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2009年3月

通勤電車 父さんの贈り物 (1)

朝。通勤電車が一斉に動き出す。すし詰めの車内から見えるのは、見慣れた街並みと、すれ違うホームに並んだ自分と似た無表情な顔ばかり。

6年前の12月の朝、山田勝敏は渋谷に向かう東急東横線の車窓から外を見ていた。学芸大学駅の手前にさしかかった時だ。高架になった線路脇のビルの屋上で、赤いマントにサングラス姿の男がギター片手に歌っているのが見えた。頭に大きな魚の張りぼてをのせて。
「何とも暇な御仁だ」
社団法人の総務課長だった山田にとって、男は別世界の住人に思えた。それから毎朝、男はいた。声は聞こえない。何を考えているのだろう? やがて、山田は
「眺めているのは私ではなく、ビルの上の彼の方ではないか」と、思うようになった。
「電車の中の私は一体、どう見えているんだろう」。そう思うと、自分が「養鶏場の鶏」のような気分になった。男は「おれはここだよ」と言わんばかりに歌っている。

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男は伊藤清光(49)、愛称「KEYBOW(キーボー)」。名古屋や東京で会社員をしたが、高校時代に夢中だったロックへの夢が捨てられずに29歳で渡米。帰国後、学芸大学駅前を拠点に、「目黒川慕情」などのご当地ソングやラブソングを自主制作していた。
当初は街角ライブだったが、目立たない。そこで目をつけたのがビルの屋上だった。「高架を走る電車からなら間近に見えるかなと」。98年のことだ。

駅の手前とは言いえ、車内からは一瞬しか見えない。それが逆に通勤客の関心を誘った。「たまに混雑で電車が目の前で止まると、一斉に窓が開くんです」。
目黒にちなんでサンマをかぶり、様々な衣裳を着た。鉄道ファンから「東急の新型車両を歌で応援してください」とメールがくるようになった。03年、メジャーデビューを果たした。

ニッポン 人・脈・記 心の鉄路⑩ 朝日新聞掲載より抜粋

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ああ上野、終着駅の記憶 (2)

東京駅ができる前、東海道方面からの列車は新橋までだった。房総方面からは両国、甲信方面から飯田町、そして、上野。そこに、終着駅があった。その後、各駅が山手線などで東京駅と結ばれ、東京始発が増えるにつれて、終着駅の装いは失われていった。上野の地平ホームがその面影をとどめるだけになった。

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その上野でも、82年の東北新幹線の大宮駅開業で、多くの在来線特急が消えた。91年には東北新幹線も東京駅まで延び、上野は通過駅になった。

そして02年、JR東日本は上野駅を大改装した。JRの駅は今、列車の乗降客が通り過ぎるところから、構内で買い物をしたり、食事を楽しんだりする場所に変りつつある。上野駅改装の当初案は、その先取りのように、大型飲食店街を改札内外に展開するものだった。
これに、地元商店街は反発した。駅前でおもちゃ屋を経営する富坂昇(79)は言う。「これでは駅から街に誰も出てこなくなる」。富坂は地元をまとめる協議会の会長だ。地元町会連合会長の北原達夫(77)らと、何度もJRと協議した。
間に立たされた丸山は、飲食店街を改札の外に限定し、地元商店街との共存を目指すと説得した。「上野が終着駅である限り、客は街に出るはずです」と、丸山は富坂らに訴えた。そして「うえの夏まつり」のパレードを、地元の観光連盟会長だった目崎平吉(77)と協力して駅のコンコースないにまで入れた。

「上野の駅長らしい駅長」と共感した富坂らは、駅のリニューアルを認めた。何もかもが新しくなる東京で、今も古いものが息づく街。富坂は言う。「古くて迷路みたいな駅かもしれたいけれど、そこがすでに上野の街なんですよ」
13年度には、宇都宮線や高崎線、常磐線といった、上野を始発、終着駅にしていた最後の在来線の東京駅乗り入れが検討されている。
「ふるさとの訛りなつかし/停車場の人ごみの中に/そを聴きにゆく」
地平ホームには石川啄木の歌碑が残る。ふるさとの響きは、さらに小さくなったゆく。

ニッポン 人・脈・記 心の鉄路⑧ 朝日新聞掲載より抜粋

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ああ上野、終着駅の記憶 (1)

JR上野駅で、「地平ホーム」と言えば、中央改札口の正面にある13番線から17番線のことだ。かつて、東北や上信越方面からの終着のホームだった。線路はここで終わっている。

ヒット曲「あゝ上野駅」で、青森弘前市出身の演歌歌手、井沢八郎は、「上野はおいらの心の駅だ」と歌った。
中学生のころから地元のキャバレーで歌っていたという井沢は1957年春、家にあった6俵の米をこっそり売った金で上野行きの列車に飛び乗った。7年後、集団就職する人たちを歌ったこのヒットに出会うまで、東京は決して優しくなかった。帰りたくて、深夜の上野駅のホームから下りて線路に耳をあてたこともあった。
妻の工藤美代子(47)は24歳年上だった夫からそう聞いた。2年前、井沢は他界した。工藤は毎月一度、上野駅にある井沢の歌碑の掃除に訪れる。「ここに来ると夫が身近に感じられるんです」

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その井沢の歌声にのり上野駅がつかの間、タイムスリップをした時があった。01年12月29日。ホームは人でいっぱいだった。青森との間をつなぎ、集団就職の人たちを乗せて「出世列車」とも呼ばれた急行「津軽」が廃止から8年、復活した。

ホームの先頭に井沢と立っていたのが、36代駅長の丸山祐樹(62)、タイムスリップの仕掛け人だった。「かつて上野からはたくさんの特急や急行が出ていた。上野がそんな駅だったことを伝えたかった」
長野行きだった特急「あさま」に、青森行き特急「はつかり」、仙台行き特急「ひばり」など、丸山駅長だった01年から04年までに20本近くの列車をひととき復活させた。

ニッポン 人・脈・記 心の鉄路⑧ 朝日新聞掲載より抜粋

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鼻筋がチャームポイント (2)

名古屋学芸大教授の木村一男(74)は大学時代、卒業制作に「将来の通勤電車のデザイン」を選び、アドバイスを求めて星のところは押しかけた。星は快く協力してくれた。
木村は国鉄に入りたかったが、当時の国鉄にはデザインの専門ポストはなく、日産自動車で車のデザインをした。それでも、2人の縁は切れなかった。
約20年後の79年、木村は星の薦めで国鉄の車両設計事務所のデザイン専門委員となる。

それから、JRの時代にかけて、木村は航空機の内装デザインを手がけていた松本哲夫(79)や同じ日産のデザイナーだった福田哲夫(60)とともに、天井までの大きな窓をもつ「スーパービュー踊り子」、全室個室の寝台特急「カシオペア」と、豪華で多彩な車両を次々デビューさせた。同時に、運転席には鼻筋がなくなり、曲面ガラスを使った流れるようなデザインになった。
その最新成果は、07年に登場したN700系新幹線に見ることができる。鳥のクチバシのような先頭の形を福田は「航空機の垂直尾翼と水平尾翼をかけあわせた機能的な形なのです」と言う。

