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2009年2月

まだ御料簡が若い若い 『仮名手本忠臣蔵』 (1)

いま討死にして亡君が、何お悦びあるべきや。ササ御手向(おんたむけ)になり申さぬぞ。血気に逸(はや)る猪武者、短慮功をなさずの譬(たと)え。まだ御料簡(ごりょうけん)が若い若い。

【注】亡君=塩冶判官高貞(たかさだ)(実説の浅野内匠頭永矩(ながのり))を指す。 手向=神仏へ供え物をして、死者の冥福を祈ること。 猪武者=がむしゃらに突進するだけの武士。 料簡=考え。思慮。分別。

歌舞伎は宝永期(十八世紀初頭)から人形浄瑠璃のヒット作の歌舞伎化をはじめました。人形浄瑠璃を歌舞伎化した作品を義太夫狂言・丸本物などと言います。
『仮名手本忠臣蔵』も義太夫狂言なので、義太夫節の演奏により上演されます。しかし、上演を重ねているうちに写実的になってしまった段(幕)もあります。「四段目」がその例で、義太夫節は最小限入るものの、下座音楽は入らず、実録風に作られています。
「四段目」で、塩冶判官(浅野内匠頭)が切腹した後、家臣は対応を協議します。家老の斧九太夫(おのくだゆう)は本心を隠し、城に籠って討ち死にしようと血気に逸る若者たちを煽って帰宅します。九太夫に煽られ、その気になった若者たちが出て行こうとするのを、同じ家老の大星由良助(ゆらのすけ)(大石内蔵助)が呼び止めて、表記のせりふで若者たちを諭します。

「四段目」の中心は判官が切腹するくだりですが、このせりふを言う評定(ひょうじょう)のくだりも重要です。というのは、ここは、由良助の性根(しょうね)を表現する場面なのです。性根というのは役の性格・本心といった意で、その性根を表現するこのような肝腎要の重要場面を「性根場」(日常語の「正念場」はこの転訛)と言います。

由良助は思慮深い性格で、容易に本心を明かしません。この場面で若者たちを説得し、城を明け渡して、京郊外の山科に籠り、幕府の措置にどう対処すべきかを探ります。敵討ちという本心を明かすのは「七段目」になってからです。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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馬鹿ほど怖いものはない 『仮名手本忠臣蔵』 (2)

魅力的な人物がたくさん出てきますが、私が好きなのは師直です。実説はともかく、この芝居の師直は、和歌に通じているなど、教養はあるものの、色好みで、金銭に執着する人物として書かれています。人間的な弱点を持った人物に描かれているのです。
師直は判官の妻・顔世を去らせるので、怒った師直は若狭助を侮辱します。憤懣やるかたない若狭助は、師直を討とうと決心します。(「大序」「二段目」)

「三段目」で、若狭助の決心を知った桃家の家老・加古川本蔵は、(歌舞伎では家来の鷺坂坂内を通じて)師直に賄賂を贈ります。賄賂を貰った師直が平謝りに謝るので、拍子抜けした若狭助は師直を斬ることが出来ません。若狭助が去ったあと、師直が言うのが表記したせりふで、小僧とあるのは若狭助のことです。
実は、このせりふも歌舞伎の「入れ事(工夫して入れたせりふ)」で、原作の浄瑠璃にはありません。若狭助は愚直な好青年で、短期なものの、一般にいう馬鹿ではありません。しかし、手練手管を駆使する老獪な人にとっては、直情径行型のシンプルな青年が怖いようです。世の真実を衝いた名せりふと言えるでしょう。

この後、それとは知らない判官が、顔世の師直への返歌を持ってきて、師直がそれを読むと断りの歌が書かれています。怒った師直が判官の登城が遅れたことを当てこするので、判官は「御酒機嫌か」といなしますが、師直は「御酒下されても呑まいでも、勤むる所はきっと勤むる」と言い放ちます。(このせりふも良いせりふです)

師直はさらに、井戸の中にいて世間を知らない「鮒侍(ふなさむらい)」と判官を愚弄するので、我慢しきれなくなった判官は刀を抜き師直に斬りかかります。こうして、判官は切腹を命じられ、塩冶家は断絶します。つまり、師直が原因で事件は起きました。

師直はこのように重要な位置にいる人物で、師直役の俳優が巧く演じないと芝居全体が実在感(アクチュアリティ)を失ってしまいますから、演じる俳優の責任は重大です。殿中でありながら、なぜ判官が刀を抜いたのかわからなくなってしまうし、浪士たちが命を懸けて仇討ちする意味がわからなくなってしまうのです。敵役が巧いと芝居は面白いと言いますが、このような重要な役ですから、師直は老練の俳優が演じます。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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馬鹿ほど怖いものはない 『仮名手本忠臣蔵』 (1)

あの小僧め、俺を斬る気とみえる。馬鹿ほど怖いものはないなあ。

日本演劇一番のヒット作は、なんと言っても『仮名手本忠臣蔵』です。あまり有名なので、略称の『忠臣蔵』は赤穂浪士が吉良上野介を討った事件の代名詞になりました。そして、現代も上演されているだけでなく、未だにテレビ・映画などの忠臣蔵物の原作になっています。「新解釈」と謳っても、『忠臣蔵』からはなれられないのです。

江戸時代、武士社会で起きた事件は劇化できなかったため、『太平記』の「世界」を借りて作ったのが、この作品。そのため、主な役名は『太平記』から借りています。
では、『忠臣蔵』はなぜ大ヒットしたのでしょうか。まず、忠義を錦の御旗にしたことが挙げられます。忠義という旗を掲げたからこそ上演出来ました。また、苦労を重ねて主君の恨みを晴らす浪士の行動が庶民の心を打ったことも事実です。

しかし、それ以上に、演劇として優れていたことが大きいと思います。なぜなら、忠義を旗印にした芝居は他にもたくさんありますが、その中でもこの芝居は群を抜いて人気がありました。この芝居が優れているのは、忠義を旗印にしながら、「金」と「色」を描いたところにあります。人間なら誰も興味がある普遍的な欲求を描いたからこそ、長い間にわたって上演できたし、現代も通用するのでしょう。

「色」の件から言うと、この芝居には三つの恋が出てきます。すなわち、かおる・勘平、小浪・力弥、高師直(こうのもろなお)(吉良上野介)の塩谷判官(えんやはんがん)(浅野内匠頭)の妻・顔世(かおよ)御前への横恋慕です。この三組の中で、作品の構成上重要なのは、三組めです。師直は顔世に断れてた腹いせで判官に当たりちらし、耐えかねた判官が師直を斬りつけるという設定になっていますから、この人物が居なければこの芝居は始まりません。

「金」の件について言うと、加古川本蔵が師直に賄賂(まいない)を贈るくだりだけでなく、おかる・勘平のくだりなど、この芝居には金に纏わる話がたくさん出てきます。金のことばかり言っている芝居と言っても過言ではありません。文楽の太夫・豊竹山城少掾(とよたけやましろのしょうじょう)によれば「金」という文字は六段目だけで四十七箇所もでてくるそうです。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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恋と忠義はいずれが重い 『義経千本桜』 (2)

