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賢治と日本人の宗教(2)

デクノボーのモデル、斉藤宗二郎から内村鑑三の思想にふれたのでしょう
賢治の父、政次郎は浄土真宗を熱心に信仰していました。だから賢治は子どものころから浄土真宗が全身にしみこんでいます。中学時代には、仏教の勉強をするために、森岡の願教寺(がんきょうじ)を訪れています。日本の近代仏教の先駆者であり、明治維新のときに大きな活躍をした島地黙雷(しまじもくらい)という長州の傑僧が25世住職を務めたお寺です。その後、賢治は農林に関する専門学校では当時随一の盛岡高等農林学校を出て、研究者になろうとしてなりませんでした。大正10年、花巻農学校の教師になり、農村の青年たちを目覚めさせようという使命感に燃えていました。そのときの賢治は教育者としての情熱がありました。教師をやりながら、詩を書き、童話を書き、文学の世界に限りない関心をもち続けていました。同時に、日蓮宗や法華経の世界に関心をもち始めて、宗教的な世界が賢治にとってより重要な意味をもつようになってきました。

このころ、賢治は「雨ニモマケズ」の最後に出てくる「デクノボー」のモデルともされる、斉藤宗二郎と知り合っています。宗二郎は賢治よりも20歳年上で、日露戦争に反対した非戦論者の内村鑑三の影響を受けたキリスト教徒でした。花巻小学校に赴任し、児童たちに内村鑑三の思想を説き、教師の職を追われた人物です。宗二郎は内村から「新聞の取次業をしてはどうか」とすすめられ、ふたつ返事で受け入れました。その新聞の仕事をするとき、宗二郎は貧しい家の少年たちといっしょに配達をしました。少年たちと同じように朝早くからおきて、1日40キロ歩いたといいます。
配達のやりかたは、新聞をとっている山の中の数少ない家を一軒一軒まわり、一軒の家に新聞をいれたら神に祈り、10分くらい歩いてまた次の家へ、のくり返し。もし病気の人がいたら、中に入って慰めの言葉をかけてあげながら配達して行きました。途中、子どもたちに飴玉をあげることもしばしばでした。花巻の子どもたちは宗二郎の姿を見て、「やーい、十字架、やーい、キリスト」と悪口を言って囃したてました。ところが日がたつにつれ、「お菓子を買うなら花巻おこし、新聞とるなら斉藤先生」に変わったというのです。宗二郎の子どもたちに対する感化力はすごいものですね。
この新聞配達の中で、宗二郎は花巻農学校の先生たちと親しくなり、そのひとりであった賢治と出会うというわけです。
内村鑑三は宗二郎よりも17歳年上です。鑑三、宗二郎、賢治の関係は、おじいさん、父親、子どもの3世代のようなものです。おそらく、賢治は宗二郎から内村鑑三の話を聞き、キリスト教の世界にも親しみを感じていたのだろうと思います。

読書があなたを強くする 「宮沢賢治」 宗教学者 山折哲雄さん 雑誌「いきいき」掲載より抜粋

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