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2009年4月

死ぬるを忠義ということは 『伽羅先代萩』 (2)

現代歌舞伎の『先代萩』の眼目は「御殿」の場です。冒頭に掲げたせりふはその場面で幼君・鶴千代の乳人(養育係)・政岡が言います。この場面は人形浄瑠璃の『先代萩』が基になっていて、有名な「お腹が空いてもひもじゅうない」というせりふも、もともとは人形浄瑠璃のものです。したがって、ここは人形浄瑠璃の詞章を掲載しました。歌舞伎では、このせりふを割って、俳優とチョボ(竹本)の掛け合いで言い(語り)ます。

政岡は自分でご飯を炊き、我がこの千松に毒見をさせ、主君を守っています。そこへ悪人一味の栄御前が見舞いと称して毒入り菓子を持ってきますが、千松がそれを食べてしまい、毒殺が明らかになるのを恐れた同じ悪人一味の八汐(やしお)は、千松をなぶり殺しにします。自分の子が死んでも涙を見せない政岡を見て、勘違いした栄御前は政岡に陰謀を打ち明けて去ります。一人になった政岡が本心を吐露するのが表記したせりふです。

「親子は一世、夫婦は二世、主従は三世」と言われていたように、封建時代の道徳では主人の忠義が一番大切とされていました。人間は時代の子です。人間はその時代を支配する思想からなかなか離れられません。特に「家」を継ぐ立場にある男性はその思想に凝り固まっていました。時代の思想に洗脳されていたわけです。

女性も例外ではありません。現代で言えば勤労女性(キャリアウーマン)である、乳人の政岡も、頑なに主君が大事と信じ、我が子を犠牲にして、見事に守り抜きました。
しかし、皆が去って一人になると、女の本能が頭をもたげ、幼君の乳母という立場、忠義第一という思想を離れ、一人の人間、一人の女性に立ち返ります。

作者は、この詞章(せりふ)の後に「凝り固まりし鉄石心(てつせきしん)、さすが女の愚に返り、人目なければ伏し転(まろ)び、屍骸にひしと抱(いだ)きつき、前後不覚に嘆きしは、理(ことわり)すぎて道理なり」と書いています。現代語に訳すと、「烈女であってもふつうの女。人目がなければ屍骸に縋(すが)って嘆いている。理屈というよりも人間の自然な姿だろう」となるでしょう。
作者は時代を超越した人間の本性を見据えていたのです。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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死ぬるを忠義ということは 『伽羅先代萩』 (1)

三千世界に子を持った親の心は皆一つ、子の可愛さに毒な物喰うなと言うて叱るのに、毒と見えたら試みて、死んでくれいと言うような、胴欲非道な母親が又と一人あるものか、武士の胤に生れたは果報か因果か、いじらしや。死ぬるを忠義ということは、いつの世からのならわしぞ。

【注】三千世界=仏教語。仏教では、宇宙はたくさんの三千大千世界から成り立っているとされている。この世の中。 試みて=試食して。 胴欲=食欲の変化。 非道=人の道から外れること。 果報=幸せ。 因果=不孝。 いじらしや=いたわしい。

題名の『伽羅先代萩』は「めいぼくせんだいはぎ」と訓みます。「めいぼく」は、銘木の伽羅(きゃら)で作った下駄。仙台・伊達家の当主・綱宗が伽羅で作った下駄を履いて遊郭に通ったという伝説に拠っています。「先代」は仙台。「萩」は宮城野(仙台)を象徴する花。つまり、「仙台の伊達藩で起こったお家騒動の芝居ですよ」という暗示です。

この事件を採り上げた芝居はたくさんありますが、その一つに、奈河亀助(輔)作、一七七七(安永六)年初演の歌舞伎『伽羅先代萩』があります(配役は、初代中村歌右衛門の梶原景時など)。その後、それと初代桜田治助作、一七七八(安永七)年初演の歌舞伎『伊達競阿国劇場(だてくらべおくにかぶき)』(配役は、四代目松本幸四郎の与右衛門・渡辺民部など)をもとにして、松貫四(まつかんし)らの合作で、人形浄瑠璃『伽羅先代萩』が作られました。また歌舞伎『伊達競阿国劇場』初演の翌年には人形浄瑠璃で同名の作品も作られました。

現代の歌舞伎で上演している『先代萩』は、歌舞伎の『先代萩』を土台としながら、人形浄瑠璃の『阿国劇場』と『先代萩』、歌舞伎の『阿国劇場』を繋ぎ合わせたもの。つまり、たくさんの類似作から「いいとこ採り」をしているわけで、何でも飲み込んでしまう、歌舞伎の創作方法の典型です。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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お腹が空いてもひもじゅうない 『伽羅先代萩』 (2)

現代の歌舞伎で上演されている『伽羅先代萩』は、歌舞伎や人形浄瑠璃で作られた様々な『先代萩』の「いいとこ」を採って再構成したものです。

足利(伊達)家は頼兼(よりかね)の廓遊びによって乱れ、悪人一味は世継ぎの鶴千代(鶴喜代とも)を暗殺しようと狙っている・・・・・という前段があって眼目の「御殿」の場面に進みます。
この「御殿」は人形浄瑠璃の『先代萩』が基になっていて、乳人(めのと)(養育係)の政岡が毒殺から鶴千代を守ろうと、自分の子の千松にすべての食べ物を毒見させ、自らご飯を炊いて二人に食べさせていることから、通称「飯焚(ままたき)」と言われます。

幼君・鶴千代は「ひもじいということは、強い武士の言わぬこと、常にそちが言うたゆえ、おれは言わねど、先刻から、空腹になったわやい」と殊勝です。その言葉に触発されて、千松が言うのが表記したせりふで、続いて鶴千代が「千松より俺が強いやい」と言います。つまり、二人は、乳人(母親)の言うことを素直に守り、互いに自分のほうが強いと主張する頑是(がんぜ)ない少年です。

ところが、千松は悪人一味の栄御前(さかえごぜん)が持参した菓子の毒見をして殺されてしまいます。大人の醜い争いで、親の言いつけを素直に守る無垢な少年はあっけなく死んでしまうのです。女性の涙を絞る見事な装置と言えるでしょう。