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92年に九州に登場した787系新型特急「つばめ」のメタリックなデザインで、一躍注目を集めたのが水戸岡鋭治(61)だ。イラストレーターだった水戸岡は、福岡市のホテルのデザインなどを手がけてJR九州の経営陣の目にとまった。
昆虫のような顔をした883系特急「ソニック」に、魚の胸びれに似た白いカバーが台車の前に付いている885系特急「かもめ」など、カラフルな楽しいデザインで水戸岡は新風を吹き込んだ。
その真骨頂は車内のデザインにある。木材を多用し、車両のデッキに乗客が語らえる場所をつくった。「もともと鉄道の旅は一期一会、乗り合わせたもの同士が語らう場だったはずです」
蒸気機関車がいた時代のにぎわい、胸の高鳴り。水戸岡がデザインの向こうに思い描くのは、そんな旅の楽しさを取り戻すことだ。

ニッポン 人・脈・記 心の鉄路⑧ 朝日新聞掲載より抜粋

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鼻筋がチャームポイント (1)

「グリーン車」のドアを開けて、星晃(ほしあきら)(90)のいたずらっぽい笑顔が現れた。
「ようこそ、我が家へ」
元国鉄副技師長は、自分がデザインを手がけた初代新幹線0系のグリーン車のドアを、自宅の部屋に据え付けていた。

新幹線から寝台特急まで、国鉄を代表する旅客車の設計に星は関わった。そのデザインは、武骨な中にもユーモラスな表情が隠れている。尋ねると「鼻筋を通してきたからじゃないか」と、また笑った。
鼻筋とは、運転台のガラスの真ん中に入った1本の支柱のことだ。0系新幹線「ひかり」も、東海道線のビジネス特急「こだま」も運転台にピンと1本柱が通っている。「これが速くて快適な電車のイメージでもあったのですよ」

戦後の列車の新しい形を提案したのが、星の師匠だった元国鉄技師長の島秀雄(しまひでお)だった。D51形蒸気機関車から新幹線まで、今の日本の鉄道の原型をつくった。「鼻筋こそ、島さんのこだわりでしたから」
2人が最初に鼻筋をつけたのが「湘南電車」の量産型だった。沿線のミカンの葉と実にあわせて、緑とオレンジ色をした車両は、黒や茶色が多かった戦前の列車のイメージを鮮やかに塗り替えた。

星の代表作、特急「こだま」には、鼻筋の先に大きな鼻のようなボンネットがある。それまで客室の下にあった機械類を鼻の中に収めることで、客室の騒音を低下させた。0系「ひかり」では、星と島は鼻筋とともに丸い先端をつけた。
「実現しませんでしたが、あの独特の先端を、父はは光らせたかったようです。高速で走るので、遠くからでの見えるように」。
そう語る島の次男、島隆(しまたかし)(77)も父のもとで0系の台車の設計に携わった。

ニッポン 人・脈・記 心の鉄路⑧ 朝日新聞掲載より抜粋

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リニアの父、夢継ぐ60年 (2)

「可能性を信じて、がむしゃらに進んでいく。すごいパワーの人」。
開発予算との担当として京谷のそばにいた武田宏(69)は言う。79年、無人ながら最高時速517㌔を達成し、有人走行にも成功した。だが、快進撃は意外な結末を迎える。91年に火災が起きた。低速で走る時だけ使うタイヤの空気が抜けて燃えた。中核技術の失敗ではないが、藤江は現場を去る。87年の国鉄分割・民営化も手伝って、開発は京谷たちの手からJR東海に移った。

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新幹線とは別次元の特急を、京谷たちはひたむきに目指した。これに対し、JR東海が建設した山梨実験線で初代実験センター所長を務めた関秋生(63)がまず考えたのは、新幹線の蓄積を生かすことだった。関は開業後の新幹線のトラブル解決を担ってきた。「失敗を生かすことは得意でした」
関にとって、開発途上のリニアは「トラブルの宝庫」だった。超伝導磁石が振動にによって磁力を失う現象も起き、根絶できていなかった。国鉄の俊英たちに頼っていた技術開発に、関らは外部のメーカーの力も結集し、実用化に向けて動き出した。組織の力を重視した、新幹線のやり方だった。

山梨実験線では03年、有人で世界最速の時速581㌔を達成した。JR東海は2025年にリニア新幹線を東京・名古屋間に走らせると表明。これを受けて今年1月、国土交通省は輸送機関として大丈夫かどうかを評価する委員会を久しぶりに開いた。いま開発チームを率いる白國紀行(56)は「いつでも営業運転できる」と胸を張る。
とはいえ、巨額の建設コストが実現の前に立ちはだかる。予定通りにできたとして、あの5人の同好会から60年の長い夢になる。

一番長く、その夢を見てきた京谷は「比較的順調に来たと言ってもいいんじゃないか。僕も乗る日を楽しみにしているんだよ」と豪快に笑う。25年に「リニアの父」は99歳になっている。

ニッポン 人・脈・記 心の鉄路⑦ 朝日新聞掲載より抜粋

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リニアの父、夢継ぐ60年 (1)

東海道新幹線が開業した2年後の66年、日本中がまた「夢の超特急」に沸き立っていたころ、別の「夢の超特急」を思い描く5人の国鉄技術者がいた。
5人は「超高速鉄道研究同好会」を立ち上げた。考えるのは、新幹線の「次」。新幹線の成功に、米国などは「これからは航空機の時代」と冷ややかだった。「ならば、東京と大阪を1時間で結ぼう」
東京・大阪間は約500㌔。レールの上を走る列車の時速は、300㌔台が限界だと言われていた。「だったら、磁石で浮いて走る超特急を造ればいい」。5人はそう考えた。
5人のうち、最年少が後に国鉄副技術長になる京谷好泰(きょうたによしひろ)(83)だった。「リニアの父」と呼ばれる。

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「車輪がないなんで、バカじゃないかって社内で言われてね」。京谷は当時を振り返る。
「でもそう言われれば、ますますやりたくなった」
郷里・岡山の小学校で理科の先生から「自分で見た者以外は信じるな」と教え込まれた。外国人と交流が多かった祖父の影響で海外に目を向け、「超伝導」の欧米の研究成果に注意を払っていた。技術的には不可能ではないことが、京谷には分かっていた。
68年、京谷は研究チームを立ち上げる。しかし、集まった若い技術者たちすら半信半疑だった。車両担当の藤江恂治(70)もその一人。71年春、京谷から「浮かせて走らせろ」と言われた。当時、やっと超伝導磁石を造ったばかり、重すぎて浮かない。
「無理です」と答えて、「お前はそれでも開発者か」と、延々と説教された。
「自分で確かめてもいないのにできないって言う。官僚と同じだ」と京谷は容赦ない。藤江らは磁石の軽量化に必死に取り組んだ。翌72年3月、風呂おけほどの大きさの車両が走った。世界初の浮上走行だった。