興味深いのは「恋と忠義はいずれが重い」という詞章です。静は義経の愛人、実際の忠信は義経の家来。二人は主従の関係で、恋仲ではありません。しかし、作者は、主従の間に恋愛の自由はなかった江戸時代に、このような詞章を入れました。

これは「道行」という場面の性格から来ています。道行は要するに、息抜きや浄化(カタルシス)を目的に書かれ、時代物は五段構成の四段目の口、世話物は上中下三段の下段に置く約束でした。そして、男女二人づれで行く姿を描くことが多かったのです。
『千本桜』の道行もその約束に従って書かれたので、「恋と忠義は・・・・」という詞章を入れ、主従でありながら、相思相愛の男女が旅をしているかのように匂わせたのです。

のちの詞章に「(狐の)子ゆえに身をこがす我は、恋路に迷う身のうらましやねたましや」とありますから、狐忠信は、擬似恋人気分で静と旅をしたと読むことも出来ます。
したがって、この場面は艶(なまめ)かしい雰囲気を匂わすのが本来です。ところが、近代以降、歌舞伎では「二人が”出来て”いるように見えてはいけない」という意見が主流になり、現代はよそよそしく演じるコンビも見受けられます。
能の『船弁慶』は、静との間に恋愛めいた雰囲気を漂わせないため、義経は子方(こかた)(年少の演者が演じる役)になっていますが、『千本桜』の静と狐忠信が恋人同士に見えるのは良くないという意見は、能に近づきすぎというか、主従関係に囚われすぎた解釈で、正しくないでしょう。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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恋と忠義はいずれが重い 『義経千本桜』 (1)

恋と忠義はいずれが重い、かけて思いは量りなや。忠と信(まこと)のもののふに、君が情と預けられ、静かに忍ぶ都をば、跡に見捨てて旅立ちて、作らぬなりも義経の、御行く末は難波津(なにわつ)の、波に揺られて漂(ただよ)いて、今は芳野と人づての、噂を道の枝折(しおり)にて、大和路(やまとじ)指して慕い行く。

【注】かけて=秤に掛けるように。 量りなや=量れない。 忠と信の・・・都をば=掛け詞的に「忠信」と「静」を入れ込んでいる。 作らぬ=「着飾らない」の意。 なり=扮装。下の「義経」の「よし」に掛かっていて、「なりよし」つまり「静は簡潔な格好でも美しい」の意。 難波津=現在の大阪湾。 芳野=吉野。 枝折=道しるべ。 

名題(タイトル)は『義経千本桜』ですから、主人公は源義経と思われ勝ちですが、義経は狂言廻して、主役は平知盛・いがみの権太・狐忠信の三人(正確に言うと二人と一匹)です。そのうち、狐忠信に関わる筋は、大和に伝わる源九郎狐の伝説を採り入れたもの。義経の愛人・静御前が持っている鼓の革になった狐の子が、親狐(つまり鼓)を慕い、佐藤忠信に化けて、静と行動を共にするという設定です。

平家討伐に活躍した義経は、後白河法皇からの恩賞として、初音の鼓を授かります。しかし、法皇と兄・頼朝の権力争いの板挟みになり、都落ちすることになります。義経を慕う静は伏見稲荷で義経一行に追いつくものの、同道を許されず、形見に初音の鼓を貰います。義経が立ち去ったあと、静は鎌倉方の逸見藤太に連れ去られそうになりますが、出羽に帰っていた筈の義経の家来・佐藤忠信が現れて静を救います。

以上が「初段」から「二段目」口(最初の場面)までの二人に関わる粗筋。表記したのは「四段目」口の「道行初音旅」の初めの詞章。長い間登場しなかったので、二人連れで旅をしている理由を説明しているのです。(歌舞伎のこの場面は桜爛漫の吉野に設定されていますが、原作は桜が咲く季節ではありません)。
ちなみに、狐が忠信に化けていたことが明らかになるのは「四段目」切の「川連館(かわづらやかた)」になってから。この場面は、狐のしぐさは見せるものの、忠信として行動します。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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腹が減っては出来ぬもの 『義経千本桜』 (2)

初期歌舞伎で道化役は、大きな位置を占めていました。(「三枚目」という語は、道化役が看板などの連名の三枚目に書かれたことから生れました)。ところが、時代が下がるとともに、歌舞伎は悲劇の面が強くなり、道化役はその中の喜劇場面(「チャリ場」という)だけに出てくる役になり、敵役を兼ねる半道敵に変化しました。
藤太は典型的な半道敵ですが、歌舞伎化された時、藤太を活躍させたほうが演劇として厚みが増すと考えられ、原作にないせりふも新しく作られて、役も大きくなったのです。この作品も全体としては悲劇性が強いだけに、藤太の活躍は目立ちます。

表記のせりふは、原作の人形浄瑠璃にはない、歌舞伎の「道行初音旅」だけのものです。藤太は「鳥居前」で好評だったため、のちに「道行」にも登場するようになり、ほぼ同じせりふを言うことになったのです。

つまり、歌舞伎で作られたせりふですが、表記のせりふの前に「総じて軍の駆け引きは、小敵と侮るな、大軍とて恐るるな。まず強勇と見たならば、人より先に退くべし。弱い奴なら引っ絡め、手柄にするのが肝要なり。必ず忘るな、合点か」とあります。
私たちは俗に「腹が減っては戦が出来ぬ」などと言いますが。表記したせりふは軍隊論・兵隊論としても含蓄があります。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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腹が減っては出来ぬもの 『義経千本桜』 (1)

とかく軍(いくさ)というものは、腹が減っては出来ぬもの。そこらに茶屋があるならば、飯を炊かせろ、合点か。

【注】茶屋=ここは「路傍にあって、湯茶などを提供し、通行人を休息させる店」の意。他に、遊女・芸者を揚げて遊ぶ上方の「色茶屋」、揚屋(あげや)へ客を案内する江戸・吉原の「引手(ひきて)茶屋」、男女が密会に使う「出会(待合)茶屋」、「料理茶屋」、「芝居茶屋」「相撲茶屋」などがあった。

遠い昔に作られ、現代も上演されている名作は大概、原型があります。同じ原作から脚色した(または同じ事件を劇化した)、似たような作品がたくさん作られた中で、よく工夫された、真に優れた作品だけが残ってきたのです。現代上演されている歌舞伎は(近代以降に作られた一部の新歌舞伎を除いて)全部がその種の作品です。

現代上演されている歌舞伎の中で、純歌舞伎に次いで多いのは義太夫物です。しかし、義太夫物と言っても、人形浄瑠璃の台本(詞章を丸々全部載せたものを「丸本」と言う)のまま上演しているわけではありません。人形浄瑠璃は語り物と繰り人形という二つの芸能が一つになったものですから、浄瑠璃の演奏に基づいて人形を操作することを前提に書かれています。人形浄瑠璃を歌舞伎化するためには、人間(俳優)が演じられるように、台本を書き直さなければなりません。