この『先代萩』のような武家の騒動を描いた作品を「お家(騒動)物」と言います。
お家物は奥女中の宿下がり(休暇を貰って親元へ帰ること)の季節である三・四月の弥生興行で上演されました。女性の観衆を意識して、製作しているわけです。
とは言っても、子役に扮するのは子どもなので、巧くせりふを言える子ばかりではありません。そこで考えだされたのが、歌舞伎の子役独特の、抑揚のないせりふ術です。
これも歌舞伎の知恵で、せりふの言い方を単純化・様式化することによって逆に「真」を表現しているのです。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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お腹が空いてもひもじゅうない 『伽羅先代萩』 (1)

侍の子というものは、ひもじいめをするのが忠義じゃ。また食べる時には、毒でも何とも思わず、お主(しゅう)の為には喰うものじゃと言わしゃったゆえに、わしゃ何とも言わずに待っている。その替り、忠義をして仕舞(しも)うたら、早うままを喰わしてや。それまでは明日(あす)までも何時(いつ)までも、こうきっと坐って、お膝に手をついて待っております。お腹が空(す)いてもひもじゅうない。

ある時、一緒に歌舞伎を見ていた現代演劇の演出家が、「歌舞伎はずるい」と言いました。「何がずるいの」と聞くと、「子役を使う芝居がたくさんあるから」という答が返ってきました。確かに、歌舞伎には子役を使う作品が多く、観衆の多数を占める女性たちは子役が出てくるだけで「可愛い」と言って喜んでいます。

近代まで、歌舞伎の観客には男もたくさんいました。しかし、「芝居・蒟蒻(こんにゃく)・芋・南瓜(かぼちゃ)」は女の好物という言葉もあるように、女性が男性以上に歌舞伎を好んだのは事実です。そのため、歌舞伎はいつの時代も、女性の観衆を意識して芝居を作ってきました。子役が重要な役割を果たす作品がたくさんあることも、「子別れ」が多いのも、その例の一つで、子どもの役が多いのは歌舞伎の特徴になっています。

大概の歌舞伎辞典は「子別れ」の例として、『恋女房染分手綱(そめわけたづな)(重(しげ)の井(い)子別れ』『芦屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)(葛(くず)の葉子別れ)』『東山桜荘子(さくらそうし)(佐倉義民伝)』を挙げています。これらは「生き別れ」ですが、「死に別れ」も子別れです。『伽羅(めいぼく)先代萩』の「御殿」も、『菅原伝授手習鑑』の「寺子屋」も、死に別れですが、本質は親子の離別にあります。

また、前記の五作品は、子役の例としても、挙げられています。子別れの代表例と代表的な子役の例は重なっているわけです。その意味で。『伽羅先代萩』は子役が活躍する歌舞伎の代表と言えるでしょう。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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絶景かな、絶景かな 『金門五三桐』 (2)

主人公は戦国末期の盗賊、石川五右衛門。ただし、史実を離れて、宋蘇卿の子の、竹地(明智)光秀に育てられたという設定になっています。背景は秀吉の朝鮮出兵。宋蘇卿は室町時代に明から帰化し、足利義澄の使者として明へ赴いた人物。したがって、近隣諸国も巻き込んだ壮大なドラマと言えるでしょう。
意地の悪い見方をすれば、荒唐無稽とも言えますが、当時は事実に近く描けなかったことを見落としてはいけません。私は逆に、想像力を膨らませて観た、江戸時代の観衆の感性を誉めたいと思います。

この芝居は、現代は、上演時間十分余の「南禅寺山門」だけの上演がほとんどです。
幕開きの大薩摩の演奏が済み、浅黄(水色)幕が切って落とされると、一面の桜を背景に、真っ赤な柱、金などの極彩色の装飾がまぶしい山門が現れ、その上に、百日鬘(ひゃくにちかつら)にどてら、大小の刀という扮装の石川五右衛門が乗っています。(大薩摩は江戸浄瑠璃の一つで、のちに長唄に吸収されました。百日鬘は月代(さかやき)を百日間剃っていないために伸び放題になっている髪を表した鬘で、「大百日」「大百」ともいいます)。

五右衛門は、その色の洪水の中で、春の景色を見渡し、表記のせりふを言います。
捕り手が出て、立ち廻りがあり、続いて、鳴物の演奏で、大道具が迫り上がって、姿を現した浅黄色の巡礼姿の真柴久吉(羽柴=豊臣秀吉)が山門に、「石川や、浜の真砂はつきるとも、世に盗人の種は尽きまじ」と落書きします。いうまでもなく、これは石川五右衛門の辞世(死に際に詠む詩歌)とされるもので、それを作中に採り込んだわけです。久吉に気がついた五右衛門が手裏剣を投げると、久吉はそれを柄杓で受け止めて、「引っ張りの見得」で幕になります。これは、数人の登場人物が心理的美術的緊張関係を保ちつつ行う見得のことです。

大立者の貫禄と花形の爽やかさを見せる場面で、文学性はありません。にもかかわらず、現代まで高い人気を保っています。せりふ術の魅力に加えて、大道具・音楽・衣裳・鬘などの専門家の力を結集して、観衆の視覚・聴覚を刺激するからでしょう。
このような、絢爛豪華な舞台装置、華やかな音楽などを用いて、視覚・聴覚を重視する演劇をフランス語でスペクタルと言います。演劇・絵画・音楽は近い関係にありますが、この芝居は絵画美・音楽美などを結集したスペクタル演劇の見本です。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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絶景かな、絶景かな 『金門五三桐』 (1)

絶景かな、絶景かな。春の眺めは価(あたい)千金とは、小(ちい)せえ小せえ、この五右衛門の目から見れば、価万両、万々両。日も西山に傾きて、雲とたなびく桜花、あかね輝くこの風情、はて麗(うら)らかな眺めじゃなあ。

【注】春の眺めは=蘇軾(そしょく)の詩「春宵一刻価千金」からきた譬え。 たなびく=横長に薄い層をなしている様を言う。「なびく」に接頭語「た」が付いた。 はて=ここは当然という気持ちで発する感動詞。麗らか=空が晴れて、明るくのどかな様。