ニッポン 人・脈・記 心の鉄路⑦ 朝日新聞掲載より抜粋

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最速300キロ 口伝の運転術 (2)

大塚と一緒に開業時の運転士養成に当たった桐村博之(79)は、運転士の心得として忘れられないことがある。蒸気機関車の機関助士だった18歳の時に先輩機関士メモをくれた。福知山から大阪まで、どこで蒸気の加減弁とブレーキを操作するかが細かく書かれた運転の「秘伝」だった。
「むだな蒸気を使うと、石炭をくべる助士が忙しくなる。助士からも尊敬される運転とは何かを教えられました」。こうした運転技術の伝授は、新幹線時代になっても変らず続く。

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JR東海の運転士だった渡邉達雄(62)にとって、新幹線の運転は暗算の連続だった。「静岡駅(167.4㌔)には色なし」「掛川駅(211.3㌔)な兄さん」。語呂合わせで東京からの距離を覚え、残りの距離と、到着予定時刻から、この先どれくらいの速度を出したらいいか、暗算ではじき出す。
沿線の建物や景色も操作の目印にしてきた。東京から50㌔付近にあるのが「相模川」、250㌔付近は「浜名湖」、350㌔付近は「ビール工場と清洲城」。それぞれでどんな操作をするのか、それを教えてくれたのは「師匠」だった。新幹線の運転士は、運転を教えてくれた先輩をそう呼ぶ。

JR東海で最初の女性運転士の一人、秋山紀子(32)は、東海道新幹線の上り線で浜名湖付近の下り坂を、いかにスムーズに通り過ぎるかを「お師匠様」に伝授された。うまくマスコンを戻さないと、速度が出すぎてブレーキが自動的にかかってしまう。その時の風や天候、乗客数によって、タイミングは違う。
「うまくいった時はやったって思います」

徹底的にマニュアル化して安全を確保しようとする航空機と違い、新幹線の運転のノウハウはマニュアル化されなかった。「あえて先輩から後輩へ、口伝えで引き継がせた。一人ひとりが、車両の内外の状況を自分なりに考えながら、列車を動かすことが大切なのです」。多くの運転士の師匠でもある渡邉はそう考えている。

ニッポン 人・脈・記 心の鉄路⑥ 朝日新聞掲載より抜粋

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最速300キロ 口伝の運転術 (1)

広島駅から運転を交代した土井良友(51)は、ひときわ長い汽笛を鳴らした。ひかり347号はゆっくりと、博多に向けて走り始めた。
08年12月14日、初代新幹線0系は最後の日を迎えた。ダンゴ鼻が特徴の0系は1964年10月に走り始め、東京と新大阪を3時間10分で結んで戦後復興のシンボルとなった。デビューから44年。山陽新幹線に残っていた車両のラストランが、土井の手にゆだねられた。

新幹線の線路は平らだと思われがちだが、時速200㌔を超える運転台から見れば、かなり起伏がある。「ジェットコースターに乗っているようですよ」と、土井は笑う。
このコースを、いかに最小限のマスコン(アクセル)とブレーキ操作で走るか。新幹線の運転士として、土井はそのことに心血を注いできた。それは最高時速300㌔の最新型N700系に乗る今も変らない。土井は、その技術の伝承を任された、JR西日本唯一の技術主任運転士だ。

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新幹線の走行はATC(自動列車制御装置)など、日本が世界に誇る技術で何重にも守られている。例えば、マスコンを入れっぱなしにして、ATCに自動ブレーキをかけてもらいながら走ることは不可能ではない。しかし、そんな運転士はいない。
大塚滋(79)は「手動の方が時間ぴったりに走れる。乗客の乗り心地もいい」と言う。新幹線が開業する前、運転車両主任としてテストコースで当時の最高時速256㌔を達成した男だ。試作車両を使い、新幹線の運転技術を極めた自負がある。
ATCに頼らない運転を心がけることによって、万が一の時に対応する力も身につくと大塚はいう。

ニッポン 人・脈・記 心の鉄路⑥ 朝日新聞掲載より抜粋

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治ってくれ 走ってくれ (2)

しかし、修理、修理での延命も限界が近づく。「昔の工場には鋳造場があって、部品をそばで造ってましたからな」。神戸にあった鷹取工場でD51形などの製作にあたった白國栄三(89)は言う。SLの修理部品は、列車の状態にあわせて造ることができた。「そんな工場、もうあらしまへんやろ」。鷹取工場も今はなく、部品づくりは下請けに任されるようになった。

最大の問題はボイラーだ。石炭をくべるたびに熱せられるボイラーは、最も傷みやすい。大阪市北区のしにせボイラー会社社長、颯波基一(さっぱもといち)(82)は、これまで多くのSLのボイラーの復元や修理をしてきた。だが、「修理では限界があるし、新造したくても造れる業者はもうおりまへん」と言う。「私もいつまでやれるかなあ」

京都・梅小路運転区は、全国最多の18両がいるSLの「聖地」だ。今、SLのさらなる延命に取り組もうとしている。運転区長の田口勇一(57)は「ボイラーや台枠も新造しなければならない時が来るかもしれない」と言う。だから、小倉のハチロクに先行例として注目する。
今後、白國からアドバイスを受けながら、技術伝承に取り組む予定だ。20代の検査員が昨春、久しぶりに配属された。塩津利基(24)だ。「本当は電車の運転士になりたかった」と言いながら、15人の先輩から特訓を受ける日々が続く。
「水飲んで、石炭食って、いろんなもの出すし、駄々はこねるし。ホンマ、生き物ですわ」。塩津が先輩のアドバイスを書き込んだススだらけの手帳はすでに3冊目になった。

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今月、再復活したハチロクは4月25日、客を乗せて熊本と人吉の間を走り始める。ボイラーも台枠も新造したハチロクを、本来のハチロクと言えるのか。そんな厳しい声が玉井と清水にも聞こえてくる。
だが、2人は機関車の声に耳を傾ける。故障の有無を探り、機関車の発するいろんな音に耳をすます。「この音、この乗り心地、間違いなくこれはあのハチロクです」

ニッポン 人・脈・記 心の鉄路⑤ 朝日新聞掲載より抜粋

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治ってくれ 走ってくれ (1)

JR九州小倉工場で6日、2度の死亡宣告を受けた「老人」が復活した。
1923年に造られた8620形の蒸気機関車(SL)だ。同型は国産初の量産型旅客用機関車として600両以上が製造され、「ハチロク」の愛称で親しまれた。75年、他のSLとともに日本の線路から姿を消した。
それが88年、国鉄の分割・民営化でJR九州が発足したのを機に復活した。SLブームの追い風もあった。その時の修復チームにいたのが車体の専門家の玉井明人(52)と、台車の専門家の清水利男(45)だった。