『義経千本桜』の作者は、並木千柳(宋輔)、三好松洛、二代目竹田出雲。つまり、『菅原伝授手習鑑』 『忠臣蔵』を書いたゴールデントリオです。一七四七(延享四)年、人形浄瑠璃で初演され、のちに歌舞伎化されました。

主役は狐忠信・平知盛・いがみの権太(ごんた)です。そのうち、狐忠信のくだりに出てくる逸見藤太(はやみとうた)は、人形浄瑠璃と歌舞伎では登場の仕方が大きく異なります。
ところが、歌舞伎の藤太は、その場面で笑いを振り撒くだけでなく、死なずに「四段目」の「道行初音旅」まで生き残って、再び出てくる演出もあります。(原作どおり「鳥居前」で殺される演出もあります)。人形浄瑠璃ではすぐ忘れられてしまう役なのに、歌舞伎では大役の半道敵(はんどうかたき)(半分道化、半分敵の役)に出世したのです。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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せまじきものは宮仕え 『菅原伝授手習鑑』 (2) 

そこに女房の戸浪が新しく入門した小太郎を連れてきます。源蔵は戸浪に事情を話し、その子を秀才の身替りにすることを決めます。江戸時代は主人公を守ることが絶対でしたから、主人の子を救うため、我が子同然の寺子を身替りにせざるを得なかったのです。

冒頭の詞章はこのくだりのものです。「出会う所が百年め」の項に書いたように、この作品ははじめ人形浄瑠璃として作られ他の出、歌舞伎で上演する時には、俳優が演じるように台本を書き直します。多くの歌舞伎台本がつくられてきましたが、この詞章は、上方の初代中村鴈治郎の型ではチョボ(竹本=義太夫節演奏者)が語り、江戸・東京型では源蔵・戸浪夫婦のせりふとして、前段を戸浪、後段を源蔵が言います。

ところが、戦争前まで東京では、戸浪に「せまじきものは宮仕えじゃなぁ」と言わせて、源蔵が「こりゃ、お宮仕えはここじゃわい」と言って、戸浪を叱る演出が多かったようです。一八七〇(明治三)年に五代目大谷広次が演じた型が伝わったとされます。
明治の初めは天皇制の確立期でしたから、お上に遠慮して、宮仕え、つまり主人に仕えることを否定するように聞こえるこのせりふを女の戸浪に言わせたんでしょう。

しかし、忠義な源蔵が「せまじきものは・・・・」と歎くから面白いのであって、肝腎なせりふを戸浪に言わせて、源蔵が「お宮仕えはここじゃわい」、つまり「ここが忠義に励むところだ」と言うのでは、原作の意図と逆になってしまいます。近代の評論家・杉贋阿弥がこれを正し、戦後は原作どおり言うようになりました。

その後、秀才の首を確認するため、松王丸らが来て首実検します。松王丸はその首を本物と認めて一旦帰りますが、妻の千代を伴ってすぐに現れ、親である白太夫の恩人・丞相の子の身替りとするため、自分の子を入門させたと明らかにします。源蔵が討った子は松王丸夫婦の子だったのです。この作品は三組の親子の離別を描いていますが、この場面が「首の別れ」と言われるのはそのためです。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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せまじきものは宮仕え 『菅原伝授手習鑑』 (1) 

弟子子でしこ)と言えば我が子も同然、今日に限って寺入りしたは、あの子が業(ごう)か母御(ははご)の因果(いんが)か、報(むく)いはこちが火の車、追っ付け廻ってきましょうと、妻が嘆(なげ)けば夫も目をすり、せまじきものは宮仕(みやづか)えと、倶(とも)に涙にくれ至たる。

【注】寺入りした=寺子屋に入門した。 =仏教語。ここは前世の行為によって現世に現れる応報のこと。因果=仏教語。前に行った行為の報い。 火の車=仏教語。火車(かしゃ)の訓読み。火車は、地獄で生前悪事を犯した者を運ぶとされる。 せまじき=すまじき(やるべきでない)の上方訛り。 宮仕え=主君に仕えること。

歌舞伎は原作を改変して上演することは珍しくありません。また、台帳(台本)にないせりふを付け加えることもあります。というより、原作どおりに上演したことがない、という方が正確です。江戸時代の歌舞伎は新作が原則で、必ず改訂したのです。原作を変えるわけですから、当然、原作より良くなることも悪くなることもあります。

菅丞相(菅原道真)は、かつての門弟・武部源蔵に筆法(書道)の奥義(極意)を伝授します。丞相は源蔵を戸浪(となみ)との不義(人の道に背くこと。ここは人の道を外れ恋愛)で破門したのですが、それはそれとして、源蔵の腕を認めたのです。その直後、丞相は藤原時平の企みによって失脚。源蔵夫婦は、三つ子の兄弟の一人で丞相に仕える、梅王丸と力を合わせて、丞相の一子・秀才(しゅうさい)を連れ出します。

以上が『菅原伝授手習鑑』 初段切(最終場面)「筆法伝授」の粗筋で、その幕開きの「上根(じょうこん)(優れた素質)と稽古好きと三つの中、好きこそ物の上手とは、芸能修行教えの金言(きんげん)」という、諺をいれ込んだ詞章もなかなかの名せりふです。

四段目切「寺子屋」は、この「筆法伝授」を受けて展開します。
源蔵夫婦は京郊外の芹生(せりょう)の里で寺子屋を営みながら秀才を匿(かくま)っています。それを時平の家来・春籐玄蕃(しゅんどうげんば)と松王丸に嗅ぎつけられ、庄屋に呼び出されて、秀才の首を差し出すように命令されます。寺子の誰かを身替りに立てるしかないと覚悟を決めて家に戻った源蔵は、寺子を眺め、「氏より育ちというに、繁華な地と違い、いずれを見ても山家(やまが)育ち」つまり秀才の代わりとなりそうな子はいないと歎きます。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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出会う所が百年目 『菅原伝授手習鑑』 (2)

三つ子の一人で、斎世親王の舎人(とねり)(天皇や皇族などの近侍)・桜丸とその妻・八重は、斎世親王と菅丞相の養女・刈屋姫のデートを取り持ちますが、それを丞相と対立する藤原時平一派に嗅ぎつけられ、二人は落ち延びます。二人が出奔したことで、丞相に謀反の疑いがかかり、丞相は大宰府に流されてしまいます。

三つ子のうち、長兄格の梅王丸は家を継いで丞相の舎人になり、松王丸は時平の舎人になります。つまり、同じ親を持ちながら、梅王丸・桜丸と松王丸は敵味方に別れてしまったのです。
三段目口「(はじめの場面)の意」の「車曳(車引とも)」の吉田神社の前で、梅王丸・桜丸は久しぶりに出会いますが、そこに参詣に訪れた時平を乗せた牛車が通りかかります。桜丸は、先導している松王丸に向かって、冒頭のせりふを言います。
世に「ここで会ったが百年目」と言うように、「出会う所が百年目」というせりふはよく知られています。また、「骨髄に徹する」という表現は現在も使われます。