演劇は基本的に、俳優が肉体を使って表現する芸術です。表現の中心は喉を含む俳優の肉体なのです。同時に、文学・音楽・美術などの力を借りて作る総合芸術でもあります。歌舞伎で言えば、作者・囃子方・チョボ(竹本)・大道具方・小道具方・衣裳方・床山(鬘師)など、たくさんの人の集まって成り立っているのです。
冒頭に記したのは『金門五三桐(きんもんごさんのきり)』の二幕目「南禅寺山門の場」(通称『楼門(さんもん)』)の、石川五右衛門のせりふです。

並木五兵衛作。一七七八(安永七)年、大阪で初演されました。初演の名題は『金門五山桐』。配役は、二代目雛助(ひなすけ)の石川五右衛門、初代尾上菊五郎の宋蘇卿(そうそけい)(素卿)・真柴久吉(豊臣秀吉)などです。
題名の「金門」は「金(きん)を使った紋」(秀吉の金好きは有名でした)、「五山(三)桐」は豊臣家の紋「五三の桐」を指します。一八〇〇(寛政十二)年の江戸初演に際して『桜門五山(三)桐』という名題に定着しました。「金門」を「桜門」に改めたのは、五右衛門が棲んだとされる南禅寺の三門(三解脱門の略。「山門」とも)。のイメージを強めようとしたためと思われます。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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間夫がなければ女郎は闇 『助六由縁江戸桜』 (2)

この芝居を「悪態の饗宴」と評した人もいました。
日本全国に悪口(悪態)祭・喧嘩祭と言われる祭が残っています。その種類の祭りでは見物人同士が悪口を言い合い、言い勝った人が福を得られるとされています。悪口は社会秩序を維持するためも装置と考えられますが、この芝居はその風習の芸能化と考えられます。

吉原に来た助六は、謎の武士、意休に喧嘩を吹っかけます。助六は実は曾我五郎で、養父の祐信(すけのぶ)が紛失した刀を探し出し、敵の工藤祐経を討つために、誰彼となく喧嘩を吹っかけて刀を抜かせていたのでした。
冒頭に記したせりふは、助六が登場する前に、揚巻が意休に言う悪口です。この悪態のせりふ術には五代目岩井半四郎の声色(こわいろ)(言い方の癖)が入っているとされます。
このせりふの前後を紹介すると、「お前さんの目を忍んで助六さんに逢うからには、客さん方の真ん中で、悪態口はまだな事、叩かりょうが踏まりょうが、手に懸けて殺さりょうが,それが怖うて間夫狂いがなるものかいなぁ。慮外(りょがい)ながら三浦屋の揚巻でござんす。男を立てる助六が深間(ふかま)、鬼の女房にゃ鬼神がなる」とあります。

揚巻は太夫すなわち吉原の最高の位にある女郎です。姿態も諸芸も優れている遊女でなければ太夫になれません。才色兼備、しかも惚れた男に操を立てとおす意気と張りを持った女性ですから、「江戸っ子が理想とする遊女」と言えるでしょう。
揚巻は助六に惚れて、女郎は「間夫」つまり「愛人」がいなければ生きていけない、殺されても間夫狂いをすると宣言します。現代も、特殊浴場など、いわゆる「風俗産業」の女性は、男に金を注ぎ込むことが多いようです。金銭で愛情をやりとりする商売をしていても、商売を離れて男に愛情を注ぎたくなるのが女心なのでしょう。

ちなみに、この芝居は舞台面に桜を飾ります。一七四九(寛延ニ)年の『男文字曾我物語』の上演の時、吉原に初めて桜が植えられたことを記念して、舞台や花道に桜の大道具を設置したと伝えられます。以降、桜は吉原の名物になったとされます。(しかし、この作品は最初から題名に桜が入っていました。また、それ以前から、開花の時期だけ郊外から鉢植えの桜を移植することは行われていたようです)。

この言い伝えは二つのことを表しています。すなわち、桜は古くから日本人に好まれていたこと(中世からの伝統であるようです)、歌舞伎と遊郭はタイアップしながら歩んできたこと。後者についてだけ言えば、吉原の妓楼の主(経営者)で歌舞伎の「金主」(出資者)になっていた人は多かったので、吉原を宣伝するのは当然なのです。この芝居は作る側と観衆の「共同幻想」で成り立っていると言えるでしょう。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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間夫がなければ女郎は闇 『助六由縁江戸桜』 (1)

今からがこの揚巻(あげまき)が悪態(あくたい)の初音(はつね)意休さんと助六さんを並べてみたところが、こちらは立派な男振り、又こちらは意地の悪そうな男つき、たとえて言おうなら雪と墨、硯(すずり)の海も鳴門の海も、海という字は二つはなけれど、深いと浅いは客と間夫(まぶ)、間夫がなければ女郎は闇(やみ)暗がりで見ても、助六さんとお前と取り違えてよいものかいなぁ。

【注】初音=鳥や昆虫、特に鶯などがその年初めて鳴くこと。ここは悪口の言い初めの意。 硯の海=墨汁を溜める所。 深いと浅い=海の深い浅いに掛けて、関係の深浅を言っている。 間夫=遊女の情人。

『助六由縁江戸桜』は長い歴史を持った芝居ですが、古い形をよく遺しています。原初の形は二代目市川團十郎が一七一三(正徳三)年に演じた『花館愛護桜(はなやかたあいごのさくら)』。しかし、さらにその前があります。元禄期に京で起きた豪商・万屋(よろずや)の長男・助六と新町の遊女・揚巻の心中事件を題材にした芝居が上方で上演されていました。この作品は、その題材を借りて、江戸の芝居に作り直したもの。そのため、歌舞伎十八番物には珍しく、和事(和らかい芸)の味もあります。

三年後の一七一六(正徳六)年に上演された『式例和(やわらぎ)曾我』の時、曾我の「世界」に組み込まれました。「世界」は、有名な伝説や先行文芸のことを言います。つまり、曾我兄弟の仇討ち事件という枠組みを借りて描いたわけです。
現行の形がほぼ整ったのは、一七四九(寛延ニ)年に二代目團十郎が三度目に演じた『男文字曾我物語(助六廓家桜(くるわのいえざくら))』の時、主人公の男伊達(侠客)・助六は、黒羽二重の小袖、綾織の帯、紫縮緬の鉢巻、くりぬきの下駄という扮装で、蛇の目傘を差して登場しますが、この扮装は二代目團十郎が考案したと伝えられます。

