ここのせりふ術を「厄払い」と言いますが、このせりふにも掛け詞・語呂合わせがいくつも出てきます。
「児ヶ渕」「上の宮」「お手長講」「寺島」がそれです。楽屋で起こった出来事や俳優の消息などを作品の中に仕込むことを「楽屋落ち」と言いますが、「寺島・・・・・・」以下は楽屋落ちで、初演した十三代目羽左衛門という役者と菊之助という役名についての解説です。

耳に心地よいせりふなので、高尚なことを言っているように感じますが、自己紹介にすぎません。観衆をせりふのマジックに掛ける、高等テクニックと言えるでしょう。
この場面にはもう一つ裏があって、弁天小僧らの正体を見破った、玉島逸当を名乗る侍は実は五人組の盗賊の頭・日本駄右衛門です。駄右衛門は、店の信頼を得て、店の様子を探りやすくするため、わざと弁天らの正体を明かしたのでした。

黙阿弥は二年前に書いた『三人吉三』に女装の盗賊・お嬢吉三を登場させました。この場面の弁天小僧も女装です。弁天小僧はお嬢吉三の延長線上にある役で、お嬢吉三が八代目半四郎の出世役になったように、この役は五代目菊五郎の出世役となりました。
この場面には、性の逆転も含めて、三重・四重に逆転が仕組まれています。演劇的仕掛けがいっぱいであることが、この芝居が高い人気を保っている理由の一つでしょう。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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知らざあ言って聞かせやしょう 『青砥稿花紅彩画』 (1)

知らざあ言って聞かせやしょう。浜の真砂と五右衛門が、歌に残せし盗人の、種は尽きねえ七里ヶ浜、その白浪の夜働き、以前を言やあ江ノ島で、年季勤めの児ヶ渕(ちごがふち)、江戸の百味講(ひゃくみ)の蒔銭(まきせん)を、当てに小皿の一文字(いちもんこ)、百が二百と賽銭(さいせん)の、くすね銭せえだんだんに、悪事はのぼる上の宮、岩本院で講中(こうちゅう)の、枕探しも度重なり、お手長講(てながこう)を札付きに、とうとう島を追いだされ、それから若衆の美人局(つつもたせ)、ここやかしこの寺島で、小耳に聞いた祖父(じい)さんの、似ぬ声色(こわいろ)で小ゆすりかたり、名さえ由縁(ゆかり)の弁天小僧菊之助とは俺のこった。

【注】歌に残せし=石川五右衛門は安土桃山時代に実在した盗賊。「石川や、浜の真砂は尽きぬとも、世に盗人の種は尽きまじ」という辞世を詠んだとされる。 白浪=白い波と泥棒の異名である白浪を掛けている。白浪という語は、後漢の末、中国の白浪谷を根拠地にして盗みを働いた盗賊がいたという故事から生まれた。 年季勤め=期間を決めて奉公すること。 児ヶ渕=江ノ島にある渕。稚児が身投げしたことから名付けられたという。 百味講=仏前にさまざまな食物を供える信仰団体。 蒔銭=参詣者が蒔く賽銭。 小皿=一文銭を掛ける小賭博。 くすね銭=盗んだ銭。 上の宮・岩本院=ともに江ノ島にある社寺。「のぼる=エスカレートする」と「上の宮」が掛け詞になっている。 講中=連中を組んで神仏に詣でる信仰団体。 枕捜し=夜、寝ている間に金品を盗むこと。またその人。 お手長=盗癖があること。 札付き=悪い評判が広がっていること。 寺島=初演した十三代市村羽左衛門(のち五代目尾上菊五郎)の本姓の寺島と「島の中にある寺」を掛けている。 祖父さん=五代目菊五郎の祖父・三代目菊五郎。 名さえ由縁=三代目菊五郎のニ男が菊之助(初代)を名乗った。 

このせりふは、日本人ならば、誰も一度は耳にしたことがあるでしょう。河竹黙阿弥作『青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)』の『浜松屋』の弁天小僧のせりふです。
初演は、一八六二(文久二)年。作者は二代目河竹新七(のちの黙阿弥)。三代目歌川豊国の役者見立絵(役者をある人物に見立てた浮世絵)にヒントを得て作られました。
配役は、十三代市村羽左衛門の弁天小僧、三代目関三十郎の日本駄右衛門(にっぽんだえもん)、四代目中村芝翫の南郷力丸と青砥藤綱、初代河原崎権十郎(九代目市川團十郎)の忠信利平、三代目岩井粂三郎(八代目岩井半四郎)の赤星十三郎ほかでした。

題名の「青砥」は鎌倉中期の評定頭(ひょうじょうがしら)・青砥藤綱の事績にちなんで作劇したため、鎌倉幕府では評定所が政務を取り仕切りましたが、青砥は評定衆の頭で、清廉潔白な人物として知られています。序幕の「花見」は『新薄雪物語』の「清水花見」の、最終幕の「極楽寺山門」は『金門五三桐』「南禅寺山門」のパロディで、青砥は最終幕に出てきます。

別名題は『弁天娘女男白浪』など。通称を『弁天小僧』とも『白浪五人男』とも言います。白浪は、盗賊・盗人・泥棒のこと。黙阿弥は盗賊を主人公とした作品を多数書いたことから、「白浪作者」と言われました。『弁天小僧』と言われるのは主役が弁天小僧だから、『白浪五人男』といわれるのは五人の盗賊が出てくるため。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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なるほど世間は難しい 『三人吉三廓初買』 (2)

場面は鎌倉の稲瀬川になっていますが、江戸の大川(隅田川)のことです。江戸時代、武士階級で起こった事件の上演は出来なかったので、また伝説や先行文芸の「世界」に仮託して作劇する約束もあったため、便宜上、時代を鎌倉時代に移して、鎌倉の川の名を使ったにすぎません。観衆はそういう約束事を承知していました。

『三人吉三』の初演は、一八六〇(安政七)年。ということは、徳川幕府が崩壊する八年前。伊井大老が桜田門外で暗殺された年です。お坊さんのような零落(れいらく)した武士の犯罪は日常茶飯事だったのでしょう。