結局、時平に睨まれた二人が引き下がって、この短い場面は終わるのですが、歌舞伎の「荒事(荒々しい芸)」の逆輸入で、人形浄瑠璃もこの場面は荒事に作られています。歌舞伎では、すべての登場人物が荒事で演じると単調になるので、桜丸だけは「和事(和らかい芸)」で演じます。たとえば、このせりふの「出合う所が百年め」のところの「出合う」を「でよう」と発音します。そう発音したほうが優しく聞こえるのです。
また、この桜丸のせりふは、義太夫の三味線の演奏に乗って言いますが、そのようなせりふ術を「糸に乗る」または「乗り地(じ)(略して「乗り」)と言います。

拵(こしら)え(扮装)は三人とも、隈を取り、紫の童子格子(どうじごうし)(太い格子縞。酒呑(しゅてん)童子の衣装から来たとされる)の厚綿の衣裳を着け、各自の名にちなんだ植物の模様を縫い付けます。この童子格子の厚綿三兄弟を表わします。下に着る襦袢は、三人とも赤の時と、松王丸だけ白の時があります。(白は五代目松本幸四郎が考案したとされる)。隈と鬘(かつら)は少しずつ異なり、兄弟の役割・性格を表します。ちなみに、梅王丸のみ三本太刀です。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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出会う所が百年目 『菅原伝授手習鑑』 (1)

斎世親王(ときよしんのう)、菅丞相(かんしょうじょう)、讒言(ざんげん)によって御沈楽(ごちんらく)、その無念骨髄(こつずい)に徹し、出合う所が百年目めと思い設(もう)けし今日(こんにち)ただ今。

【注】斎世親王=延喜帝(醍醐天皇)の弟とされる。菅原道真が大宰府に左遷された事件は醍醐天皇の時代に起こった。 菅丞相=菅は菅原、丞相は大臣(おとど)の意。菅丞相で、右大臣菅原道真を指す。 讒言=中傷。 沈楽=沈み落ちぶれること、すなわち没落。 骨髄=骨の中にある柔軟な組織、すなわち体の中心。転じて、心中・心の底。 百年目=百年に一度の機会、すなわち絶好の機会。 思い設けし=あらかじめ思っていた。

近松門左衛門の歿後、人形浄瑠璃の台本(丸ごと収録したものを「丸本」と言う)は合作で作られるようになります。『菅原伝授手習鑑』 は、座本(ざもと)(興行者)の初代竹田出雲(いずも)が総指揮を取り、並木千柳(宋輔)・三好松洛・竹田小出雲(のちの二代目出雲)の合作で作られました。したがって、のちに『忠臣蔵』などを産み出すゴールデントリオの実質第一作と言えるでしょう。初演は、一七四六(延享三)年、大阪・竹本座。八ヶ月の熱演という大ヒット作となり、翌年には江戸でも上演され、これも五ヶ月のロングランとなりました。歌舞伎化されたのは、人形浄瑠璃初演の翌月、京・中村喜世三郎座。翌年には江戸でも上演されました。

題材は菅原道真の伝説で、それに当時は珍しかった三つ子を絡ませています。と言っても、まったくのオリジナルではありません。道真を扱った近松門左衛門の先行作にも三つ子ではないものの三兄弟が出てきます。これも先行作を踏まえて書かれたのです。
この作品を貫くテーマは「親子の別れ」。二段目切(「切」は「最終場面」の意)「道明寺」で道真(丞相)とその娘・刈(苅)屋姫(かりやひめ)の「生き別れ、三段目切「賀の祝」で白太夫と三つ子の一人・桜丸の「死に別れ」、四段目切「寺子屋」で同じ三つ子の一人・松王丸とその子の小太郎の「首の別れ」」を書いています。

この題材の劇化を提案したのは松洛で、二段目の生き別れを松洛、三段目の死に別れを千柳、四段目の首の別れを二代目出雲が書いたと見られます。あらかじめ全体の構想を話し合ってから、各作者が腕を競ってそれぞれの段を書いたのです。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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ほっと ひと息!!

菜の花

Rimg0114z_edited1_2l・油菜(あぶらな)科
・開花時期は、  2/1頃~  5/5頃。
・一面黄色に群生しているさまがすばらしい。      
・”野菜(菜っ葉)の花”という意味から  「菜の花」になった。  おひたしや和え物(あえもの)として食べられる。
・3月の「桃の節句」では、桃の花とともに一緒に飾られることがある。
・別名  「花菜」(はなな) 「菜種」(なたね)菜の花が咲く頃に降り続く雨を”菜種梅雨(なたねづゆ)”という。
・昔は、種子から菜種油(なたねあぶら)をとる 「油菜」(あぶらな)のことを菜の花と呼んだ。 (今も、油菜=菜の花、とする説あり) 「油菜」= 40%が油分。昔は灯火、食用油、 潤滑油などに使われ、搾りかすは肥料に使われた。         
・3月7日の誕生花(菜の花)                   
・花言葉は「豊かさ、財産」(菜の花)          
・千葉県の県花(菜の花)
・「菜の花や  月は東に  日は西に」 与謝蕪村(よさぶそん)

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女同士の義理立たぬ 『心中天網島』 (2)

家に戻った治兵衛は、大尽(大金持ち)の太兵衛が小春を身請けする(抱え主に金を払って自分のものにする)という噂を聞いて、炬燵で悔し涙を流しています。それを見たおさんは恨み事を言いますが、治兵衛の告白を聞いて、自分が小春に、「女は相身互い事」だから治兵衛を諦めてくれという手紙を書いた、と打ち明けます。そして、小春を思いやり、おさんが言うのがこのせりふです。

由緒ある商家の女房が安女郎に手紙を書いて頭を下げ、小春はおさんの頼みを受け入れました。おさんは、小春が治兵衛に愛想づかしをしたと聞いて、賢い小春のことだから、太兵衛に請け出される道を選ばず、一人で死ぬ気でいるのだろう、と思い至り、治兵衛に向かって、女同士の義理がある、小春を助けてくれと言うのです。

商都の大阪は、文化的先進地だったため、男は軟弱でしたが、実際に商売を支える家庭をきりまわした女たちは逞しかったようです。しかし、封建時代のことゆえ、女が社会的弱者であることは変わりなく、女たちは互いに連帯し生きていました。このせりふはそういう世情を端的に表わしています。二人の女の義理の立て合いを縦軸にして、治兵衛などの性格を巧みに掻き分けたこの作品は、世話浄瑠璃の最高傑作と評されています。

おさんは小春を請け出すため、有り金をかき集め、それでも足りないと質草にする着物を取り出したところへ、実家の父が来て、おさんを連れ戻してしまいます。どうしようもなくなった治兵衛は、遊郭に行き小春を死の旅に誘い出します。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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女同士の義理立たぬ 『心中天網島』 (1)