復活にあたって、SLの心臓部のボイラーを新しく造る必要があった。その中心に玉井がいた。玉井の父はSLの検査員だった。「おやじも手がけたこいつをもう一度走らせたかった」
復活後、「SLあそBOY」と名付けられ、九州を走って人気を集めた。だが、ボイラーを支えて動輪とつなぐ「台枠」が老朽化でゆがみ、05年、また引退に追い込まれた。
ハチロクは小倉工場に戻ってきた。「まだ完全に廃車と決まったわけじゃないよな」。そう言って、玉井と清水は暇を見つけては磨いた。いつでも修復ができるように。

07年1月、台枠を新造して復活させることが決まった。今度は清水が中心になった。
清水は祖父がSLの機関士だった。「祖父が運転したかもしれないと思うと、縁のようなものをずっと感じてきました」

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現在、全国の主要鉄道で実際に走っているSLは約20両。
「SLはほかの機関車とはまるで違う」と、玉井は言う。左右のシリンダーが呼吸するように動き、蒸気を噴出、水を垂れ流す。毎日、調子が違う。「だから人気者なんです」

ニッポン 人・脈・記 心の鉄路⑤ 朝日新聞掲載より抜粋

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帰って来いよ タヌキ駅長 (2)

にぎわいが引くのは速かった。。駅前の県道が付け替えになり、店や民家が立ち退いた。「道路ばかりがよくなり、鉄道の荷物はどんどん減っていきました」ツタエの娘の睦美(57)は言う。
五郎と鉄子も姿を消した。駅の裏に広がる山にかえっていった。あとには、駅舎のないホームがぽつんと残された。便利さを求めた結果、五郎駅は寂れていった。その後、四国の鉄道全体が、便利さをめぐる闘いに苦しみ始めた。道路網が急速に整備され、高速バスやトラックが鉄道を圧倒するようになった。

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2年前、川原徹也(50)は内子の駅長になった。かつて五郎駅と内子駅がつながっていたことなど、着任するまで知らなかった。「じゃあ、その時の線路は今、どうなっているの」。国鉄OBらと探した。うっそうと茂った森の中に、レールがそのまま残っていた。

07年10月、川原は内子駅から五郎駅に向かって廃線跡を歩くをウォークラリーを企画した。当日は大雨だった。しかし、30人近い参加者が集まった。意外な反響に、川原はさらに沿線の歴史を調べ始めた。「五郎と鉄子」を知るまで時間はかからなかった。駅近くで昔から理容店を営む井上金徳(67)は昨春、訪ねてきた川原に言った。
「タヌキの小屋をもう一度、作ってみようか」
井上は、ホームのそばに新たに小屋を建てた。「憩いの家 五郎 鉄子」。毎晩、残パン片手に小屋を訪ねる。「五郎や五郎」。静に呼びかけながら、パンをまいた。井上の声に応じて、夜だけタヌキの一家が現れるようになった。
「雄と雌の区別もつかないんだけど」と井上は笑う。「でも先代の夫婦と血がつながっているんじゃないかと思う」

「銀河鉄道999」という夢を松本に見させた五郎駅。タヌキの”駅長”が時折、出勤してくる五郎駅。「便利さのかげで、私たちは何か大切なものを忘れてきてしまっている気がするんです」。川原は、廃線ウォークラリーを恒例行事にしたいと思っている。

ニッポン 人・脈・記 心の鉄路④ 朝日新聞掲載より抜粋

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帰って来いよ タヌキ駅長 (1)

「銀河鉄道999」のふるさとを訪ねた。
松山駅から予讃線で約1時間半のところに五郎駅がある。この近くに、漫画家、松本零士(まつもとれいし)(71)の親の実家があった。終戦前後、松本は幼少期をここで過ごした。夜、家からは満天の星の下を走る蒸気機関車が見えた。
「石炭をくべるたびにボーッと、赤い灯が煙に反射するんです」。
そのイメージは後年、九州から上京した体験などとともに、「999」に結実する。「五郎駅こそ、私に夢を与えてくれた場所でした」

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松本がいたころ、五郎駅はにぎやかだった。十数人の駅員がいて、旅館や食堂が駅前に軒を連ねた。当時の五郎駅は、木材などを積み出していた内子駅へ向かう内子線が予讃線から分かれる分岐駅だった。たばこ屋をしていた三瀬ツタエ(93)は、当時をよく覚えている。
「駅員さんはもちろん、トラックや運送会社の人たちが食堂にあふれていて、夜遅くまでにぎわっていたよ」
歌手の野口五郎(52)が若きアイドルだった70年代に、人気を集めたことも。そして、ホーム近くに出てくるタヌキの夫婦に駅員が気づいたのは84年ごろだった。ツタエが餌を用意した。
「駅の人たちが小さな家までつくってあげてねえ」。
駅員たちは駅にちなんで夫婦に「五郎」と「鉄子」という名をつけた。

86年、松山駅から山間部を抜けて内子駅へつながる短いルートが開通した。五郎駅経由で時間のかかる海沿いのルートはさびれ、内子線は五郎駅ではなく、その先の伊予大洲駅で予讃線とつながった。分岐駅ではなくなった五郎は、その年のうちに無人駅になった。

ニッポン 人・脈・記 心の鉄路④ 朝日新聞掲載より抜粋

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古き列車の花咲かす人 (2)

福井大学の出身で岸とともに古い貨車の保存活動をしてきた笹田昌宏(ささだまさひろ)は、岸と仲間が手配してくれた京福電鉄の車両内で結婚式を挙げた。「研究者でもあるとともにマニアの気持ちも分かる、数少ない人材だった」。

三重県四日市にある三枝鉄道の会長、日比義也(ひびよしや)(69)も、岸の思いにほだされた一人だ。三枝鉄道の沿線に、岸や笹田の集めた各地の古い貨車を保管する、日本で唯一の貨物鉄道博物館を建てた。「自分たちだけのものを持つことで、社員の励みになり、会社の活性化につながる」

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昨年6月、岩手・宮城内陸地震で宮城県栗原市の旅館が土石流にのまれ、5人が死亡、2人が行方不明になった。5人の中に岸がいた。廃線になったくりはら田園鉄道の駅舎保存などのため、現地に招かれていた。35歳だった。

岸を失って、津軽鉄道の澁谷たちのショックは深い。04年に社長になった澤田長二郎(さわだちょうじろう)(69)は、旅客数の減少に歯止めをかけようと苦闘している。そんななか、「経営再建の前に、私たちは自分の鉄道への誇りを取り戻さなければならなかった。岸さんから、それを学んだのだと思う」。