初演の配役は、和尚=四代目市川小團次、お嬢=三代目岩井粂三郎(のち八代目岩井半四郎)、お坊=初代河原崎権十郎(のち九代目市川團十郎)、土佐衛門伝吉=三代目関三十郎など。女装の盗賊・お嬢吉三に粂三郎を起用したのは、非の打ち所がない美貌ながら、おとなしすぎて人気が出ない粂三郎に意表をついた役をやらせて鍛えるためでした。つまり「あて書き」です。この成功で粂三郎はスターの仲間入りをします。

このせりふも七五調で書かれているので、文章として読めば、矛盾も飛躍もあります。
たとえば、「遊びの金にも困っていたが」の後に「なるほど世間は難しい」と出てきます。かなりの飛躍ですが、これは詩的昇華・飛躍と理解すべきでしょう。

日本橋で湯屋(浴場)の株を売買する家に生まれた黙阿弥は、若い頃、大いに遊んだようです。黙阿弥は十四歳の時、柳橋で放蕩しているところを親に見つかり、勘当されて、貸し本屋の手代(商家の使用人)になりました。その時、手当たり次第本を読み、通人(ここは広い知識を持った人のこと)たちと交わって、狂歌・雑俳・三題噺・茶番などで才能を発揮したと伝えられます。
二十歳の時、五代目鶴屋南北に入門、以後、狂言作者(劇作家)の道を歩み、四代目市川小團次に認められ、大作家になっていきます。

黙阿弥作品が持っている庶民性や、音感に富んだ詩的なせりふは、狂言作者になる前通人たちと交わった時の蓄積が生きているのでしょう。とくに詩歌は七音・五音でつくられますので、それに触れた影響は大きかったと思います。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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なるほど世間は難しい 『三人吉三廓初買』 (1)

駕籠にゆられてとろとろと、一杯(いっぺえ)機嫌の初夢に、金と聞いては見遁(みのが)せねえ、心はおなじ盗人(ぬすびと)根性、去年の暮れから間が悪く、五十とまとまる仕事もなく、遊びの金にも困っていたが、なるほど世間は難(むずか)しい。友禅入りの振袖で、人柄作りのお嬢さんが、追落(おいおと)しとは気がつかねえ。

【注】とろとろ=うとうと。 五十=五十両。 友禅=友禅染。京都の町絵師・宮崎友禅斎が天和・貞享の頃(十七世紀末)考案したとされる染物。 振袖=脇の下を縫い合わせていない、長い袖が付いた着物。未婚の女性が着る。 人柄作り=上品を装った。 追落し=人を脅して金を落とさせて、その金を奪う盗賊。追い剥ぎ。

芝居のせりふと散文(小説など)では文章の書き方が違います。これは欧米も同じです。たとえば、西洋演劇のせりふも近代以前は韻文(いんぶん)で書かれていました。日常使う言葉に近いせりふが書かれるようになったのは近代以降に過ぎません。

『三人吉三廓初買』(『三人吉三巴白浪』とも)の作者、河竹黙阿弥のせりふは、掛け言葉を多用しながら、七五調で書かれています。したがって、散文のように内容が整っておらず、矛盾も飛躍もあります。芝居のせりふを他の芸術にたとえれば、歌詞に近いでしょう。せりふ=歌詞と考えて、歌詞を読むつもりで読んでください。

『三人吉三』は同じ吉三を名乗る三人の盗賊が主人公。そのうちの一人、お嬢吉三は『稲瀬川庚申塚』の場で、夜鷹(下級遊女)のおとせが拾った大金を奪って彼女を川に落とし、「こいつは春から縁起がいいわえ」と嘯(うそぶ)きます。そこに、武家出身のお坊ちゃんの盗賊、お坊吉三が通りかかって、一部始終を目撃し、お嬢吉三に向かって金を貸してくれと迫ります。でも、返す気はありませんから、お坊はお嬢を恐喝しているのです。それが表記したせりふです。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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こいつは春から縁起がいいわえ 『三人吉三廓初買』 (2)

この芝居の「稲瀬川庚申塚(こうしんづか)」の場で、女装の盗賊・お嬢吉三は、夜鷹(下級遊女)のおとせから百両という大金を奪い、彼女を川に落としたあと、表記したように嘯(うそぶ)きます。(括弧内は門付け芸人の役が言います)。

歌舞伎作品を時代背景から分けると、時代物と世話物、その両方の要素を持つ時代世話に大別できます。時代物は、室町時代以前の貴族・武士社会を描いたものを言います。(江戸時代野武士社会で起きた事件を室町時代以前の時代に移して劇化したものも含みます)。世話物は庶民を描いたものを言い、その中でも庶民を写実的に描いたものを生世話物と言います。

そういう分類の仕方で言えば、この作品は生世話物に入ります。生世話物ですから、せりふも写実的かというと、そうではありません。むしろ表現としては様式性が強まっているのです。黙阿弥のせりふは、掛け詞・縁語などを使いながら、七五調で書かれているところに特徴があります。

そのため、俳優は朗誦するようにせりふを言います。このせりふや『青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)』「浜松屋」の場の弁天小僧のせりふのような、砕けて言うせりふ術を「厄払い」と言います。厄払い(門付け芸人)の言い方に似ていることから名付けられました。

黙阿弥作品の特徴は「勧善懲悪」にあります。この作品に出てくる三人の盗賊も根っからの悪人ではなく、結局三人は自滅します。しかし、幕末の饐(す)えて腐った世情を反映して、題材は陰湿です。この作品もその例に漏れませんが、江戸情緒たっぷりの作品に仕上がっていて、不快感はありません。音楽や作中にいくつも出てくる名せりふの効用でしょう。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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こいつは春から縁起がいいわえ 『三人吉三廓初買』 (1)

月も朧(おぼろ)に白魚の、篝(かがり)も霞む春の空、つめてえ風もほろ酔いに、心持ちよくうかうかと、浮かれ烏(からす)のただ一羽、塒(ねぐら)へ帰(けえ)る川端で、棹(さお)の雫(しずく)か濡手(ぬれて)で泡、思いがけなく手に入る百両。(厄払い「お厄払い魔性。厄落し」)ほんに今夜は節分か、西の海より川のなか、落ちた夜鷹は厄落とし、豆沢山(だくさん)に一文(いちもん)の、銭(ぜに)と違った金包み、こいつは春から縁起がいいわえ。