この人を殺しては、女同士(どし)の義理立たぬ。まずこなさん早(はよ)う行って、どうぞ殺してくださるな。

【注】義理=本来は「物事の正しい道筋」。ここでは「他人に対して行わなければならないこと」の意。 こなさん=「此方様(こなたさま)」の上方訛り。女性が目上の人に対して用いていたが、のちに男性・同等・目下の人にも使われるようになった。

歌舞伎や人形浄瑠璃の心中物・恋愛物は大概、男女二人の主人公を中心に描かれているため、通称は男女二人の名で呼ばれます。近松門左衛門の作品で言えば、その例に『曽根崎心中』のお初徳兵衛、 『冥土の飛脚』の梅川忠兵衛などがあります。

しかし、『心中天網島』は角書(つのが)き(題名の上に小文字で書いた副題)に「紙屋治兵衛/紀伊国屋小春」と二人の名があるものの、実際は治兵衛の女房・おさんを含めた三人が主人公です。というより、治兵衛は二人の間でうろうろするだけですから、二人の女が中心になっていると、読むこともできます。それがこの作品の特徴の第一です。

もう一つの特徴は、主人公・治兵衛をどこにでもいる欠陥の多い人物として描いていること。近松の最初の世話浄瑠璃 『曽根崎心中』の徳兵衛は何も悪いことをしていないのに死に至りますが、この作品の治兵衛は「不倫」を清算するために死にます。
三つ目の特徴は、心中を約束したあと、実際に死ぬまでの経過を描いたことにあります。つまり、幕が開いた時、二人はすでに心中の約束を交わしているのです。

治兵衛は小春に逢いに遊郭へ出かけます。(魂抜けて、とぼとぼうかうか)が二人を別れさせるため、先に兄・孫右衛門が来ていました。治兵衛は兄に恥じ、小春の心変わりを恨んで、心中を約束した起請文(きしょうもん)(自分の言説に偽りがないことを神仏に誓った文)を取り戻します。治兵衛に頼まれた孫右衛門がそれを確かめると、治兵衛の妻・おさんが小春に書いた手紙が混じっていました。小春はおさんの立場を考えて、心ならずも治兵衛に愛想づかしを言ったのでした。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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不義になって貸してくだされ 『女殺油地獄』 (2)

一方、甘ったれ青年の与兵衛は、お吉を女として意識していたと考えられます。その証拠に「不義になって・・・・・」というせりふを口走ります。性欲も金銭欲も同時に満たそうとする身勝手な言葉ですか、深く考えて言葉を使うタイプの青年ではないだけに、リアリティがあります。
しかし、お吉に借金を断られたことから、与兵衛は衝動的に殺人を犯してしまいます。(タイトルの『女殺油地獄』は油に塗(まみ)れての壮絶な殺人から取っています)。
ただし、お吉には何の落ち度もありません。たまたま隣に住んでいて、親切にしたことが仇となって殺されてしまうのですから、不条理な話です。

この作品は江戸時代にはほとんど上演されていません。救いのない悲劇ですから、当時の観衆には受け入れなかったのでしょう。評価されるようになったのは明治以降で、歌舞伎や人形浄瑠璃だけでなく、新劇、映画などでも取り上げられています。
主人公・与兵衛や悲劇のヒロイン・お吉の性格は様々に解釈できるので、歌舞伎には何種類かの台本があります。大概の作品は、原作に忠実に脚色しているものの、「殺し」で終わり、後をカットしています。上演時間も関係しているのでしょう。

この作品や『曽根崎心中』『心中天網島』『冥途の飛脚』などの作品を「世話物」と言います。世話とは「世間の話」という意味で、当時の庶民の生活を描いています。世話物を見ると当時の庶民がどういう暮らしをしていたかがよくわかります。
たとえば、このせりふに「野崎参り」が出てきます。野崎観音では春秋二回の法会が行われ、当時の大阪商人は挙(こぞ)って出掛けたようです。この法会は「悪口祭」と言われ、互いに罵りあって言い勝ったほうが福を得られるとされています。近松はその祭りにヒントを得て与兵衛たちの喧嘩の場所を野崎の堤に設定したと見られます。

「殺し」の場以降をカットした上演が多いと書きました。演劇効果の上でも、当時の庶民の生活や風俗・風習を知る上でも、全段とおした上演を見たいものです。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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不義になって貸してくだされ 『女殺油地獄』 (1)

いつぞやの野崎参り、着物(きるもの)洗うて進ぜたさえ、不義したと疑われ、言いわけに幾日かかったやら、疎(うと)ましや、疎ましや。帰られぬうち、その銭(ぜに)持って早(はよ)う去(い)んでくださんせ、と言うほど傍(そば)へにじり寄り、不義になって貸してくだされ。

【注】野崎参り=いまの大阪府大東市の慈眼寺、通称「野崎観音」にお参りすること。 進ぜた=差し上げた。 不義=義にそむくこと。ここでは姦通。 疎ましや=いやらしい。 去んで=去って。

『女殺油地獄』も実際に起きた事件をすぐに舞台化した「際物」とみられます。近松門左衛門作、上中下三巻(九場)の構成。うまく伏線を張って書かれた作品で、一七二一(享保六)年、人形浄瑠璃で初演、早くから歌舞伎に移されました。

与兵衛を一言で言えば、甘ったれの青年。根っからの悪人というより、世間知らずのチンピラです。油屋の二男坊ですが、番頭上がりの継父(けいふ)と実母が甘やかしてきたのをいいことに、高利貸しに金を借りて放蕩三昧を続けています。
借金の返済日が迫り、切羽詰まった与兵衛は、日頃から親切にしてくれている隣の同業者の女房、お吉に金を借りに行って断られます。冒頭に記した詞章はその時の人形浄瑠璃のもので、歌舞伎では、「と言うほど」の前までをお吉が言い、与兵衛は「不義になって・・・・」だけを言います。
「着物洗うて進ぜた」とあるのは、悪友とつるんで野崎参りをした時、与兵衛は芸者の取り合いで大立廻りを演じ、着物を汚してしまい、通りかかったお吉が着物を洗ってやったことを言います。
「不義したと疑われ」「帰らぬうち」とあるのは、お吉の亭主・七左衛門に「疑われ」たので、亭主が「帰られぬうち」という意味です。お吉は日頃から、与兵衛を甲斐甲斐しく世話していましたが、親切心から与兵衛の面倒をみて、焼きもち焼きの亭主・七左衛門に不義をしたのではと疑われました。
「その銭持って」とあるのは、与兵衛に渡してもらうために、両親がお吉に預けていった金のことです。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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魂抜けてとぼとぼうかうか 『心中天網島』 (2)

近松はこの事件を、翌日、住吉で酒を呑んでいた時に知り、帰宅途中の駕籠の中で書き出しの文章を考え、駕籠から降りるとすぐに書き付けたという逸話(エピソード)が残っています。この逸話の信憑性はともかく、事件の発生から一カ月半で舞台にかけたのは事実であるようです。当時の演劇は、社会の動きとごく近い所にあり、大衆伝達機関(マス・メディア)の役割も果たしていました。