『助六所縁江戸桜』という題名は一七六一(宝暦十一)年に上演された『江戸紫根元曾我』の河東節(かとうぶし)の浄瑠璃名題(なだい)で、のちにそれが正式題名になりました。
一幕物ながら、カットせずに上演すると三時間もかかる長丁場の芝居ですが、筋立てに起伏があり、観衆を飽きさせません。この芝居の魅力の第一は、助六とその愛人で吉原の太夫(最高位の遊女)揚巻の雄弁術。二人は口を極めて敵役の髭の意休を罵ります。助六・揚巻は江戸庶民を代表して、特権階級の代表者である意休をやり込めるのです。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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花待ち得たる今日の対面 『寿曾我対面』 (2)

曾我物はなぜ日本人に好まれたのでしょうか。一つには、「判官贔屓(ほうがんびいき)」、つまり弱者に味方する日本人の心情が反映しているのでしょう。曾我兄弟は十八年間の艱難辛苦(かんなんしんく)の末、仇討ちを果たしました。
二つには、御霊(ごりょう)信仰、つまり恨みを残して亡くなった人々を慰める信仰と関係しているのでしょう。史実では、兄は敵討ちの場で死に、弟は祐経の遺児に引き渡されて殺されたとされています。兄二十二歳、弟二十歳という若さで死んだわけですが、兄弟はのちに御霊として祀られました。
全国各地にある御霊神社・曾我神社はこれがはじまりです。(役名の五郎は御霊から来ていると言われます)。菅原道真を祀った「天満宮」もそうですが、日本にはこのような種類の神がたくさんあります。

現代の『曾我の対面』は、明治中期になってから、河竹黙阿弥が曾我物の対面の場面を整理したものです。(現代の上演時間は、江戸時代の半分と言われます)。
富士の狩場の総奉行に出世した工藤祐経を祝う宴会に、曾我兄弟がやってきて、工藤と対面します。冒頭に記したせりふは、その時、弟・五郎が言います。
祝祭劇なので神仏を賛美するのは当然として、三千年に一度咲くと言われる花を待つように出会うのが待ち遠しかったという表現が秀逸です。

この芝居で面白いのは、本来は敵役であるはずの工藤が座頭の演じる善方になっていることです。また、この芝居は工藤が討たれる所まで上演しません。工藤が曾我兄弟に狩場の切手(入場証)を与えて、ということは、工藤が兄弟に討たれることを暗に示して、幕になるのです。

正月のめでたい興行で上演された、鎮魂の儀式劇なので、仇討ちは確実に成し遂げられるであろうという前提で予祝する(あらかじめ祝う)のですから、工藤は(のちに仇を討たれる役であっても)善方で、仇討ちまで見せる必要はないのです。
遠い昔から繰り返し上演されてきたこの芝居には、たくさんの口伝(くでん)(口頭による伝承)が残されています。たとえば、幕切れに登場人物が並んで行う「絵面(えめん)の見得」(引っ張りの見得)では、工藤が鶴、五郎・十郎と小林朝比奈(兄弟の後見人)の三人が富士山の形をします。つまり、初芝居で上演する作品なので、めでたい物の形をするのです。これを「見立(みたて)」と言います。

表記したせりふにも口伝があって、「今日は」を長く引いて「ホーホケキョ」と聞こえるように言います。鶯の初音に見立てて言うのです。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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花待ち得たる今日の対面 『寿曾我対面』 (1)

今日はいかなる吉日(きちじつ)にて、日頃逢いたい見たいと、神仏をせがんだ甲斐あって、今逢うは優曇華(うどんげ)の、花待ち得たる今日の対面。

【注】優曇華=インド原産の、クワ科イチジク属の植物。花は壷状の花托(かたく)に包まれ、外から見えない。仏教では三千年に一度咲くとされ、一般に稀なことの譬(たと)えに使われた。

江戸時代、江戸(東京)の初春(正月)興行で、必ず曾我物の新作が上演されました。曾我物とは、鎌倉時代初期(十二世紀末)に、曾我十郎・五郎兄弟が、鎌倉幕府の重臣・工藤祐経(すけつね)を討った事件を歌舞伎化した作品を言います。めでたい初春を寿ぐ儀式劇として、仇討ち事件を題材にした芝居が上演されたのです。

この事件は早くから軍記『曾我物語』・能などの文芸になりました。江戸時代に入り、歌舞伎や人形浄瑠璃に受け継がれ、曾我物の人気はさらに高まりました。元禄期(十七世紀末~十八世紀初頭)の江戸では、初代市川團十郎が曾我兄弟の弟・五郎を荒事で、初代中村七三郎が兄・十郎を和事で演じ、特に五郎を演じた團十郎は半ば信仰の対象になるほどの人気を集めました。上方歌舞伎では、夏の盆興行で曾我物を上演することが嘉例となり(「盆曾我」と言う)、近松門左衛門も十作近い曾我物を書きました。

そして、享保期(十八世紀前半)頃、江戸の歌舞伎で、正月興行の一番目(時代物)の大詰めに必ず、曾我兄弟と工藤が顔を合わせる「曾我の対面」の場面を置く、「初曾我」という風習が定着し、毎年毎年、曾我物の新作が作られてきました。

現代上演されている曾我物には、この『寿曾我対面』(通称『曾我の対面』。『吉例寿曾我』などとも言う)のほか、歌舞伎十八番の『矢の根』『助六由縁(ゆかりの)江戸桜』、河竹黙阿弥の『小袖曾我薊色縫(あざみのいろぬい)』(十六夜(いざよい)清心)などがあります。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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そりゃ聞こえませぬ伝兵衛さま 『近頃河原の達引』 (2)