【注】月も朧に=朧月夜で。 白魚=シラウオ科の小魚。産卵のため、春先に川を遡る。大川(隅田川)の特産とされた。 =鉄製の籠の中で松の木などを燃やし、漁や警護などに使う。 うかうか=のんびり。 濡手で泡=諺の「濡れ手で粟」との掛け詞。ここは泡銭(あぶくぜに)の意。 厄払い=節分や大晦日の夜などに、厄難を払う言葉を唱えて廻る門付け芸人のこと。 節分=「季節の分かれ目」のことで、本来は立春、立夏、立秋、立冬の前日を言った。ここは立春の前日を指す。 西の海=厄払いはその文句の終わりで「西の海とは思えども・・・・・東の川にさらり」と言っていた。 豆沢山に一文=文は貨幣の単位。厄払いをしてもらう人は自分の歳に一つ足した豆と一文銭を紙に包んで厄払いに渡した。

歌舞伎に限らず、演劇の台本は、読書のためではなく、観衆の耳で聞いて貰うために書かれます。河竹黙阿弥のせりふは、観衆の耳に心地よく聞こえるよう計算して書かれています。それが、名せりふとして現代まで伝わっている最大の要因でしょう。
あわせて、黙阿弥の作品は、音楽を多用しています。言葉の正確な意味でのメロドラマ(音楽の入ったドラマ)と言えます。

黙阿弥作の白浪(盗賊)物『三人吉三(きちざ)(くるわの)初買』(『三人吉三巴(ともえの)白浪』とも言う)は、お嬢吉三、お坊吉三、和尚吉三という、同じ吉三という名を持った三人の盗賊を中心に、和尚の父親・土佐左衛門伝吉、伝吉の子で双子の兄弟・おとせと十三郎(和尚の妹と弟になる)の畜生道(近親相姦)、お嬢の妹で吉原の花魁・一重(ひとえ)と通人(つうじん)(廓や芝居に詳しい人を言う)・文里の情話などを絡めて描いた因果応報譚です。

同じ吉三という名を持つ三人の盗賊を主人公にしたのは、初演した一八六〇(安政七)年が庚申(かのえさる)の年に当たっていたため、当時、庚申の宵にできた子は盗癖がある、という俗信がありました。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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こいつは滅多に死なれぬわえ 『小袖曾我薊色縫』 (2)

モデルは実在の盗賊・鬼坊主清吉、大寺正兵衛など、特に正兵衛は将軍家の御金蔵(ごきんぞう)を破ったことで話題になっていました。それもあって、この芝居は大当たりしましたが、幕府の取締りに引っかかって、三十五日間で上演禁止になってしまいました。そこで黙阿弥は、明治になってから、同じ実話をもとにして書き直します。それが『四千両小判梅葉(しせんりょうこばんのうめのは)』で、これも牢獄の場面のリアルな描写が受けて大当たりしました。

遊女の十六夜と馴染み、寺を追放された所化(しょげ)(僧)の清心は、稲瀬川「鎌倉の川の名を使っているが、江戸の隅田川のこと」の百本杭で、追って来た十六夜と出会い、子を宿したと聞いて、二人して川に身を投げます。しかし、十六夜は俳諧師白蓮の船に救われ、水練(遊泳術)の素養がある清心も死にきれません。そこに寺小姓(寺で雑用を務める少年)の求女(もとめ)が通りかかり、彼が大金を持っていると聞いて、清心は求女を殺してしまいます。清心は再び死のうとしたものの、心変わりし、表記した独白を言います。
「あのように騒いで」とあるのは通りかかった船で行われている宴会を指しています。

こうして、清心は鬼薊清吉を名乗る盗賊になります。話はこの先も続きますが、現代はほとんど、この「稲瀬川」の場面だけの上演で、全編を通して上演することはまずありません。この場面の評判が良いのは、退廃的(デカダンス)な幕末の世情を描きながら、せりふや音楽の効果などによって、美に昇華されているからでしょう。

江戸時代、生きることは憂(う)き(つらい)ことでした。そこで、生きているうちに楽しまなければ損という考えが生まれました。そういう考え方を「浮世思想」と言いますが。このせりふはその浮世思想の見本です。

ちなみに、七年後の一八六六(慶応ニ)年初演、四代目小團次の最後の舞台『船打込橋間白浪(うねへうちこむはしまのしらなみ)(鋳掛松)(いかけまつ)』で、黙阿弥は、主人公の松五郎に「あああれも一生、これも一生。こいつは宗旨(しゅうし)を替えにゃあならねえ」と言わせています。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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こいつは滅多に死なれぬわえ 『小袖曾我薊色縫』 (1)

人間わずか五十年、首尾よく行けば又十年、二十年も生き延びて、襤褸(つづれ)を纏う身の上でも、金さえあれば出来る楽しみ。同じことならあのように、騒いで暮らすが人の徳。一人殺すも千人殺すも、取られる首はたった一つ。とても悪事を仕出したからは、これから夜盗家尻切(よとうやじりき)り、人の物はわが物と、栄耀栄華(えいようえいが)をするのが徳、こいつは滅多(めった)に死なれぬわえ。

【注】襤褸=襤(らん)も褸(る)も「ぼろ」の意。「つづれ」は「つづり(綴)」の変化。 纏う=身に着ける。とても=どうせ。 家尻切り=家や蔵の後ろを壊して押し入ること。また、その人、すなわち盗賊。

古典劇にはよく独白(モノローグ)が出てきます。これはシェクスピア作品も同じです。昔の観衆の心のうちを伝えるには言葉に出して言う必要があったのです。日本の場合は語り物の影響もあります。
また、歌舞伎には長ぜりふがたくさんあります。歌舞伎は役者の「芸」を見せる演劇なので、長ぜりふが芸の見せ場になっているのです。