この作品の特徴は、際立った悪人が登場しないこと、人間的に優れた女性が描かれていることにあります。後者についてだけ触れると、茶屋女(遊女)・小春も治兵衛の女房・おさんも、身勝手な人物ではなく、互いに相手を思いやる女性に描かれています。
紙屋の治兵衛と遊女の小春は心中を約束したものの、小春は雇い主に治兵衛と逢うことを禁じられています。接客に呼ばれた小春は、親切な侍に心を許し、「馴染みの男と心中する約束をしたが、その約束を反故にする方法はないか」と尋ねます。
そこに、腑抜け状態の治兵衛がやって来ますが、表記した詞章はその時のもの。縁語・掛け詞を使いながら、七五調で、二人を取り巻く状況や治兵衛の精神状態を端的に表現しています。
実は、小春は二人の心中を心配する治兵衛の妻のおさんから手紙を貰い、女同士の義理を考えて心中を思い留まる気になったところへ、治兵衛の兄・孫右衛門が弟を心配して侍に身を変えて様子をみにきたのでした。

近松はこの作品の前に『曽根崎心中』を書き、心中ブームに火を点けました。心中の大流行に恐れをなした幕府は、この作品が初演された二年後と三年後、相次いで心中物の上演禁止令を出します。幕府は演劇が心中ブームを煽っていると考えたわけです。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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魂抜けてとぼとぼうかうか 『心中天網島』 (1)

天満(てんま)に年経(ふ)る千早振(ちはやふ)る、神にはあらぬ神様と、世の鰐口(わにぐち)に乗るばかり、小春に深く大幣(おおぬさ)の、腐り合(お)うたる御注連縄(みしめなわ)、今は結ぶの神無月、(せ)かれて逢われぬ身となり果て、あわれ逢瀬(おうせ)の首尾あらば、それを二人が最期日(さいごび)と、名残(なごり)文の言い交わし、毎夜毎夜の死に覚悟、魂抜けて、とぼとぼうかうか、身を焦がす。

【注】天満=大阪の地名。主人公・紙屋治兵衛の店がある。 千早振る=「神」に掛かる枕詞。「鰐口」「大幣」「注連縄」「神無月」も「神」の縁語。 紙様=紙屋治兵衛を指す。 鰐口=「鰐口」は本来、社殿の軒下に吊るし、参詣者が綱を振って音を出す金属製の道具のこと。ここは「危険な場所・状況」「悪い噂」の意。 大幣=神に祈る時の供物。後世、紙を付けた大きな串を用いるようになった。 腐り合うたる御注連縄=「腐った身」と「腐った注連縄」を掛けている。御注連縄は、神聖な場所と不浄な外界を区別する縄を丁寧に言った。 堰かれて=止められて。 あわれ=ここは「何とかして」の意。 首尾=機会、祈り。 最期日=死ぬ日。 とぼとぼ=ぼんやりしているさま。 うかうか=浮ついて落ち着かないさま。 身を焦がす=苦悶する。

近松門左衛門は十一篇の心中物を書きました。(他にもそれに準じる作品もあります)
『心中天網島』はそのうちの、というより、世話浄瑠璃(世話悲劇)の中でも最高傑作と評価されています。世話浄瑠璃は江戸時代の庶民、特に町人の生活を描いた作品を言います。近松は西洋の市民劇に近いジャンルを確立した作者として知られます。

名題(タイトル)のうち、「心中」はもともと「自分の心の中を示すために行う行為」を言いましたが、転じて「情死」「相対死(あいたいしに)」、つまり「相愛の男女が合意の上で一緒に死ぬこと」の意になりました。「天網島」は老子の「天網恢恢疎(てんもうかいかいそ)にして漏らさず」(「天の網は広く、粗いようだが悪人は逃さない」という譬え)の「天の網」と二人が死んだ場所の「網島」を掛けています。

実際の事件の詳細はわかっていませんが、大阪・網島の心中事件を題材にした「一夜漬け」「際物」とみられます。今、際物はマイナスの意に使われるものの、本来は「素早く作った作品」の意。一七二〇(享保五)年、人形浄瑠璃で初演されました。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 心に響く歌舞伎の名せりふ 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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思い切っても凡夫心 『平家女護島』 (2)

島に流されて三年経ち、成経には千鳥という海女の妻が出来ました。そこに赦免船が着きます。上使の瀬尾兼康は赦免状を示しますが、そこに俊寛の名はありません。しかし、平重盛の計らいで俊寛の名が加えられたと、同じ上使の丹基康が明らかにし、俊寛も帰落を認められます。喜んだ三人の流人は千鳥を伴って乗船しようとしますが、瀬尾は千鳥の乗船を許しません。船には三人しか乗せられないと言い張るのです。

妻・東屋が殺されたことを知った俊寛は、何の楽しみも無くなったと、瀬尾を殺して、自分の代わりに千鳥を船に乗せ、独り孤島に残ります。
歌舞伎では、船が去ると舞台が廻り、後ろにあった岩が舞台前面出て、いままで地面だった所は一面の海になります。俊寛は帰ることを諦め、岩に登って船を見送ったものの、帰りたいという気持ちはなかなか吹っ切れません。冒頭に記した詞章は、その段(幕)切れの俊寛の心情を表わしています。

歌舞伎は「型」によって伝承されますが、俊寛という役はさまざまな解釈が可能な役なので、古い作品でありながら、いくつもの型のあるのが特徴です。
このせりふが出てくる幕切れもさまざまな演じ方があります。「思い切っても凡夫心」とありますから、一旦帰落を諦めたものの、帰りたい気持ちはなかなか抑え切れずに船を追う演技をするのは皆同じです。しかし、船が去った後の解釈は分かれます。言葉で言えば「抜け殻」「放心」の状態を表わす俳優が多数派ですが、前進座の中村翫右衛門はすべてを吹っ切った「浄化」の状態を表わしたいとわずかに微笑んでいました。
また、歌舞伎では幕切れに柝(き)の頭(巻く切れのきっかけとして打たれる拍子木)を入れてから速やかに幕を引く作品が一般的ですが、この芝居では柝の頭を入れないで余韻を持たせて幕を引く演出もあります。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 心に響く歌舞伎の名せりふ 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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思い切っても凡夫心 『平家女護島』 (1)

思い切っても凡夫心(ぼんぷしん)、岸の高みに駆け上がり、爪立って打ち招き、浜の真砂に臥(ふ)し転(まろ)び、焦がれても叫びても、哀れとぶらう人とても、鳴く音(ね)は鷗天津雁(かもめあまつかり)、誘うはおのが友鵆(ともちどり)、独りを捨てて沖津波(おきつなみ)、幾重(いくえ)の袖や濡らすらん。

【注】凡夫心=凡人の心。 爪立つ=足の爪先で立つこjと。 とぶらう=訪れる。 鳴く=「鳴く」と「無く」の掛け詞。 天津雁=空の雁。 おのが友鵆=自分の友達の千鳥。ここは友人の成経・康頼を指す。 沖津波=沖の波。「沖」は「置き」の掛け詞。 幾重=「幾」は「行く」の掛け詞。