今冬も名物のストーブ列車が走る。客車の昔ながらの石炭ストーブの素朴な暖かさが、全国から客を集める。岸がまいた地方鉄道の誇りという胤は各地で、芽をふき始めている。

ニッポン 人・脈・記 心の鉄路③ 朝日新聞掲載より抜粋

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古き列車の花咲かす人 (1)

JR大宮駅近くに07年10月に開館した鉄道博物館は、家族連れや女性も集まる人気スポットだ。C57形蒸気機関車から「こだま」形特急電車まで、懐かしい列車の実物が館内に並ぶ。

今は亡き岸由一郎(きしゆいちろう)は、ここで学芸員をしていた。地方私鉄を中心に鉄道史を地道に研究する若手の有望株だった。人なつっこい笑顔で、テレビの鉄道紹介番組にも登場した。
そして、もう一つの顔をもっていた。休日を利用して全国の地方鉄道を訪ね、古い車両や施設の保存を訴える。こんなボロボロの車両がなぜ大切なのか、鉄道会社の人間も首をかしげる前で、保存を頼んだ車両をいとおしむように磨いた。車両の傷一つにも、その鉄道の歴史が刻まれていると岸は考えた。

津軽半島の20.7㌔を走る津軽鉄道は、岸が足しげく通った地方鉄道の一つだ。旅客数は74年の257万人をピークに現在は約30万人まで減っている。過疎化の波をかぶり、施設の老朽化も加わって、地元の利用者はマイカーに流れていた。
役員の澁谷房子(しぶやふさこ)(52)が岸と初めて会ったのは00年、開業70周年の年だった。岸は現役を退いた古い車両を走らせて、70周年イベントをしては、と提案した。そのために、母校の東京学芸大学にある鉄道研究部の後輩たちをボランティアで連れてきた。企画は事前に鉄道雑誌で広く紹介された。

イベント当日、いつもは風しか吹いていない沿線に、古い車両目当てのカメラの列があった。「自分たちってこんなにすごかったんだって、初めて分かった」。その年に入社した白鳥泰(しらとりあきら)は言う。
地方鉄道の大半が赤字に苦しんでいる。経営の立て直しは簡単ではない。しかし、岸はたとえ古い鉄道でも光のあて方次第で、全国から客を呼べる可能性を示した。

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「幼いころから古いものを捨てずに修理して、大切に取っておく子どもでした」。父の紘一郎(こういちろう)(68)は言う。その息子が鉄道と出会ったのは、父の転勤で小学校から高校までを過ごした福井だった。
えちぜん鉄道の前身、京福電鉄の古い車両に魅せられた。なかでも「テキ6形」と呼ばれる小さな電気機関車は国内に現存する最古に近い。20代になって岸はその復活を持ちかけ、実現させた。

ニッポン 人・脈・記 心の鉄路③ 朝日新聞掲載より抜粋

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包丁1本 ブルトレ仁義 (2)

最初に乗ったのは、長崎と京都を結ぶ夜行列車「雲仙」だった。長崎駅を出発すると、食堂車は活気に満ちた。客の騒ぎを横目に、激しく揺れる調理場で包丁を握り、飯を炊いた。食堂車のいすを並べた上で眠った。

悩みができると、客としてブルトレに乗った。75年、新幹線の食堂車へ移るよう求められた時もそうだった。「ブルトレから客を奪った新幹線なんか乗れない」。でも当時、長男が生れたばかり。2段ベッドの天井を見上げ、廊下から真っ暗な窓を見つめた。結局、断って7年間、地上勤務になった。

90年にブルトレ「あさかぜ」の食堂車を降りるまで、、宇都宮はブルトレにこだわった。カメラも手放さず、全国でブルトレを撮った。写真は鉄道雑誌に載り、「カメラを持った調理人」として知られた。その活躍から、今は九州鉄道記念館の館長代理を務める。

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新久保勝(しんくぼまさる)(57)と西村隆一(にしむらりゅういち)(57)はそんな宇都宮を知る「富士・はやぶさ」の車掌だ。「今もたびたびお会いします。本当によく利用していらっしゃいます」と、新久保。

西村は「富士・はやぶさ」廃止のショックが隠しきれない。
「まさか自分たちが最後の車掌になるなんて」。
西村の元には多くのファンが集まる。立教大一年の谷篤実(たにあつし)(19)もその一人。
「新幹線は便利かもしれないけれど、旅って無駄を楽しむことでもあると思うのですが」。
下りの車内で迎えた瀬戸内の夜明けが忘れられない。

朝10時、東京駅10番ホーム。宇都宮を乗せた「富士・はやぶさ」が到着した。ホームに降りた宇都宮は、車庫に向かうまで列車を見届ける。連結部のきしむ音、車輪がレールの上で時折、空転する音。何千回と聞いているのに、降りるとどうしても思い出せなくなる。「二度と乗れなくなったら、どうやって思い出せばいいのでしょう」。宇都宮はそう言って、ホームにたたずんだ。

ニッポン 人・脈・記 心の鉄路② 朝日新聞掲載より抜粋

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包丁一本 ブルトレ仁義 (1)

車輪がレールをたたく規則正しい音とともに、ブルートレイン(客車寝台特急)「富士・はやぶさ」は右カーブにさしかかった。外は闇。時折、踏切の点滅が窓をかすめるだけ。
「今、宇部の手前ですね」
座席に座ったまま、宇都宮照信(うつのみやてるのぶ)(59)は言った。外を見ずに、耳を澄ます。「このあたりはS 字カーブが多いんです。また曲がりますよ」。しばらくして、宇部駅の看板が走り過ぎた。

毎日、「富士」は大分、「はやぶさ」は熊本を出発、門司で連結されて東京へ向かう。まだ新幹線がなく、航空機は高根の花だった時代、人々はこの列車で東京を目指した。宇都宮はブルトレの食堂車の調理場に約20年、立った。外を見なくても、どこを走っているか分かる。

しかし、「富士・はやぶさ」は3月で廃止になる。新幹線に、航空機に客を奪われ、07年度の平均乗車率は4割。九州と東京を結ぶブルトレは、これですべてなくなる。「考え事があると、ここで寝ないで一晩過ごしてきたんです。自分の部屋のようなところなんですから」。
ピーッ。先頭でかん高い汽笛が鳴った。

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福岡・筑肥線沿いで生れた宇都宮には、蒸気機関車が世界のすべてだった。毎日、SLを見に来る小学生を、駅員たちも「茶でも飲みんしゃい」と迎え入れた。
中学生になって父親がカメラを買ってくれると、全国のSLを撮影して回った。博多高校の機械科に進学しても撮影に明け暮れ、国鉄の入社試験はあえなく不合格。知り合いの駅員の紹介で入った会社も続かず、18歳で失業した。

その時、「はやぶさ」に出合った。1968年のことだ。鹿児島線の伊集院駅で構えたカメラの前を、光輝く食堂車とコックたちが通り過ぎた。目を奪われた。すぐに食堂車を運営する会社を訪ねた。「調理師の免許はあるのか」と聞かれ、「溶接の免許なら持っています」としか答えられなかった。でも、採用になった。