呉服商の井筒屋伝兵衛と祇園の遊女・お俊は相思相愛の仲。伝兵衛は、お俊に横恋慕している武士の横渕官左衛門に、贋金遣いの罪を被せられるものの、官左衛門の同僚の情ある計らいで難を逃れます。そして、帰宅途中、四条河原で官左衛門に待ち伏せされて、散々に殴られ、堪えかねて官左衛門を殺します。(義理や意気地(いきじ)を貫くことを「達引」いいますが、題名の「河原の達引」はこれから来ています)。

事件以来、お俊は、近所の娘に三味線を教えている盲人の母と猿廻しの兄・与次郎が棲む・堀川の実家に預けられています。母と兄がお俊を心配して、伝兵衛あての退状(のきじょう)(去り状)を書かせたところに、罪人となった伝兵衛が訪ねてきます。与次郎にお俊の退状を読み聞かせたのですが、文字が読めないので、伝兵衛に自分で読ませます。と、書かれていたのは、退状ではなく、お俊の伝兵衛への思いでした。
感銘を受けた伝兵衛は自分独りで死のうと決意します。表記したのは、そのあとお俊が伝兵衛に向かって言うせりふです。

こうして二人は、兄・与次郎が門出を祝って猿を廻す(舞わす)なか、落ち延びて行きます。というより、死出の旅立ちをします。この幕切れは哀れかつ感動的です。
この芝居には昔の芸人の姿が描かれていて貴重です。その一つは、先に書いた猿廻し。そのニは、盲人の母が近所の娘に教えている三味線。平曲(へいきょく)(平家琵琶)、筝曲(琴)、瞽女(ごぜ)(盲目の女芸人)など、古来、体の悪い人、生産手段を持たない人、女性など、社会的弱者は芸能を職業にして生きてきました。

なお、歌舞伎ではこのくだりに地唄の『鳥辺山』を使いますが、その詞章は古い時代に作られた浄瑠璃の詞章をアレンジして使っています。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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そりゃ聞こえませぬ伝兵衛さま 『近頃河原の達引』 (1)

そりゃ聞こえませぬ伝兵衛さま、お言葉無理とは思わねど、そも逢いかかる初めより、末の末まで言い交わし、互いに胸を明かしあい、何の遠慮も内証(ないしょう)の、世話しられても恩に被(き)ぬ、ほんの女夫(めおと)と思うもの。大事の大事の夫の難儀、命の際にふり捨てて、女(おなご)の道が立つものか。不孝とも悪人とも思い諦め、これもうし、一緒に死なして下さんせ。

【注】聞こえませぬ=意味がわからない。理解できない。転じて、ひどい。情けない。 そも=そもそも。 逢いかかる初め=出会った時。内証=ここは「家庭の内部」「内々」の意。遠慮が「無い」と掛けている。 しられても=してもらっても。 女夫=夫婦。 難儀=並々でない苦労。 命の際=瀬戸際。生死の境目。 もうし=相手に呼びかける時に言う語。

「遊女の誠と卵の四角はない」と言います。金の代償に身体を与えるのが遊女の「仕事」です。逆に言うと、「商品」である遊女の身体を売り買いするのが廓です。
しかし、歌舞伎や人形浄瑠璃に登場する遊女は現実とは逆のタイプが多数派を占めます。『曽根崎心中』のお初、『心中天網島』の小春。『冥途の飛脚』の梅川(いずれも近松門左衛門作)など、その例にこと欠きません。これは、男の願望の反映であると同時に、稀なものを描いたほうが演劇として面白いということでもあるのでしょう。

『近頃河原の逢引』(主人公の名前から『お俊伝兵衛』とも、場面の地名から『堀川』とも俗称されます)のお俊もそのような「誠」のある女性です。(原作の人形浄瑠璃は上・中・下三段構成ですが、現代は「中の巻」のみ上演されます)。

一七八二(天明二)年、人形浄瑠璃で初演された記録が残っています。でも、それ以前に上演されなかったのか、作者は誰なのかなど詳しいことはわかっていません。
モデルにした事件は元禄期(十七世紀末~十八世紀初頭)に起こったと見られます。その事件を芸能化した歌舞伎・歌祭文(うたざいもん)(俗謡化した祭文)・一中節(いっちゅうぶし)や、『助六由縁(ゆかりの)江戸桜』(このヒロイン揚巻(あげまき)も誠のある遊女)の原作である『紙子仕立両面鏡(かみこしたてりょうめんかがみ)』などを元にして、親孝行の猿回しが表彰された話題を絡めて劇化されたと見られます。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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わたしも女子の端じゃもの 『桂川連理柵』 (2)

詳細はわかっていませんが、中年の男と若い娘が京の桂川で殺された事件があったようです。その事件の最初の劇化は『曽根崎模様』で、これは近松門左衛門の『曾根崎心中』の構図を使って心中物として書かれました。その後、歌舞伎・人形浄瑠璃で、類似作がいくつか作られ、それらを集大成したのがこの作品です。

京の商人・帯屋長左エ門は、伊勢参りの帰り道、近江(滋賀県)の石部で、隣の商家の娘で十四歳のお半に出会い、同じ宿に泊まります。その夜、お半は、うるさく付きまとう同行の丁稚(でっち)を避けて、長右衛門の部屋に逃げ込んで来ます。幼い娘と考えて自分の布団に寝かせたのが間違いの始まりで、二人は契ってしまいます。

帯屋には妻・お絹、義父の繁斎(はんさい)、繁斎の後妻・おとせ、その連れ子・儀兵衛がいて、おとせは養子の長右衛門を追い出し、儀兵衛に跡を継がせようと狙っています。お半が妊娠しているとわかり、せっぱ詰まった長右衛門はお半とお絹の弟を結びつけようとします。その後、貞淑な妻・お絹が言うのが表記したせりふです。

お絹は、貞淑を絵に描いたような妻で、商家の妻の理想像でした。当時も商売の競争は激しく、商家の嫁が亭主の浮気に一喜一憂していたのでは商売が成り立たず、ご飯が食べられなくなってしまいます。この作品も近松門左衛門の作品も、江戸時代の商家の実像が写実的に描かれており、優れた家庭劇(ホームドラマ)になっています。このせりふはそういう背景と同時に、女心を滲ませた名せりふで、観衆の心を打ちました。