近松門左衛門作『平家女護島』の二段目「鬼界ヶ島」の段(場)、通称『俊寛』のタイトルロール、俊寛のせりふです。現代は歌舞伎でも、人形浄瑠璃でも、全作品の中からこの場面だけを抜き出しての上演がほとんどです。
この作品は、近代以降、特に戦後になってから人気が高まりました。また、何回も外国で上演され、外国公演の定番になっています。現代の日本人にも外国人にも人気が高いのは、一時間半くらいの短い芝居なのに、近代劇のように起伏があり、ドラマチックに作られているからでしょう。

能の『俊寛』と同じく、この『俊寛』も『平家物語』巻三「足摺(あしずり)」の書き換えです。
一一七七(治承元)年、鹿ケ谷における、平家打倒のクーデターの謀議に加わった、後白河法皇の側近、僧・俊寛 丹波(藤原)成経、平康頼の三人は、密告されて捕らえられ、薩摩国・鬼界ヶ島に流されました。
史実では、平清盛の二女・徳子(建礼門院)の安産祈願の大赦があった時、成経と康頼は赦免となって帰ってきたものの、なぜか俊寛だけは帰れず、(帰らず)島で没した、とされています。

この『俊寛』は、俊寛が帰れなかった(帰らなかった)事情を描いています。。能の場合は基本的に『平家物語』と同じで「残された」つまり、「許されなかったので、帰れなかった」と描いています。ところが、近松はそれを大きく変えて「許されたものの、自分から島に留まった」と描いています。その点がそれまでの俊寛と大きく異なります。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 心に響く歌舞伎の名せりふ 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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鬼は都にありけるぞや 『平家女護島』 (2)

海女は海に潜って貝や海藻を取る女性を言います。成経が千鳥とのなりそめを語る所に、「踵(きびす)(踵)(かかと)には蛤 踏み、太股にあかがい(女陰)はさみ」とあるように、近松は千鳥をエロチックで健康的な女性、つまり健全な女性として描いています。
この詞章の前に瀬尾は「そりゃ役人のわがまま」と言って、同役の丹の意見を退けますが、江戸時代の武士は現代の軍人と役人を兼ね、武士道を精神的な支柱にして、庶民を支配してきました。しかし、千鳥は庶民の立場から、武士が「もののあわれ」を知っているということは嘘と言い切ります。

戦争が終結してから百年近く経った元禄期は、戦争を知らない武士ばかりになり、却って武士道が強調されるようになりました。武士階級の出身と伝えられる近松は、不条理な武士の実態をよく知っていたのでしょう。このせりふは、庶民の感情とマッチして、のちのちまで残る名せりふになりました。

このせりふに続く、「馴れ初めしその日より」から、「りんぎょがってくれめせや」までのくだりは、人形浄瑠璃では「海女なごり(蜑訛り)」と言って、聞かせどころとされています。歌舞伎でもこのくだりを「クドキ」と言って、女形の見せ場にしています。歌舞伎も人形樹瑠璃もこのくだりが重要と考えているのです。

ちなみに、「りんぎょがってくれめせ」は「可愛がってください」の意の古い薩摩方言とされています。『曾我の対面』の小林朝比奈の「もさことば」(関東方言)、『碁太平記白石噺』に出てくる東北弁の「赤はらたれる」(嘘をつく)など、歌舞伎・人形浄瑠璃では方言が効果的に使われています。マス・メディアの発達していなかった江戸時代は、地域はもちろん、身分や職業などによっても言葉は違いましたから、現代より余計に、方言は効果を発揮したようです。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 心に響く歌舞伎の名せりふ 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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鬼は都にありけるぞや 『平家女護島』 (1)

武士(もののふ)はもののあわれ知るというは偽(いつわ)り、虚言(そらごと)よ。鬼界ヶ島(きかいヶしま)に鬼はなく、鬼は都にありけるぞや

【注】鬼界ヶ島=現代の鹿児島県の、硫黄(いおう)島を指すとも、薩南諸島を指すとも言われる。

『平家女護島(にょごがしま)』二段目「鬼界ヶ島」の段(場)は、主人公の名前から、通称を『俊寛』と言います。近松門左衛門、一七一九(享保四)年、人形浄瑠璃で初演。のちに歌舞伎化され、現代歌舞伎の人気狂言の一つになっています。
題名に「平家」とあるように、『平家物語』を新しい視点から書き換えたもので、平清盛、俊寛、常盤ご前、牛若丸を中心に描いています。「女護島」は、朱雀御所に男を引き込む常盤ご前の行動に、吉田御殿に男を誘い込んだという徳川秀忠の長女・千姫(豊臣秀頼の妻となり、のちに本多忠刻(ただとき)に再嫁した)の風説を当て込んで付けられたとされていました。(日常語の女護ヶ島は「男子禁制の場所」の意)。

しかし、常盤御前が屋敷に男を引き込む目的は源氏再興のため。また、初段で俊寛の妻・東屋(あずまや)、二段目・四段目で海女・千鳥、三段目で常盤と平宗清の娘・松枝が活躍、四段目で東屋と千鳥の怨霊が平清盛をとり殺すように、女性が大きな位置を占める芝居であることから、近年は「女の復讐」を暗示しているのではないかと言われています。

平家討伐の謀議に連座した、俊寛・丹波(藤原) 成経・平康頼の三人は鬼界ヶ島に流され、三年が経ちました。成経に千鳥という妻も出来、鮑の殻を盃、水を酒に見立てて、結婚を祝っている所に、都から船がやってきます。清盛の二女・徳子(建礼門院)の安産を祈願する大赦があり、流人を迎えにきたのです。
三人の流人と千鳥は喜んで船に乗り込みますが、二人の上使(じょうし)(朝廷・幕府などの使いの役人)の一人・瀬尾兼康は、同役の丹(たん)基康のとりなしを頑なに拒否して、千鳥の乗船を許しません。その時、千鳥が言うのが表記したせりふです。義太夫狂言(人形浄瑠璃を歌舞伎化した作品)の上使は善人と悪人がセットで出てくることが多く、瀬尾は悪方、丹は善方です。

海女・千鳥は近松が創作した人物で、この場面の登場人物の中では唯一人の女性。この場面だけでなく、作品全体でも重要な位置を占めています。千鳥はのちの場面で殺されるものの、彼女と東屋の霊が清盛を狂い死にさせます。それだけではありません。千鳥はこの作品の主要人物の中で唯一の庶民、つまり庶民の声の代弁者でもあります。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 心に響く歌舞伎の名せりふ 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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この世の名残、夜も名残 曽根崎心中(2)

醤油屋の手代・徳兵衛と堂島新地(現・大阪市北区)の遊女・お初は深く契って末を約束しています。徳兵衛は店の主人の甥。逆を言うと、叔父が徳兵衛の主人です。子がない叔父は、徳兵衛と妻の姪を結婚させて店を継がせるために、徳兵衛の継母に二貫目の持参金を渡してあります。徳兵衛が結婚を拒否したので、激怒した主人は金を返して大阪から出て行けと言います。徳兵衛は継母から金を取り戻し、主人に返そうとしますが、油屋の九平次に騙し取られ、逆に騙りの汚名を着せられます。主人(叔父)への義理も果たせず、お初と添うこともできず、死ぬしかなくなった徳兵衛は、お初と示し合わせて廓を抜け、曽根崎の森に向かいます。