幕末から明治中期にかけて活躍した大劇作家、二代目河竹新七(黙阿弥)作『小袖曾我薊色縫(あざみのいろぬい)』(通称『十六夜清心(いざよいせいしん)』)は、白浪(しらなみ)(盗賊)物の一つ。一八五九(安政六)年初演。配役は、四代目市川小團次の清心の鬼薊清吉、三代目岩井粂三郎(のち八代目半四郎)の十六夜、三代目関三十郎の俳諧師白蓮(はいかいしはくれん)、実は大寺正兵衛ほかでした。

江戸時代、江戸(東京)の劇場は、正月の興行(初芝居)で、曾我兄弟の仇討ち事件を扱った「曾我物」を上演する風習がありました。(「初曾我」という)。名題の「曾我」は、それを踏襲しているからです。「小袖」は十六夜が清心に贈る小袖と、曾我兄弟の母が二人に贈ったという伝説を踏まえています。しかし、この芝居の本筋と曾我兄弟の話は直接関係ないので、いまは大概『花街模様(さともよう)薊色縫』という別名題で上演されます。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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ほっと ひと息!!

箆大葉子(へらおおばこ)

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・大葉子(おおばこ)科。 

オオバコ属  大きな葉を足跡に見立てた。

・ヨーロッパ原産の帰化植物。江戸時代末期に渡来した。

・葉は細長く、粘土遊びに使うときの 「箆(へら)」に似ている(名前の由来)。

・夏、頭頂部に筒状、円柱形に白い花が咲く。  下の方から順に咲き上がっていく。花のまわりを土星の環のように取り囲んでるのはオシベ。  おもしろいかっこうですね

撮影場所:多摩川の土手

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首が飛んでも動いてみせるわ 『東海道四谷怪談』 (2)

この芝居はお岩・伊右衛門の主筋とお袖・直助の副筋が並行・交差して進行します。
高(吉良)の家臣・伊藤喜兵衛は、塩谷(浅野)の浪人・伊右衛門に惚れている孫・お梅のために、毒を盛って、伊右衛門の妻・お岩を殺します。お岩の霊に祟られた伊右衛門は嘉兵衛とお梅を殺します。

伊右衛門は「十万坪隠亡堀の場」で、伊藤家の後家・お弓と出会い堀に蹴込んだところに、顔見知りの権兵衛が現れます。権兵衛は、伊右衛門と同じ家中の奥田庄三郎の元下僕で、前名を直助と言い、薬売りを辞めて、鰻掻きになっていました。

伊右衛門は以前、浅草・裏田圃で、義父の左門を殺しました。一方、お岩の妹・お袖に横恋慕している直助も、同じ場所で、お袖の許婚(いいなずけ)・佐藤与茂七と勘違いして、主人の庄三郎を殺しました。その時、伊右衛門と直助は知り合ったのです。

再会した二人の悪人は意気投合し、さらなる悪事を誓って言うのが冒頭に記したせりふです。
実は、二人のこのせりふは、江戸で初演した時の台本には出てきません。江戸初演の台本には、顔を見合わせた二人が、「(直助)伊右衛門様。なるほどお前は。(伊右)や。(直助)強悪だなあ。(伊右)強悪にゃあ、誰がしたえ」とあるだけです。

この初演のせりふは七代目團十郎・五代目幸四郎にあてた「楽屋落ち」です。(楽屋落ちは楽屋の出来事を作中に仕組むことを言います)。幸四郎は、実悪(じつあく)(現実的な悪人)の名優で、「鼻高幸四郎」と言われ親しまれていました。一方、團十郎は当時三十四歳。人気絶頂期を迎えていました。南北はこのせりふで、三十年近く年長で実悪を得意とした幸四郎が、團十郎に伊右衛門の色悪の演技を教えたことを示唆したのです。

けれど、幸四郎も團十郎も江戸の役者。大坂の観衆にはそういう江戸の演劇界の事情は知られていません。そのため、翌年、大坂で、同じ菊五郎のお岩により上演した時(『いろは仮名四谷怪談』と改題)、江戸で初演した時の台本のせりふを改めて、大坂の観衆にも伝わるよう書き直したのです。

いま『四谷怪談』は、歌舞伎だけでなく、現代演劇でも上演されています。歌舞伎でも現代演劇でも決定版の台本はなく、種々にアレンジされた様々な台本が作られています。しかし、近年、このせりふを使う台本が多くなりました。

ちなみに、鶴屋南北は『生世話』というジャンルを開拓した作者として知られています。下層庶民の生活を活写したのです。しかし、同時に夢幻性・浪漫性も南北の特徴で、この作品も前掲の『桜姫東文章』も幽霊が活躍します。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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首が飛んでも動いてみせるわ 『東海道四谷怪談』 (1)

(伊右)天井抜けの不義非道、

(直助)いやもう、働きかけた鰻鉤(うなぎかぎ)どうでも仕舞いは身を割(さ)かれ

(伊右)首が飛んでも動いてみせるわ。

【注】天井抜け=際限がない。「底抜け」を逆に言ったもの。 働きかけた=働き始めた。 鰻鉤=鰻掻き。鰻を獲る道具。棒の先に金属製の鉤が付いている。鰻を獲る人のことも言う。 仕舞い=終い。 身を割かれ=「鰻のように殺される」の意。

歌舞伎の台本は俳優にあてて書かれました。『東海道四谷怪談』(通称『四谷怪談』)は、当時の江戸で起きた様々な事件をモデルにしていますが、題名に「東海道」とあるのは、三代目尾上菊五郎が上坂する(大坂に行く)御名残狂言として企画されたためです(実際にはいきませんでしたが)。

一八二五(文政八)年、江戸で初演されました。初演の主要配役は、民谷伊右衛門女房お岩・小仏小平・佐藤与茂七の三役=三代目菊五郎、民谷伊右衛門=七代目市川團十郎、直助権兵衛=五代目松本幸四郎ほかです。

一日目に『忠臣蔵』の前半と『四谷怪談』の前半、二日目に『忠臣蔵』後半と『四谷怪談』の後半という珍しい上演方法で初演されました。つまり『忠臣蔵』の二番目(世話物)として上演されたのです。時代物の『忠臣蔵』が「忠義」を描いたとすれば、世話物の『四谷怪談』は仇討ちから落ちこぼれた人物の「不忠義」を描いています。つまり、『忠臣蔵』と『四谷怪談』という二つの芝居は合せ鏡になっているのです。