人形浄瑠璃ではもちろん太夫が全部この長ぜりふを語ります。歌舞伎ではせりふを割って、俳優とチョボ(竹本=義太夫演奏者)が分担して語ります。義太夫節の聞かせどころですから、役者が独占せず、一部をチョボに譲って花を持たせているわけです。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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わたしも女子の端じゃもの 『桂川連理柵』 (1)

わたしも女子(おなご)の端じゃもの。大事の男を人の花、腹も立つし、悋気(りんき)のしようも、まんざら知らぬでなけれども、可愛い殿御に気を揉まし、煩(わずら)いでも出ようかと、案じ過ごして何にも言わず。六角堂へのお百度も、どうぞ夫に飽(あか)かれぬよう、お半女郎と二人の名さが、立たぬようにと願立も、儚(はかな)い女子の心根(こころね)を、不憫(ふびん)と思うていつまでも、見捨てず添うてくださんせ。

【注】端=はしくれ。 人の花=他人に盗られること。煩い=ここは「病気」の意。 お百度=百度参り・百度詣で。社寺境内の一定の場所から神前・仏前まで、百回往復して祈願すること。 女郎=ここは「若い女」の意。 名さ=悪い噂、悪評。 願立=願掛け。 儚い=ここは「あわれ」 

人形浄瑠璃を歌舞伎化した作品を義太夫物などと言います。人形浄瑠璃や歌舞伎の義太夫物には、女形(人形浄瑠璃は太夫)が長々と心情を語る独白(モノローグ)があります。この長ぜりふを「クドキ」「サワリ」と言い、女形の演技の見どころになっています。

クドキは本来「くどくどと繰り返して言う」の意。義太夫節では「女主人公がしんみりと心情を訴える所」の意で使います。サワリは本来「他の節に触る」、すなわち「他の流派の節を採り入れた所」の意。義太夫節で、聞かせどころが目立つように義太夫節以外の流派の曲節を使ったことから来ています。ともに「重要な場面」であることから、二つの語は同義に使われるようになり、特にサワリという語は「重要場面」の意の日常語としても使われるようになりました。

表記のせりふはクドキ・サワリの典型で『桂川連理柵(れんりのしがらみ)』(通称『お半長右衛門』『帯屋』)で、主人公・長右衛門の妻・お絹が言います。少し前まで、「お半長右衛門」という名は、中年男と少女の恋愛の代名詞になっていました。「帯屋」は、主人公の店の屋号 で、同時に場面の名前。歌舞伎は大概この場面だけ上演します。作者は菅専助。一七七六(安永五)年、人形浄瑠璃で初演されました。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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道も法も聞く耳持たぬ 『摂州合邦辻』 (2)

つまり、この芝居の狙いは、お家騒動物として作られているものの、性欲につき動かされて行動する若い女性を描くことにあります。実際、演技者は本当の恋とした演じましたし、観衆もよくある出来事として見ていました。観衆にとって筋立てはどうでもよいことで、役者の芸の優劣だけが問題だったのです。

歌舞伎はこの作品で、鮑の貝殻を重要な小道具として使います。毒を飲ませる器も、解毒の血を飲ませる器も鮑の貝殻です。さらに、原作の浄瑠璃にも「いつか鮑の片思い」とあります。言うまでもなく、鮑は女性器の象徴です。
玉手の母のせりふに、「十九(つづ)や廿(はたち)の年配(としばい)で、器量発明勝れた娘」「廿そこらの色盛り、年寄った左衛門様より、美しい若衆なら、惚れいで何とするものぞ」とあるように、若い玉手が若くて美しい俊徳丸に恋するのは自然な成り行きでした。

しかし、玉手は俊徳丸の義母。当時の道徳から言えば、名目上だけの母子であっても、母が息子に恋することは許されません。元大名の宗教者で当時の支配思想に洗脳されている父親には娘の行動が理解できません。この芝居の眼目は、本音で行動する玉手と、世間の常識・建前(その体現者である合邦)の対立・葛藤と言えるでしょう。

玉手のせりふは「色盛り」の若い娘の本音です。「恋路の闇に迷」った玉手に、道や法、つまり「世間の常識」を説いても無駄です。「邪魔しゃったら蹴殺す」というせりふは少しもオーバーではないのです。玉手のせりふは、建前で生きることを強要されていた当時の人たちに、衝撃を与えたことでしょう。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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道も法も聞く耳持たぬ 『摂州合邦辻』 (1)

恋路(こいじ)の闇に迷うた我が身、道も法も聞く耳持たぬ。この上は俊徳様、いずくへなりとも連れ退(の)いて、恋の一念通さでおこうか。邪魔しゃったら蹴殺(けころ)すぞ。

=道徳。 =仏法。 いずくへ=何処へ

ラシーヌの『フェードル』、説教節(古浄瑠璃)『愛護若(あいごのわか)』などの例を引くまでもなく、古来、「継母の義理の息子への恋」は芸能の重要なテーマでした。

『摂州合邦辻(せつしゅうがっぽうがつじ)』は、能『弱法師(よろぼし)』、説教節『信徳丸(しんとくまる)』『愛護若』の書き換えで、「継母の義理の息子への恋」の系列に繋がります。菅(すが)専助・若竹笛躬(ふえみ)の合作、上下二巻(五場)の人形浄瑠璃で、一七七三(安永二)年、に初演され、歌舞伎に移されました。現代人形浄瑠璃も歌舞伎もほとんど「下の巻」の切「合邦庵室」だけを上演します。

元大名で道心(どうしん)(仏教修行者)の合邦の娘・玉手(たまて)御前は高安左衛門の後妻になります。後継ぎの俊徳丸に恋をした玉手は、俊徳丸の顔の形を変えて妻の浅香姫に愛想をつかせようと、鮑の貝殻に顔が変る毒を盛り、自分の恋心を打ち明けます。病気となった俊徳丸は、浅香姫と一緒に家を出て流浪します。
という話を受けて「合邦庵室」になります。玉手の両親は、娘は亡くなったものと思い込んで百万遍(弥陀の名前を七日間に百万回唱えること)の供養をしています。そこへ玉手が戻り、浅香姫に嫉妬して、乱行となります。ここで玉手が言うのが冒頭に記したせりふで、人形浄瑠璃でも歌舞伎でも、一番のみどころ、全体の山場です。