ニッポン 人・脈・記 心の鉄路② 朝日新聞掲載より抜粋

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無人駅に冬のぽっぽや(2)

9時過ぎ、信号場で待つ貨物列車の横を、雪煙をあげ特急オホーツクが通過した。網走から札幌まで約5時間20分で結ぶ。
「仕事以外で列車に乗ったことはないなあ」。見送りながら、信定は笑った。信定の地元の上川駅はかつて、層雲峡観光の玄関口だった。いま、特急から降りる観光客は少ない。みな札幌や旭川から直接バスで向かう。藤本たちも、ふだんはマイカーだ。地元の足となる各駅停車は一日数えるほどしかない。
元農業の藤本は、この仕事を始めて10年になる。農協職員だった信定とは古くから知り合いだ。雪深い北海道で農業は10月までが限界。12月から3月まで3日に一度、24時間勤務をして一冬で数十万円になる。収入の断たれた冬、農家にとってうれしい実入りだ。

2人の泊る部屋にはテレビも電話もない。ラジオと、相棒と。それでも「一番の楽しみ」と2人は口をそろえる。「家にいても退屈なだけだあ」
道内に2人のような冬季作業員は約1400人いる。毎年増えている。多くが地元の農家だ。合理化で駅員を減らし、無人駅を増やしたことが、藤本ら冬の間だけの「ぽっぽや(鉄道員)」を生んだ。深夜の駅にもし明りがともっていたら、それは彼らの灯りだ。

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今冬、10代の新人が加わった。神戸友宏(こうべともひろ)(19)。昨春、高校を卒業して上川町役場の臨時職員となったが、夏場だけの仕事だった。役場で一緒に仕事をしていた元大工の津田川栄治(つだがわえいじ)(67)がこの仕事に誘った。
休みの日は体育館で独りバスケットをする神戸には、母親が長年勤めていたレストランの仕事を失ったのが心配の種だ。
「どうしても地元で就職したい」と神戸は言うが、地元には仕事がない。「ここで働きながら、いい仕事を早く見つけろ」。
そんな神戸を津田川は励ます。

いてつくレールに向き合うのは、人の温かさ。列車に乗って、人々の心の鉄路をたどっていこう。

ニッポン 人・脈・記 心の鉄路① 朝日新聞掲載より抜粋

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無人駅に冬のぽっぽや(1)

白んできた峠に差し掛かると、雪をかぶった2両編成のディーゼル列車は止まった。
「着いたぞ」
藤本勇蔵(71)が乗務員用のドアからはしごをつたって雪の上に降りる。信定薫(のぶさだかおる)(70)が続く。北海道中央部に近い上川町、午前6時49分。上越(かみこし)信号場に2人を残し、列車は去った。
白い谷底のようだ。
目の前に雪の絶壁が立ちはだかり、背後には、いてつく川。周りに民家は一軒もない。
信号場の脇に駅舎がぽつんと立つ。「石狩北見、国境標高六三四米上越駅」の木の看板が残る。34年前まではここは駅だった。列車から降りた2人は、かつて駅の事務室だった部屋に駆け込む。交代で勤務を終えた要員がつけておいてくれた石油ストーブのそばで作業着に着替えると、再び外へ。

旭川から単線の石北線を東へ1時間余り、道内でも屈指の豪雪地帯にあるこの信号場で、上下の列車がすれ違う。藤本らは24時間、次の交代が来るまで信号場に詰める。線路のポイントを凍結から守るために。

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列車の到着前、信号場にある2ヵ所のポイントから雪をかき出す。ポイントには電熱器が入っている。それでもふぶけば凍結する。零下30度近く。雪かきをしなければ、列車はすれ違うことができない。
次の列車までおよそ2時間。雪はひざ上まできている。間が約300㍍あるポイントを往復すると汗だくになる。「今日はまだいい。降りだすと一晩で1㍍積もるから」と信定が言う。大きなプラスチック製ショベルで線路内の雪をかき出す。除雪作業をするのは信定だけだ。「私は見張りに専念せにゃいかんのですよ」と、藤本はすまなそう。しかし、線路作業の監視を怠って命を落とした同僚は少なくない。

ニッポン 人・脈・記 心の鉄路① 朝日新聞掲載より抜粋

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ほっと、ひと息!!

うめの花

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・薔薇(ばら)科。
・開花時期は、1/25頃~4/5頃。
・とてもよい香りの5弁花。 「馥郁(ふくいく)たる梅の香り」の”馥郁”  とは、「とてもよい香り」の意味です。 (そういえばこの言葉って、梅の香りにしか使われないような気がします) 
・中国原産。奈良時代の遣隋使(けんずいし)か 遣唐使(けんとうし)が中国から持ち帰ったらしい。
・「万葉集」の頃は白梅が、平安時代になると 紅梅がもてはやされた。万葉集では百首以上が詠まれており、植物では萩に次いで多い。
・幹がゴツゴツしているのが梅の特徴。
・実が梅干しとなる(白梅の場合)。 梅雨の頃に収穫する(梅干し、おいしいです)。 江戸時代には、各藩が非常食として梅干を作る ことを奨励したため、梅林が全国で見られるようになた。ちなみに「梅雨(つゆ)」の名の由来は、梅の実がなる頃に雨が多いからだそうです。・梅の字は「母」の字を含むが、中国ではつわりの ときに梅の実を食べる習慣があるらしい。

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十六年は一昔、アア、夢だ夢だ 『一谷嫩軍記』 (2)

続く「熊谷陣屋」で、前に仕組んだトリックが明らかになります。直実のいる陣屋(軍兵が駐屯する兵舎)に、直実の妻・相模、続いて経盛の御台所(つまり敦盛の母)・藤の方が訪ねてきます。相模は出陣した我が子を案じて、藤の方は我が子の敵・直実を討つために来たのです。義経が首実検することになり、直実が敦盛の身替りに自分の子の小次郎を立てたことが明らかになります。

主人の義経の意向を汲んで行動したため、我が子を殺してしまった直実は、世の無常を悟り出家して陣屋を去ります。その幕切れに直実が言うのが表記のせりふです。十六年とあるのは、若くして亡くなった、我が子・小次郎が生きた年月です。
このせりふも原作にない、歌舞伎の「入れ事」です。したがって、昔はこのせりふを言った人も言わなかった人もあり、言い方もそれぞれ違いました。

このせりふにはもう一つ奥があります。実は十六年前まで、直実は佐竹次郎と名乗る北面の武士(御所を護る武士)でしたが、相模と不義(人の道に外れた恋愛)を犯して、藤の方に助けられました。同じ頃、藤の方は後白河法皇の胤を宿しながら、経盛に嫁ぎました。つまり、敦盛は法皇の落胤です。このせりふには、そういう経緯を含めた、万感の思いが籠められているのです。