関連して、「世界」について触れると、『忠臣蔵』は『太平記』の世界を借りて作られました。当時、実際に武士社会で起きた事件は、前の時代に移し変えなければ上演できなかったのです。ところが、並外れたヒット作となり、次々に類似作が作られたため、『忠臣蔵』そのものが一つの世界を形成するようになります。『四谷怪談』はその『忠臣蔵』に世界を借りていますので、忠臣蔵物の一つに数えられます。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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思えば思えば、ええ恨めしい 『東海道四谷怪談』 (2)

ここで「詞の礼」と言っていますが、女性らしい言い方で、言葉どおりではありません。一言でも喜兵衛に恨みごとを言おうということです。また、このくだりでお岩は、見られない顔でありながら、「女の身だしなみ」である鉄漿(おはぐろ)を付け、髪を整えようとします。鉄漿は既婚者の象徴ですから、言うまでもなく、お岩は言外に、自分は伊右衛門の家であると主張しているのです。

又、「髪は女の命」という言葉もあるように、髪と女性は切り離せません。歌舞伎の「髪梳き」は元来、男女の性愛の表現として使われていました。奇才・南北はその髪梳きという伝統的表現手法を逆手に取って、男に裏切られた女が嫉妬の炎を燃やす表現に変換したのです。卓越した才能の持ち主と評すべきでしょう。

歌舞伎の髪梳きの演技は、黒御簾(くろみす)で、メリヤスの『瑠璃(るり)の艶(菊の露)』が独吟(どくぎん)で演奏される中で行われます。黒御簾は歌舞伎音楽の演奏場所のこと。転じて、その音楽を指し、下座(げざ)とも言います。メリヤスは、髪梳き・色模様(淡い恋愛場面)・述懐など、せりふがない場面で演奏される短い長唄・義太夫のこと。独吟が演奏される中で行われます。
髪を整えようとお岩が櫛を当てると、ごっそりと髪が抜け落ち、血が滴(したた)り落ちます。さらに醜くなったお岩の、お梅への嫉妬心は頂点に達します。

このあと、お岩が言うのが表記のせりふです。今も、芝居・映画・テレビなどに出てくる幽霊は、大概「恨めしや」と言います。南北が考えたお岩から離れられないのです。
お岩は「一念とおさでおくべきか」と立ち上がり、そのまま息を引き取ります。まさに憤死です。そしてお岩は、か弱い女性から、攻撃的な霊に変身を遂げます。

祝言をあげた伊右衛門とお梅が床入りしようとした時、お岩の霊が現れ、霊に祟られた伊右衛門は誤って喜兵衛とお梅を殺してしまいます。また、お岩の霊は事あるごとに現れ、伊右衛門を苦しめます。

『四谷怪談』は女であるお岩の敵討と不義士の伊右衛門の末路を中心に描いています。換言すると、『忠臣蔵』を逆転させた作品と言えるでしょう。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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思えば思えば、ええ恨めしい 『東海道四谷怪談』 (1)

今をも知れぬこの岩が、死なば正(まさ)しくその娘、祝言(しゅうげん)さするはこれ眼前(がんぜん)ただ恨めしき伊右衛門(いえもん)殿、喜兵衛一家の者どもも、なに安穏(あんのん)におくべきや。思えば思えば、ええ恨めしい。

【注】今おも知れぬ=いつ死ぬかわからない。 祝言=結婚。眼前=すぐ。間もなく。

鶴屋南北の最高傑作『東海道四谷怪談』(通称『四谷怪談』)「伊右衛門浪宅」のお岩様のせりふです。(歌舞伎では祟りを怖れ、お岩に敬称を付けて呼びます)。
南北が得意とした「生世話物」(下層市民をリアルに描いた作品)で、長編の上に筋が入り組んでいますから、はじめに筋立を説明したほうがわかり易いでしょう。

塩谷(浅野)の浪人・民谷(たみや)伊右衛門と同じ塩谷の浪人・四谷左門の娘・お岩は好き合って結婚します。左門は、伊右衛門が以前、主家の御用金を盗み出したことを知って、二人を離婚させます。お岩に未練がある伊右衛門は、悪事の露見を怖れ、義父の左門を殺して、その敵を討ってやると偽り、お岩を自宅に連れ帰ります。

家に戻ったお岩は、産後の肥立ちが悪く、床に伏せっています。高(こうの)(吉良)の家臣・伊藤喜兵衛は、美男子の伊右衛門に恋慕する孫娘・お梅のために、お岩を殺して、伊右衛門へ婿(むこ)入りさせようと企みます。伊右衛門も心変わりして、敵方の高家への仕官を喜兵衛に依頼します。喜兵衛は血の道(様々な婦人病の総称)の妙薬と偽ってお岩に毒薬を届け、それを呑んだお岩は苦しみ、顔は醜く崩れます。

伊右衛門に脅され、お岩と不義を犯す目的で家に来ていた按摩・宅悦から、真相を聞き出したお岩は、「息あるうちに」と喜兵衛宅へ向かおうとします。ここの「髪もおどろのこの姿、せめて女の身だしなみ、鉄漿(かね)など付けて髪梳(す)き上げ、嘉兵衛親子に詞(ことば)の礼を」というお岩のせりふも秀逸で、当時の女性の姿を鮮烈に表現しています。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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雉子も啼かずば討たれまいに 『浮世柄比翼稲妻』 (2)

歌舞伎で長兵衛を採り上げた最初は、一七四四(寛保四)年の『碟(さざれいし)末広源氏』で、この作品は長兵衛と大坂の男伊達(だて)が衆道のために争う趣向になっています。
江戸時代、衆道は公然と行われていました。そのため、歌舞伎にも衆道の場面がたくさん出てきます。が、衆道には相手の若衆が必要。そのため、歌舞伎に若衆方(色若衆)という役柄が生まれ、それを演じる専門俳優も存在しました。