ところが、このあと、大どんでん返しがあります。怒った合邦に刺された、瀕死の玉手が意外なことを告白します。恋とみせたのは偽りで、お家横領を企んでいる妾腹の兄・次郎丸から守るため、毒を飲ませて俊徳丸の顔を変えた、「寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻に誕生した女の、肝の蔵の生き血」を鮑の貝殻に取って飲ませれば病は治るので、その条件に当てはまる、自分の血を俊徳丸に飲ませてくれ、というのです。

このように「悪人として行動していた人物が善人に戻ること」を「モドリ」と言いますが、現代となってはそれをあまり重視しないほうがいいでしょう。なぜなら、モドリは世間の常識と離れ過ぎないための演劇的仕掛けにすぎないからです。いわば「予定調和」です。別のものにたとえれば、薬を入れるカプセルのようなもので、カプセルに入っていれば薬は飲み易くなるものの、薬という本質は何ら変りません。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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負うた子に教えられ 『近江源氏先陣館』 (2)

一七六九(明和六)年、人形浄瑠璃で初演され、翌年歌舞伎化されました。現代は八段目(時代物の定型、五段構成にあてはめると四段目の切)の『盛綱陣屋』(『近八(きんぱち)』とも言う)だけを抜き出して上演することが多く、特に首実験のくだりにおける盛綱の心理の変化が一番の見どころになっています。

盛綱(信之)・高綱(幸村)兄弟は鎌倉(徳川)方と京(豊臣)方に分かれて戦い、盛綱は弟・高綱の子・小四郎を生け捕りするものの、時政(家康)に小四郎を殺さないよう命令されています。弟が子可愛さゆえに京方を裏切り家名を汚すことを恐れた盛綱は、母・微妙(みみょう)に、切腹するよう小四郎の説得を依頼しますが、小四郎は未練が出たのか逃げ回って切腹しようとしません。
やがて時政が高綱の首を持って現れますが、その首は明らかに偽物。と、小四郎は「わしも跡から追い付く」と言って、切腹してしまいます。小四郎の父に教えられたとおり、その首を本物に思わせるために、命を捨てたのでした。

意気に感じた盛綱は、主君を欺き、その首は本物と証言します。時政が去ったあと、母・微妙に自分の心境の変化を説明するのが表記したせりふです。歌舞伎・人形浄瑠璃のせりふ・詞章は浄瑠璃のものですが、歌舞伎もほぼ原作どおりに言っています。

要するにこの場面は、真田信之が、弟・幸村の子の命を掛けた行動にほだされて、主君徳川家康を裏切るという話です。しかも、時政(家康)は「大地を見抜く」眼力を持ち「底の底まで疑い深き」超人的な怪人物に描かれ、人形浄瑠璃では不気味な笑いが型になっています。徳川幕府にとって、良いイメージではありません。よく上演禁止にならなかったと感心します。(事実、『鎌倉三代記』などは上演禁止になっています)。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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負うた子に教えられ 『近江源氏先陣館』 (1)

大地も見抜く時政の眼力(がんりき)を眩(くら)ませしは、教えも教えたり、覚えも覚えし、親子が才智。みすみす偽首(にせくび)とは思えども、かほど思い込んだ小四郎に、何と犬死にがさせらりょう。主人を欺(あざむ)く不調法(ぶちょうほう)、申しわけは腹一つと、きめた覚悟もおうた子に教えられ、浅瀬を渡るこの佐々木。甥(おい)が忠義に較べては、伯父がこの腹、百千切っても掛け合い難(がた)き最期(さいご)の大功(たいこう)

【注】大地も見抜く=非常に眼力があること。 不調法=過失。不始末。 腹一つ=切腹するだけ。 負うた子に・・・・・=「負う」は「背負う」。「負うた子に浅瀬を教わる」、つまり「時には未熟な者に教わることもある」という諺。 掛け合い難き=つりあわないほどの。 最期=死に際。大功=大きな手柄。 

江戸時代、役者など、芝居者は生きていくためにたいへんな努力をしました。観衆の観劇料で生活していたので、寝る間も惜しんで、観衆に劇場へ足を運んで貰うための工夫を重ねたのです。入場者がいなければ、芝居者は飢え死にしてしまいます。
努力の第一は、観衆の関心が高い題材を採り上げること。庶民は武士階級の事件に高い関心があったので、それを劇化したいのですが、まともには劇化できません。そこで、粉飾を凝らしました。

近松半二らの合作『近江源氏先陣館(おうみげんじせんじんやかた)』には、佐々木盛綱、高綱兄弟、怪人物・北条時政などが出てきます。この佐々木盛綱・高綱のモデルは真田兄弟の信之と幸村、時政は徳川家康、劇中の合戦は「大阪夏の陣」です。しかし、過去の時代に生きた人でも、徳川家に関係の深い人物は採り上げられません。そこで、遠い昔の鎌倉時代の武士に置き換えて上演したのです。
盛綱は鎌倉時代初期の近江の武将で、「近江源氏」と言われました。弟の高綱は源頼朝の挙兵に参じた武将で、宇治川の合戦の先陣争いで名をあげました。北条時政は鎌倉幕府の初代執権です。つまり、同じ半二の『鎌倉三代記』や並木英輔の『義経腰越状』と同様、鎌倉時代の武将の名を借りて、織豊時代末期の武士の悲劇を描いたのです。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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死んでも褒美の金が欲しい 『鬼一法眼三略巻』 (2)

このように原作や初演台本にないせりふなどを作って入れ込むことを「入れ事」といいますが、入れ事が多いのは歌舞伎の台本・せりふの大きな特徴です。本書に収めた『義経千本桜』の「腹が減っては出来ぬもの」、『仮名手本忠臣蔵』の「馬鹿ほど怖いものはない」「まだ御料簡が若い若い」「色に耽ったばっかりに」、『一谷嫩軍記』の「十六年は一昔」、『東海道四谷怪談』の「首が飛んでも動いてみせるわ」なども、のちに俳優または狂言作者が創作したせりふです。