直実は出家して、法然上人の弟子となり、蓮生(れんしょう)と名乗ったことは当時もよく知られていました。仏門出身の作者によってその史実を踏まえて作劇されたため、このせりふも含めて、この芝居は仏教色が強く滲んでいます。

たとえば、このせりふの前に直実夫婦は「惜しむ子を捨て、武士を捨て、住みどころさえ定めなき、有為転変の世の中じゃなァ」と嘆きます。有為転変の「有為」は、絶対的なものを言う「無為」の反対語で、恒常でないものを言う仏教語です。「転変」は移り変わること。つまり、同じ意味を重ねて言っているわけです。

ちなみに、「諸行無常」という仏教語もあります。「諸行」は「いっさいのもの」、「無常」は「同じでないこと」。「万物は生滅変転し常住でないこと」を言い、転じて、「生命ははかないこと、人間はいつ死ぬかわからないこと」の意で使われます。これは仏教の核心をなす思想で、現代の日本もそういう考え方に覆われています。逆に言うと、そういう思想に基づいて書かれた作品だからこそ、日本人に受け入れられ、現代も高い人気を保っているのでしょう。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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十六年は一昔、アア、夢だ夢だ 『一谷嫩軍記』 (1)

今ははや、何思うことなかりけり、弥陀の御国へ行く身なりせは、アア、十六年は一昔(ひとむかし)、アア、夢だ夢だ。

【注】弥陀=阿弥陀の上略で、「弥陀の御国へ行く身は」は「俗世を捨てて、出家をする」の意。

歌舞伎にはその死に首が本物であるかどうか実際に見て検かめる「首実検」の場面がたくさん出てきます。たとえば、この『一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)』の「熊谷陣屋」もその一つで、この場面では源義経が平の常盛の嫡子・敦盛の首が本物であるかどうか検かめます。

『一谷嫩軍記』は一七五一(宝暦元)年、人形浄瑠璃で初演。題名の「嫩」という字は「若い」という意を持ちます。若くして死んだ、敦盛と熊谷直実の子・小次郎を暗示しているわけです。『平家物語』の書き換えで、平家に心を寄せる義経の意を汲んだ、岡部六弥太(ろくやた)と熊谷直実の自己犠牲的な行動を描いています。
並木宋輔(千柳)などの合作ですが、宋輔は三段目「熊谷陣屋」まで書いて歿してしまい、残りは弟子たちが書きました。この作品のうち「熊谷陣屋」は現代でもよく上演され、現代歌舞伎の中でも一二を争う人気曲です。

源氏の武士・熊谷直実は、源義経から暗に、敦盛を救えと命じられます。そのため、直実は一の谷合戦を描いた前の「陣門・組討」で、敦盛を討ったと見せかけるため、敦盛と同い年の我が子・小次郎を身替りにたてます。
この場面を俗に檀特山(ダントクセン)と言います。これはこの場面に出てくる「檀特山の憂き別れ」という浄瑠璃の詞章から来ています。檀特山はインドのガンダーラ地方にある山の名前で、釈迦が出家した時、見送りに来た従者の車匿(シャトク)童子と別れた所とされています。作者の宋輔は仏門出身なので、とくに深い仏教の知識を持っていました。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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魂魄この土に留まって 『仮名手本忠臣蔵』 (2)

この芝居では、「四段目」で塩谷判官、「六段目」で勘平、「九段目」で加古川本蔵が死にます。三人の作者が中心的に描きたかったのは、この三人の登場人物の死でした。筋立ては仇討ちですが、それはいわば旗印にすぎません。

判官は「四段目」で、「湊川(みなとがわ)にて楠木正成、最期の一念によって生(しょう)を引くと言いしごとく、生き替り死に替り、鬱憤晴らさん」と言って切腹します。(近頃、歌舞伎ではカットして上演することが多いですが)。判官は、「七生報国(しちしょうほうこく)で知られる楠木正成の伝説を引いて、「何回も生まれ変って鬱憤を晴らす」というのです。
そして、「六段目」の勘平のこのせりふ(このせりふは原作にも出てきます)。

『忠臣蔵』は一七四八(寛延元)年、歌舞伎の『大矢数四十七本』に刺激されて作られ、人形浄瑠璃で初演されました。作者の並木千柳(宋輔)・三好松洛・二代目竹田出雲は、判官と勘平の二つのせりふを照応させて書いたのでしょう。つまり、判官のせりふは「四段目」までの集約、勘平のせりふは「五・六段目」の集約です。
「生き替り死に替り鬱憤を晴らす」「魂はこの世に留まって敵討ちをする」というのですから、御霊への変身宣言です。御霊は霊魂の丁寧語。恨みなどを残して亡くなった人を慰めるために祀った神を御霊神、御霊を慰める信仰を御霊信仰と言います。丸谷才一などの諸氏は『忠臣蔵』と御霊信仰の関係について注目しました。

実は、これによく似たせりふが、同じゴールデントリオが一年前に書いた『義経千本桜』に出てきます。この二段目(渡海屋)で平知盛は「さてはこの数珠掛けたのは、知盛に出家とな。ええ穢らわし。そもそも四姓始まって、討っては討たれ、討たれては討つの源平の習い。生き替り死に替り、恨みをなさで置くべきか」と言って入水します。この二つのせりふはよく似ています。

昔から芸能と宗教は深く関係していました。判官も勘平も本蔵も「諸行無常」を絵に描いたような人物です。諸行無常とは、「世の中に存在するものは、変化・生滅し、永久に不変なものはない」という考え方で、仏教の基本思想の一つです。三人の作者が仏教・儒教・御霊信仰などの影響を大きく受けていたことは確かでしょう。
このせりふも判官のせりふも、作品の成立に関わっている重要なせりふなので、判官のせりふもカットせずに原作どおり言うべきです。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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魂魄この土に留まって 『仮名手本忠臣蔵』 (1)

仏果(ぶっか)とは穢(けが)らわし。死なぬ死なぬ。魂魄(こんぱく)この土(ど)に留まって、敵討ちの御供(おんとも)する。

【注】仏果=成仏。成仏は善行を行った結果として得られるとされる。 穢らわし=不愉快。 魂魄=魂。 この土=現世。俗界。

『仮名手本忠臣蔵』の魅力の第一は、大星由良助(大石内藏助)、早野勘平・小駕籠、高師直(吉良上野介)など、魅力的な人物を多数登場させ、それを各段(歌舞伎の幕に当たる)に巧に配して組み立てたところにあります。

たとえば、「大序」から「四段目」途中までの主役は塩谷判官(えんやはんがん)(浅野内匠頭)です。「五・六段目」の主役は勘平で、「七段目」主役は、「四段目」の途中から登場する、家老の大星由良助。「八段目」は道行所作事(舞踊)で、戸無瀬(となせ)・小浪母娘。「九段目」は女形が活躍するものの、結局、殿中で判官を抱きとめた加古川本蔵が中心になります。「十段目」は、主要人物でただ一人の町人、天川屋義平(あまかわやぎへい)が主役。「十一段目」が討ち入りとなります。実にうまく作られています。