こうして、長兵衛の相手に権八が選ばれ、実際には接点がなかった二人が結びつきました。歌舞伎で最初に長兵衛と権八の鈴ヶ森での出会いを描いたのは、一七八八(天明八)年、初代桜田治助作の『契情(けいせい)吾妻鑑』です。冒頭に書いた二つの『鈴ヶ森』はこの作品を受け継いで作られたので、当然、衆道の関係も受け継いでいます。

刑場として有名な鈴ヶ森に屯(たむろ)している追い落とし「追い剥ぎ」は、通りかかった飛脚を襲い、因幡の国で殺人を犯し逐電した白井権八が江戸に向かったので捕らえてくれ、という手紙を見つけます。捕らえて褒美を貰おうと、追い落としたちが待ち構えていろところに、権八が通りかかります。ところが、権八は追い落としたちを簡単に撃退します。
それを見ていた長兵衛が駕籠の中から「お若えの、お待ちなせえやし」と声をかけます。歌舞伎で男女二人が出会って恋に堕ちる場面を「見初め」と言いますが、それに倣(なら)って言えば、長兵衛は権八を見初めたわけです。

それに応えて権八は、表記したせりふを言います。「益なき殺生」を反省しているかのようなせりふですが、生意気盛りの青年が得意がって言っていると解すべきでしょう。
「雉子も啼かずば討たれまいに」という権八のせりふは諺としてもよく知られています。
ある諺辞典に、狂言『禁野(きんや)』の「鳴かずば雉も討たれざらまし」というせりふが載っていますが、このせりふはそのリライトとも考えられます。また、別の辞典は、河竹黙阿弥の『五十三駅扇宿附(つぎおうぎのしゅくづけ)』のせりふを引いていますが、これは明治になってから作られた権八小紫物です。

『俎板の長兵衛』の初演の配役は、五代目松本幸四郎の長兵衛、三代目坂東三津五郎の権八でした。また、『稲妻草紙』の初演の配役は、七代目市川團十郎の長兵衛、五代目岩井半四郎の権八でした。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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雉子も啼かずば討たれまいに 『浮世柄比翼稲妻』 (1)

命を取るのも殺生(せっしょう)と、存じたなれどつけあがり、止事(やむこと)を得ず不適もの、刀の穢(けが)れと存ずれど、行き来の人のためにもと、よんどころなく斯(か)くの仕合せ、雉子(きじ)も啼(な)かずば討たれまいに、益(えき)なき殺生致しました。

便宜上、この章に入れましたが、、正確に言うと、このせりふは鶴屋南北のオリジナルではありません。一八〇三(享和三)年初演、初代桜田治助作『番隨長兵衛精進俎板(まないた)』(通称『俎板の長兵衛』)の、「鈴ヶ森」にも、一八二三(文政六)年初演、鶴屋南北作『浮世柄比翼稲妻(うきよつかひよくのいなづま)』(通称『稲妻草紙』の「鈴ヶ森」にも出てきます)。

この二つの作品は、実在した江戸の侠客・番隨院長兵衛を主人公にした長編の「番隨院長兵衛物」です。つまり、現代も上演されている作品で言えば、同じような場面のある作品が二つあって、その場面だけの上演もあるのです。もちろん、二つの作品の筋立ては違いますが、この場面に限れば、せりふも含めて、概要は同じです。

この番隨院長兵衛物には二つの特徴があります。一つは大概「権八小紫」で知られる白井権八が登場すること。したがって、番隨院長兵衛物と権八小紫物は重なります。もう一つは、多くの作品で番隨院長兵衛を衆道(ホモ・セクシャル)としていることです。

長兵衛は、江戸時代前期、江戸・花川戸に棲んだ実在の人物。番隨院の名が付いたのは、当時、上野・池之端にあった番隨院の住職と親しかったからとされています。任侠の風に富み、町奴の親分になりましたが、旗本と対立し、水野十郎左衛門に殺害されました。
白井権八のモデルは、鳥取藩士の子・白井権八。父を侮辱した、同じ鳥取藩士を殺害して、江戸へ出奔(しゅつぽん)。吉原の遊女・小紫と馴染み、金策のために辻斬りに転落して、百三十余人を殺したと伝えられます。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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世の中よっぽどひねって来たわえ 『桜姫東文章』 (2)

南北は、蜀山人の伝える先の事件にヒントを得たのでしょう。聖僧堕落譚の「清玄(せいげん)桜姫」と梅若伝説の「隅田川」の「世界」を「綯(な)い交ぜ」にしてこの事件を劇化しました。複数の世界を織り込んで作劇することを「綯い交ぜ」と言います。南北は二つの世界をごちゃまぜにして劇化したのです。

伝統的な清玄桜姫物では、聖僧・清玄が桜姫の肉体に溺れて堕落しますが、この作品では、桜姫も、元武士でいまは墓穴掘り人の釣鐘権助の肉体に溺れて堕落します。しかも、清玄は現代でいうストーカーのように桜姫に付き纏います。

京の公卿(くぎょう)、吉田家の息女・桜姫は墓穴掘りの釣鐘権助に犯され子を生みますが、初めて契った男が忘れられずにいます。再会した二人は枕を交わし、姫の流転が始まります。
二人はまた出会い「岩淵庵室」で一緒に棲むことになりますが、表記のせりふはその冒頭で、権助が言います。深窓の令嬢が墓穴堀り人に惚れるというのですから、「世の中ひねってきた」とはいえ、当時の観衆にも衝撃的だったでしょう。

その後、権助は、下世話な言葉や行儀を覚えるためという理由で、桜姫を小塚ッ原の女郎屋に売り飛ばします。こうして、桜姫は、落語の『たらちね』のように公卿言葉と下世話な言葉をちゃんぽんに使うようになり、権助の腕にあるのと同じ釣鐘に似せた刺青をしていることから、風鈴お姫という渾名(あだな)で呼ばれる売れっ子女郎になります。

そして、付き纏う清玄の幽霊に「さぁ、消えなよ、夜が明けるよ。幽霊の朝直しでもあるまいさ、消えな、帰りな。エエ、聞き分けの悪い。坊主客はこれがうっとうしい」と言うような阿婆擦(あばず)れに成り果てます。