この作品をひとことで言うと、「恋愛賛歌」です。
冒頭に記した詞章は、死に場所を求めて曽根崎の森に向かう「道行」のはじめの部分のものです。近松と同時代の儒学者・荻生徂徠はこの詞章を読み、「近松の妙処この中にあり、他を問うに及ばず」と言ったと伝えられます。徂徠は一読して、道行が全篇の要になっていることを見抜いたわけです。中でも、「この世の名残・・・・」と「七つの時が六つ鳴りて・・・・・」のくだりは大変な流行語になりました。

この道行の詞章は、日本語のリズムを生かすために七五調で書かれ、縁語・掛け詞(ことば)を多用して、聴く人の耳に心地よく響くよう工夫されています。ただ、近松は七五調だけだと賤(いや)しくなると考えたようで、全体としては字足らず字余りが特徴になっています。
ところが、この作品は人形浄瑠璃でも上演が途絶え、歌舞伎でもあまり上演されませんでした。人形浄瑠璃の上演が途絶えたのは人形が一人遣いから三人遣いに変化したためと思われます。歌舞伎で受けなかったのは、真面目な勤労青年が死んで行く話しですから、「和事(和らかい芸)」に変換しにくかったのでしょう。
しかし、戦後、宇野信夫氏の脚色で歌舞伎化されて評価が高まり、歌舞伎でも人形浄瑠璃でも人気の高い当たり狂言になっています。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 心に響く歌舞伎の名せりふ 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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この世の名残、夜も名残 『曽根崎心中』 (1)

この世の名残、夜も名残。死にに行く身を譬(たと)うれば、あだしが原の道の霜、一足ずつに消えていく、夢の夢こそ哀れなれ。あれ数うれば暁(あかつき)の、七つの時が六つ鳴りて、残る一つが今生(こんじょう)の、鐘の響きの聞き納め、寂滅為(じゃくめついらく)と響くなり。鐘ばかりかは草も木も、空も名残と見上ぐれば、雲(くもごころ)なき水の音、北斗は冴えて影映る、星の妹背の天の川。

【注】あだしが原=徒(あだ)し(仏)が原。世の無常を象徴した地名で、墓地を指す。 =夜明け前。 七つ=寅の刻。午前四時前後。 今生=生存している間。現世。 寂滅為楽=仏教語。寂滅は「煩悩から離れ、無為静寂の境地になること」。寂滅為楽は「無為静寂の境地に至って、初めて安楽を得ること」。 雲心なき=雲は「憂鬱」「憂い」「悩み」の譬え。曇っていないこと。 北斗=北極星。 妹背=夫婦。

近松門左衛門 『曽根崎心中』 は典型的な「一夜漬け」「際物(きわもの)」です。一夜漬けは漬物になぞらえた言い方。際物の「際」は「すぐに」の意。ともに「即席でつくった物」つまり「実際に起きた事件をすぐに舞台化した作品」を言う語です。一七〇三(元禄十六)年、実際の事件が起きた一カ月後に人形浄瑠璃で初演されました。

この作品は三つの意味で画期的な作品です。
その一つは、世話浄瑠璃(世話悲劇)というジャンルを確立したこと。「世話」は「世間の話」の意。歌舞伎の世話物に刺激されて作られたと見られますが、この作品がヒットしたことから、人形浄瑠璃も続々と世話浄瑠璃を上演するようになります。
その二は、近松が初めて書いた心中物であると同時に、大当たりしたために、心中物ブームに火をつけたこと。(中略)
その三は、この作品のヒット以後、世話浄瑠璃の全篇のピークに「道行」が置かれるようになったこと。

時代浄瑠璃(前の時代の武士・貴族を描いた浄瑠璃)は大概、主人公の周りの者が、複数の主人公のうちの何人かが死に、その死をきっかけにして秩序が回復します。一方世話浄瑠璃は主人公が追い詰められて死んでいく姿を描いています。
しかし、世話浄瑠璃の主人公は観客と同じ弱者。哀れな死を見せて観客を帰したのでは、その心が晴れません。そこで、心中に向かう道行に工夫を凝らして、美化することによって、主人公の死を飾り立てるようになりました。換言すると、道行を全篇の要の位置に置き、それに向かってドラマを盛り上げていくようになったのです。

『知らざあ言って聞かせやしょう』 ”心に響く歌舞伎の名せりふ” 赤坂治績著 株式会社新潮社 本体680円 より抜粋

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自分ならではの志を持って(2)

アナウンサー 山根 基世さん

87年に雫石さんは、日雇いの仕事でコツコツためたお金を寄付して、「銀の雫文芸賞」という文学賞を作ったんです。なぜ蓄えを全部はたいて賞をつくろうと思ったのか。書くこと、読むこと、言葉が自分を変えてくれた。救ってくれたという思いがあったんですね。
97年、築40年の木造アパートに86歳の彼女を訪ねた時、「日記がなかったら、とっくに自殺してますよ」とおっしゃった。「書かなければ生きられなかったの」と。その言葉をいただいて、「書かなければ生きられなかった」という番組にしました。

その時、自分が何をなすべきなのか、はっきり見えた。仕事が自分の人生にカチッとはまったんです。目指すものが見えると、もう他の人のことは気にならなくなりましたね。

言葉は、人の心を、人生を変えることができるんです。私も結果的には間違いでしたが、がんの4期という診断を受けたことがありました。間違いとわかるまでの2週間、初めて自分の死に真剣に向き合って、世間のしがらみを全部捨てて、きれいに生きたいと思った。そのとき、随筆家の串田孫一さんの文章を読みました。子どもの頃から掃除が好きで、80歳を過ぎて病気になった時も、朝夕掃除することですがすがしい気持ちになると書いてあった。私は子どものころから片づけが下手で、掃除が嫌いだったんですが、毎朝、台所を掃除することにしました。落ち込んで、心が千々に乱れているときこそ、まず身の回りをきれいにする。そうすることで、心が清められるのを実感しました。生き方を変えたいと思ったときに、串田さんの言葉が入ってきたことで、実際に変わることができた。

今、不安を抱えている人たちには、志を持つことで救われますよ、と言いたいですね。不況で職を失っても、それはあなたの人間性のせいじゃない。自分が本当に何をしたいのかをちゃんと見つめて、自分の言葉、志しとして持っていれば、それが必ず支えになってくれる。志というと、世のため人のためみたいに思いますけど、そうじゃない。志は自分を救うんです。
うろたえたときは、まず足元を整理する。不況の時だからこそ、おいしいものを食べる。安い大根と油揚げの鍋でも、だしをていねいに取れば 、おいしいものができます。毎日をていねいに生きることで、明日への勇気も出てくるんです。

耕論 「うろたえるなー不況の時代に」 朝日新聞 掲載より抜粋

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