事件の責任を感じ駆落ちした勘平は「五段目」で、猟師をしながら、おかると生活していますが、追い剥ぎに落ちぶれた家老の息子・斧定九郎を猪と間違って撃ってしまいます。「六段目」になって、舅を殺したと勘違いした勘平は、お詫びのために腹を切り、その時言うのが「色に耽ったばっかりに」というせりふです。
その直後、舅を殺したのは勘平ではないとわかり、瀕死の勘平を訪ねて来ていた二人の侍の一人・原郷右衛門(不破数右衛門)が「仏果を得よや」すなわち「成仏してくれ」と慰めますが、勘平は表記したせりふを吐いて死んでいきます。

このせりふは、せりふとして面白いだけでなく、『忠臣蔵』という芝居の性格を表す重要なせりふです。この作品の成立に関わると思われるのです。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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色に耽ったばっかりに 『仮名手本忠臣蔵』 (2)

しかし、事件を起したのは主君です。それに、近習といっても、城中深く入れるわけではありません。現代の青年なら、「社長が起した事件なのに、社員が責任を取ることはない」と主張するでしょう。ところが、勘平は江戸時代の忠義な青年です。責任を感じ、失点を取り戻そうと焦って行動します。そのため却って、やることなすこと「鶍の嘴」のように食い違ってしまい、短い人生を終えようとしています。

このくだりは、原作は「かほどまでする事なす事、鶍の嘴ほど違うというも、武運に尽きたる勘平が、身のなりゆき推量あれ」とあるだけ。このせりふは、幕末の三代目尾上菊五郎が工夫して、原作の詞章を膨らませたと伝えられます。

六代目菊五郎の著書『芸』には勘平の演じ方が克明に記録されていますが、このせりふはすべて「腹の皮を背中につける心にて、せりふを言う事口伝(くでん)なり」とあり、「色に耽ったばっかりに」のところは「両人に恥ずかしき心にて」とあります。また、「色に、色に耽った」「大、大事の」「おん、御仇討の」と重ねて言うとあるのも、後輩にとっては実際的なアドバイスです。

十五代目市村羽左衛門も音羽屋型で演じましたが、このせりふを「二人侍に対し惚気(のろけ)じみた辱(はずか)しみを感ずる心にて」言うと話しています。女性にもてた羽左衛門らしい芸談で、そういう余裕があるから歌舞伎は面白いのでしょう。

ちなみに、「はじめに」であげた落語で、素人の出演者が演りたがる役は、大概が『忠臣蔵』の勘平です。ということは、観衆の多数を占める女性たちの一番好きな役は勘平であったということです。
そのため、この役は役者たちの工夫が重なり、多くの型があります。しかし、現代はほとんど、三代目菊五郎が始めて五代目菊五郎が洗練させた音羽屋の型で演じます。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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色に耽ったばっかりに 『仮名手本忠臣蔵』 (1)

いかなればこそ勘平は、三左衛門が嫡子と生まれ、十五の年より御近習(ごきんじゅ)勤め、百五十石頂戴致し、代々塩谷(えんや)の御扶持(ごふち)を受け、束の間御恩は忘れぬに、色に耽(ふけ)ったばっかりに、大事の場所にも居り合わさず、その天罰で心を砕き、御仇討の連判に、加わりたさに調達なしたる、金も却(かえ)って石瓦、鶍(いすか)の嘴(はし)とくい違う、言いわけなさに勘平が、切腹なしたる身の成り行き、御両所方、御推量下されい。

【注】いかなればこそ=どういうことかと言えば。 近習=主君の近くに仕える役。 =大名・武士の禄高の単位。一石は0.一八キロリットル。 塩谷=浅野家のこと。江戸時代は当時の武家社会で起こった事件を劇化できなかったので、『太平記』の世界に移してある。 色に耽った=情事に熱中した。 連判=同志が約束を固めるために書いた署名。 石瓦=価値がない物を言う。 鶍の嘴=鶍はアトリ科の鳥。嘴はくちばし。この鳥の嘴は湾曲し上下が交差している。 御両所=勘平を訪ねてきた二人の侍。

人間は恋をします。それを反映して、歌舞伎には恋愛場面がたくさん出てきます。『仮名手本忠臣蔵』「五段目」「六段目」の主役、勘平の悲劇は、人間なら誰ももっている欲求(人情)と当時の社会の要請(義理)との矛盾によって起きました。

「三段目」で、主人の塩谷判官(浅野内匠頭)は高師直(吉良上野介)を斬り付けてしまいました。その時、近習の勘平は、自分を追って城に来た恋人のおかると、仕事を忘れ「色に耽って」いました。責任を感じた勘平はその場で切腹しようとしますが、おかるに説得され、切腹を諦めて、京郊外のおかるの実家に駆落ちします。

「五段目」の舞台は、おかるの実家近くの「山崎街道」。おかるは勘平が仇討ちに加わるための金を欲しがっているのを察し、色街に身を売ります。おかるの父親はその半金を受け取りに行き、帰宅途中、同じ塩谷の家老の息子・斧定九郎に殺されてしまい、その直後、通りかかった勘平は、猪と間違って定九郎を撃ってしまいます。

「六段目」は、勘平がおかると一緒に棲んでいる、おかるの実家が舞台。勘平が帰宅すると、舅の死骸が運び込まれます。その後、二人の赤穂浪人が訪ねてきますが、自分が舅を殺したと早合点した勘平が、腹を切って言うのがこのせりふです。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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まだ御料簡が若い若い 『仮名手本忠臣蔵』 (2)

ただし、このせりふも原作の人形浄瑠璃にはありません。原作は、九太夫・定九郎親子が御用金の分配と城の明け渡しを主張するのに対して、他の人たちは城に籠って討ち死にすることを主張し、由良助も後者の意見に傾きかけたので、恐れをなした斧親子が退席するという筋立てになっています。つまり、歌舞伎では、由良助の度量の大きさと思慮深い性格を出すために話を複雑にしたのです。江戸時代末期に七代目市川團十郎が上演した時、狂言作者の西沢一鳳軒(いっぽうけん)が、このように改訂したと伝えられます。

ちなみに、これに似たせりふは河竹黙阿弥の『三人吉三(きちざ)』の「大川端」にも出てきて、お嬢吉三・お坊吉三の争いに割って入った和尚吉三が「そんなら二人が百両を、貸せ貸すめえと言い募り、大事の命を捨てる気か。そいつぁとんだ由良助だが、まだ料簡が若い若い」と言います。

『忠臣蔵』も含めて、歌舞伎は先行作品を受け継いで作劇されました。せりふも同様で、人口に膾炙(かいしゃ)している有名なせりふは後世の作品でもよく使われました。黙阿弥も当時流行していたこのせりふを自作に採り込んだのです。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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