桜姫は、人形のようないつもの赤姫(あかひめ)(赤い着物を着た類型的なお姫様役)と違って、人間の肉体を持ったお姫様です。しかし、それまで桜姫のようなお姫様が舞台に登場することはありませんでした。化政期(十九世紀前半)になり、それまでの秩序・価値観・美意識などが崩れて、人間を写実的に描くことが可能になったのです。
下層庶民を写実的に描いた歌舞伎を生世話(きせわ)と言います。南北はそのジャンルの開拓者として知られますが、このせりふは時代の転換期を見事に表現しています。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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世の中よっぽどひねって来たわえ 『桜姫東文章』 (1)

昔から、お姫様に思わるる男は、公卿(くげ)の息子どのか、但しは色の生白(なまっちろ)い、紫の羽織を着て、一文字(ひともじ)の編み笠で、大小差した美男でなくちゃあ、色男じゃあなかったが、流行(りゅうこう)すりゃあ、穴掘りに色男が出来るとは、世の中よっぽどひねって来たわえ。

【注】公卿=公家。 紫=古来、紫色は高貴な色とされ、庶民は使えなかった。一文字の編み笠=菅や竹の皮などで作り、上が平で一の字のように見える笠。殿中とも。 大小=大刀と小刀。 穴掘り=墓穴掘り人。 ひねって=捩(ね)れて

鶴屋南北『桜姫東文章(あずまぶんしょう)』の初演は一八一七(文化十四)年。桜姫=五代目岩井半四郎、清玄・釣鐘権助(つりがねごんすけ)=七代目市川團十郎などの配役。徳川幕府が成立してから二百年以上経ち、それまで世の中の常識とされていた、あらゆるものが崩れはじめます。

たとえば、太田南畝(なんぽ)(蜀山人(しょくさんじん))の『玉川砂利』に、「一八〇七(文化四)年に、品川宿の遊女が日野中納言の娘と身分を詐称し、逮捕され追放された」という趣旨の記事が載っています。実際のお姫様が遊女になったわけではなく、女郎屋の親方が遊女に身分を詐称させていた事件ですが、それにしても前代未聞の出来事でした。

芝居も変わってきました。この作品が初演される八年前、一八〇九(文化六)年に出版された式亭三馬の『浮世風呂』に、「今は役者贔屓(ひいき)もひねって、濡事師(ぬれごとし)よりは敵役や半道(はんどう)を引く世の中」とあります。「濡事師」は「色事師」のこと、「半道」は「半道敵」の略で「半分道化・半分敵」の意、「引く」は「贔屓にする」の意。それまで人気があった二枚目だけでなく、敵役や道化なども人気を集める時代になったのです。「お笑い」全盛の現代と驚くほど似ています。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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花魁、そりゃあ、ちっと、そでなかろうぜ 『籠釣瓶花街酔醒』 (2)

表記したせりふは、そのあとで次郎左衛門が言います。「田舎者の次郎左衛門ゆえ、恨みとは思わねど、断られても仕方ないが、なぜ初手(しょて)から言うてくれぬ。江戸へ来るたび吉原で、佐野の誰とか噂もされ、二階へ来れば朋輩(ほうばい)の、花魁たちや禿(かむろ)にまで、呼ばれる程になってから、指を咥えて引ッ込まりょうか。ここの道理を考えて、さっしてくれたがよいではないか」と恨み言が長々続きます。
次郎左衛門はお人好しの田舎者。一方八ツ橋は次郎左衛門に特別な感情があったわけではなく、商売で付き合っていただけ。つまり、他の歌舞伎の愛想づかしと違って、八ツ橋は本音を言っているのです。

作者は河竹黙阿弥(三代目新七)の弟子・三代目新七。初演は一八八八(明治二十一)年。佐野次郎左衛門=初代市川左團次、八ツ橋=中村福助(のちの五代目歌右衛門)などの配役。鶴屋南北の『杜若艶色染(かきつばたいろもえぞめ)』と同じく、モデルは享保期(十八世紀前半)に起きた「吉原百人斬り」事件です。また師匠・黙阿弥の縁切り物『八幡祭小望月賑(はちまんまつりよみやのにぎわい)(縮屋新助)』の書き換えでもあります。

「遊女に誠なし」は常識です。また日常でも女が男に愛想を尽かすことはよくあることです。歌舞伎に出てくる廓は非現実的・夢想的なものが圧倒的多数ですが、この芝居は明治期に書かれたため、廓の現実に近付いたのです。
と言っても、結末はいつもの愛想づかしのパターンを踏襲していて、大概の縁切物は「見初め」→「愛想づかし」→「殺し」と進行しますが、この芝居は愛想づかしが少し異なるだけで、他の場面はパターンどおりです。

いったん田舎に帰った次郎左衛門は、籠釣瓶と名付けた、村正の名刀を持って吉原に現れ、遺恨のたけを述べて八ツ橋を斬り殺し、続いて妖刀に憑かれたように次々斬りまくります。ここの「はて、籠釣瓶はよく切れるなあ」というせりふもよく知られます。
籠釣瓶の名は、「水も溜まらぬ」の意で名付けられたとされます。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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花魁、そりゃあ、ちっと、そでなかろうぜ 『籠釣瓶花街酔醒』 (1)

花魁(おいらん)、そりゃあ、ちっと、そでなかろうぜ。夜毎(よごと)に変わる枕の数、浮川竹(うきかわたけ)の勤めの身では、昨日に勝る今日の花と、心変わりしたか知らねど、もう表向き今夜にも、身請(みう)けの事を取り決めようと、夕(ゆうべ)も宿で寝もやらず、秋の夜長を待ちかねて、菊見がてらに廓(さと)の露、濡れてみたさに来てみれば、案に相違の愛想(あいそ)づかし。

【注】花魁=高位の遊女。 もっと=少し。 そでない=然(そ)うでない。さようでない。違う。 浮川竹=川に浮いている竹。「浮き」と「憂き」を掛けて、浮き沈みが激しく、辛い、遊女の境遇を表現している。 寝もやらず=寝ないで。