なぜ歌舞伎には入れ事が多いかと言うと、歌舞伎の台帳(台本)はあくまで「上演の土台となる帳面」だからです。その台帳を基にして、観衆に「受ける」工夫をするのは俳優の責務でした。「口立」で台本が作られた時代からの伝統で、俳優が工夫して台本を膨らませることは当たり前だったのです。

関連して書くと、本書では解説のどこかに、初演年と、純歌舞伎(歌舞伎オリジナル作品)は初演俳優名を入れました。なぜ初演年を入れたかと言うと、歌舞伎は長い歴史を持った演劇で、成立した時代によって形(様式)が異なるためです。初演俳優を入れたのは、歌舞伎の台帳は出演俳優の芸風を計算しながら書かれているからです。したがって、せりふを深く理解するには初演俳優の芸風を知ることが必要になります。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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死んでも褒美の金が欲しい 『鬼一法眼三略巻』 (1)

計る計ると思いのほか、却って馬鹿めに計られしか。たとえこのまま果てるとも、死んでも褒美(ほうび)の金が欲しい。

歌舞伎に「ジワ」という語があります。(「ジワジワ」とも「ジヤジヤ」とも言う)。感動的な演技が行われた時など、観客同士ささやきあう声が劇場全体にじわじわと広がった状態を言い、「ジワがくる」などと使います。
『鬼一法眼三略巻(きいちほうげんさんりゃくのまき)』の「四段目」、通称『一条大蔵譚(ものがたり)』で、スパイの役の八剣勘解由(やつるぎかげゆ)が表記のせりふを言うと、笑いの混じった声が劇場内に広がります。

この作の題材は、源義経の一代を描いた『義経記』のうち、弁慶や兵法者の鬼一法眼の話を中心に鞍馬天狗の話などを加えて脚色したもの。歌舞伎では、「三段目」の「菊畑・奥庭」と、「四段目」の「檜垣」「奥殿」が上演されます。

牛若丸(のち義経)の母・常盤御前は阿保の公卿・一条大蔵卿に再嫁しています。鬼一の弟の鬼次郎(きじろう)・お京夫婦は、常盤の本心を探るため、大蔵卿の館に入り込みます。夫婦は楊弓(遊戯用の弓)にうつつをぬかしている常盤を諌めますが、常盤は楊弓に熱中していると見せかけて、実は平清盛の調伏(呪い殺すこと)をしていると打ち明けます。立ち聞きした八剣勘解由は清盛に注進するため駆け出します。大蔵卿はそれを遮(さえぎ)り勘解由を斬ります。大蔵卿は阿保を装って、平家の目を欺いていたのでした。

冒頭に記したせりふは、首を刎ねられる前、勘解由が言います。この時点の勘解由は大蔵卿を本当の阿保と思っています。また、褒美の金は清盛から貰うという意味です。

文耕堂・長谷川千四(せんし)の合作。一七三一(享保十六)年、人形浄瑠璃で初演され、のち歌舞伎に移されました。しかし、このせりふは浄瑠璃にはなく、歌舞伎に移されてから創作されました。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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ほっと ひと息!!

菫(すみれ)

Rimg0018_2l ・菫(すみれ)科。                        
・学名  Viola mandshurica(すみれ)Viola grypoceras (立壷すみれ)
・開花時期は、3/15頃~  5/10頃。南房総では2月から咲き始めていた。
・花の形が、大工道具の”墨入れ”に似ていることによる。「すみいれ」の呼びがしだいに「すみれ」になった。(私も見たことありませんが、木や石に直線を引く(描く)ときに、墨糸を用いる”墨壷(すみつぼ)” という大工道具があって、これを”墨入れ”とも呼ぶそうです。ちなみに、筆習字をするときに 黒い墨汁を入れるのは「墨入れ」ではなく 「硯(すずり)」ですね)             
・いろいろな種類がある。国産、外国種とも合わせると数百種類。
・園芸品種にパンジーがある。
・花とは別に、目立たない「閉鎖花」をつけそこで種子をつくる。                   
・別名  「墨入れ」(すみいれ)→ 上記参照 「相撲取草」(すもうとりぐさ)   
・1月29日、2月1日の誕生花(菫)
4月17日の誕生花(匂菫)             
・花言葉は「思慮、思慮深い、思い」(菫)「奥ゆかしい、控えた美しさ」(匂菫)

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通勤電車 父さんの贈り物 (2)

山田の訪問はそのさなかだった。これまで高校生やOLが来たことはあったが、背広にネクタイ姿の男は初めてだった。伊藤は「正直驚きで、少し引いてしまいました」と振り返る。
山田は屋上から電車を見た。車内にすし詰めになっている乗客を見た。「ただ一言、気持ち良かった! ざまーみろ電車の中の自分!」。後日、山田は伊藤への手紙に、このいきさつを詳しく書いてよこした。
「伊藤さんとの出会いは、私たち夫婦がつらい時期をくぐり抜けた時だったんです」。妻の真由美は明かす。
一人娘の春香(12)は筋ジストロフィーという難病にかかっていた。一年の半分を病院で過ごし、家や学校でも車いす生活。山田は少しずつ追いつめられていた。「一緒に死にたい」と、弱気をはくこともあった。そんな夫婦を救ったのは、春香のまっすぐな笑顔だった。「娘に負けずに毎日を大切にしようって、話すようになったころでした」

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昨年2月、山田はがんで逝った。44歳だった。2年前から自宅療養をいていたが、容体が急変した。伊藤はライブをCDに録音して届けていた。「お互い戦おうって手紙が返ってきたのですが」と悔やむ。山田が撮った家族の写真でいっぱいの家に、妻と娘だけが残された。

伊藤は昨年、10周年を迎えたのを機にひとまず屋上ライブを終えた。でも、クリスマスの朝、久しぶりに屋上に立った。そこに、真由美と春香がいた。
「こんなに電車が近かったのね」。初めて屋上にきた真由美は驚いた。その前で、伊藤はジョン・レノンの「イマジン」を力いっぱい歌った。父さんが聞いた歌声に華族は笑みを浮かべ、そして静かに涙を流した。その前を、通勤電車がいつものように走っていった。

ニッポン 人・脈・記 心の鉄路⑩ 朝日新聞掲載より抜粋

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