歌舞伎には女(遊女)が男(客)に愛想を尽かす「愛想づかし」の場面がたくさん出てきます。(「縁切り場」とも言う)。しかし、大概は、何かの理由があって、心ならずも愛想づかしを言うパターン。女は男を心底から嫌いになったわけではありません。演劇は話を複雑にしたほうが面白いので、そういうパターンが多くなったのでしょう。

けれども、この『籠釣瓶花街酔醒(かごつるべさとのえいざめ)』はそういう縁切り物とは少し異なります。
野洲(栃木県)佐野の絹商人・次郎左衛門は、初めて江戸に来た折、一目吉原の賑わいを見ようと足を運び、花魁(位の高い遊女)の八ツ橋に出会い、魂を奪われます。次郎左衛門は、田舎者のうえ、あばた面の醜男(ぶおとこ)。しかし、足繁く吉原に通い、大金を使った甲斐あって、八ツ橋と馴染み、身請けすることになります。

ところが、八ツ橋の間夫(情夫)の繁山英之丞(えいのじょう)は、身請けを断るよう、八ツ橋に迫ります。同郷の者たちを引き連れて登楼した次郎左衛門に八ツ橋は、愛想づかしを言って、身請け話を断ります。(愛想づかしのくだりは必ず、胡弓(こきゅう)入りの合方が演奏されます)。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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しがねえ恋の情けが仇 『与話情浮名横櫛』 (2)

評判が良かった要因は、主人公の与三郎が團十郎の芸質にぴったり合っていたこと(「ニンに合う」と言う)、脇に手だれの芸達者を配置したことも挙げられるでしょう。
しかし、初演の直後、主演した團十郎が謎の自殺で死んでしまい、明治期はほとんどこの芝居は上演されませんでした。明治の大立者は何と言っても九代目團十郎と五代目菊五郎です。高尚趣味の團十郎はこの芝居を敬遠し、菊五郎もニンに合っていないと考えたのかあまり上演しませんでした。

けれども、大正期になってから、十五代目市村羽左衛門の与三郎、六代目尾上梅幸のお富、四代目尾上松助の蝙蝠安などの配役で演じ、大ブームとなり、以降、繰り返し上演されるようになりました。つまり、この芝居は、大正期に、与三郎役に羽左衛門というぴったりの俳優を得て、歌舞伎を代表する演目になったのです。演劇、特に歌舞伎の台本は、演じる俳優によって、活きてくることも死ぬこともあるのです。

大店の養子・与三郎は、後から生れた実子に店を譲るため、わざと身を持ち崩し、木更津に預けられます。浜辺で、土地の親分・赤間源左衛門の妾・お富に出会い、互いに一目惚れします。(このくだりでお富が景色に託(かこつ)けて与三郎を評する「いい景色だねえ」も良いせりふです)。逢引現場を源左衛門に見つけられ、与三郎は総身に疵(きず)を付けられ、お富も海に身を投げるものの、二人とも九死に一生を得ます。

与三郎は強請(ゆす)り騙(かた)りのならず者に身を落とし、仲間の蝙蝠安とともに、源氏店の妾宅に強請りに行きます。ところが、その家に棲む女は、死んだはずのお富でした。その場面で、新内流しの合方に乗って、与三郎が言うのが表記したせりふで、要するにお富を強請っているわけです。
掛け詞を多用しながら、調子をつけ、歌って言うように書かれています。近松以来の伝統が脈々と受け継がれているのです。

今この芝居は大概、この「源氏店」だけの単独か、「源氏店」の前に「木更津浜辺(見初め)」「赤間別荘」を付けて上演します。つまり、瀬川如皐が最初に書いた台本にある場面が生き残り、後に書き足した部分は消えてしまったわけです。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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しがねえ恋の情けが仇 『与話情浮名横櫛』 (1)

しがねえ恋の情けが仇、命の綱の切れたのを、どう取り留めてか木更津(きさらづ)から、めぐる月日も三年(みとせ)越し、江戸の親には勘当(かんどう)受け、拠所(よんどころ)なく鎌倉の、谷七郷(やつしちごう)は食い詰めても、面(つら)へ受けたる看板の、疵(きず)が勿怪(もっけ)の幸いに、切られ与三(よぞう)と異名(いみょう)を取り、押借り強請(ゆす)りも習おうより、慣れた時代の源氏店(げんじだな)、そのしらばけか黒塀に、格子(こうし)造りの囲いもの、死んだと思ったお富とは、お釈迦(しゃか)様でも気がつくめえ。

【注】谷七郷=山にかこまれた鎌倉には、扇ヶ谷など、七つの谷がある。「谷間の七つの郷」つまり「鎌倉中」の意。 勿怪の幸い=「勿怪」は「不思議なこと」。「思いがけなく得た幸い」。慣れた時代=「年月を経て慣れた」と、「源氏という時代(昔)の名を借りたこと」を掛けている。 源氏店=日本橋にあった「玄治店(げんやだな)」のこと。役者など芝居者が棲んだ。 しらばけ=白化。ここは「白粉(おしろい)」と「しらばっくれること」の掛け詞になっている。 黒塀=黒い板塀。「しらばけ」と対称になっている。 格子造り=家の表に細い角材を縦横に組んだ窓のある住居。「洒落た家」の意。

『与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)』(通称『切られ与三』)「源氏店」の与三郎のせりふです。
この芝居は、幕末も押し詰まった一八五三(嘉永六)年一月、一番目(時代物)『花 宿初役(はなとみますやよいのはつやく)(加賀見山)』の二番目(続編の世話物)として初演されました。一番目は不評だったものの、二番目のこの芝居は大好評。そのため三月から一番目を省略し、二番目を一日の芝居に書き直して再上演したところ、ロングラン上演となりました。

作者は、『東山桜荘子(佐倉義民伝)』で知られる、三代目瀬川如皐(じょこう)。与三郎=八代目市川團十郎、お富=四代目尾上梅幸(のちの四代目菊五郎)、多左衛門=三代目関三十郎、蝙蝠安=初代中村鶴蔵(のち三代目仲蔵)ほかの配役でした。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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