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2008年12月

親の心子知らずの愛憎噺(4)

端正な人情噺『火事息子』の父と子
神田三河町の伊勢屋という質屋の一人息子は、小さいころから火事が好きで、買ってくる玩具といえば纏とか鳶口(とびぐち)とか梯子で、やがて火消しになりたくてしょうがない。出入りの鳶頭(かしら)のうちにいって若い者に加えてくれとたのむが「あなたがたのような方がなる稼業しゃありません。これはやくざ稼業なんだから」と断られる。
それならと、火消屋敷という武家地の消防を担当するところに入って臥煙(がえん)(火事人足)という者になってしまう。三遊亭円生は噺のなかで、この臥煙についてつぎのように解説してくれる。

ずいぶんタチの悪いのがいたそうで、「嫌な奴だねあいつは、タチが悪くってどうも、下衆(げす)ぱった臥煙みたいなやつだ」とたいへん悪く言ったもので。ところが臥煙になろうというにはたいへん条件がむずかしいんだそうで、第一に江戸っ子でなければいけないこと。背ェの高いこと。色の白いこと。男ッ振りのいいこと。それから力のある者。これだけの条件が揃わなければ臥煙にはなれなかったそうで。

家を出て、全身に目の覚めるような絵を描いた(彫物をした)若旦那は勘当されてしまう。世間様や親類縁者への体裁を考えての、両親とも泣く泣くの勘当である。
十二月の末つ方、北風のピューッと吹く夜、近所から出火して伊勢屋の店に火の粉がかぶるようになる。とにかく質蔵の戸前に目塗りしなければ暖簾に傷がつくと、番頭が折れ釘につかまり、旦那が下から投げる用心土をつかもうとするが、慣れないことでうまくできない。そこに飛んできたのがひとりの臥煙。

屋根から屋根へ、とんとんとんとんとん、と飛んできた、その速いことといったら、まるで平地を駆けているようで、路地と路地の間が九尺もあろうというところを、パーッとこっち側へ飛んだ。猫のようで。

勘当になった若旦那である。遠くで家の様子を見ていていてもたってもいられなくなったのであろう。屋根から番頭に声をかける。
「大きな声しちゃいけね、下にいるなあ親父か、たいそう歳をとったなァ。こんな火事なんてえものァこりゃなぐれちまうがな、そうだなァ、うっちゃっといたっていいんだが、体裁が悪いから目塗りだけァするほうがいいや。おれが手伝ってやりゃぞうさもねえが、それじゃァおめえの忠義にならねえ、おゥ、真田のこの前掛けの紐を解いて、輪にしてな、この折れっ釘に掛けたら、おめえは両手が使えるんだ。そっちの手を離してみねえ」

なぐれる(鎮火する)、うっちゃっとく(そのままにする)ぞうさもねえ(たしゃすい)、おめえの忠義にならねえ(役割が果たせない)といった言葉の選び方に、すっかりやくざ稼業が身についてしまった若旦那の伝法な姿が浮かび上がる。

「落語で江戸を聴く」 槙野修著 PHP研究所 定価 本体1500円(税別)より抜粋

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親の心子知らずの愛憎噺(3)

勘当中の若旦那のあいかわらず気楽な様子を噺にしているのが『湯屋番』と『船徳』である。『湯屋番』の若旦那は大工の棟梁の家に、『船徳』の若旦那は店の出入りの船宿に居候している。
このふたりの若旦那は、勘当といっても、反省させる懲らしめのための、いわゆる内証(ないしょう)勘当で、『唐茄子屋』や『火事息子』の若旦那の勘当とは程度が違うから、本人たちもいたってのんびりしているのである。でも、『船徳』の若旦那は粋な船頭になりたいという色っぽい意欲があって、ひとがんばりするのであるが、なにせ大釜の湯気で育った若旦那だから、失敗つづきで、その素人なりの真剣さが微笑ましいものである。

『船徳』は桂文楽至妙(しみょう)な演題で、真夏の隅田川を舞台に、四万六千日詣での客と若旦那徳(三郎)の船頭とのやりとりが、川風を背景にいきいきとテンポよく演じられ、まことに入神(にゅうしん)の名演であった。

昔はあんまりお道楽がすぎますてェと、親類協議の上、勘当てえことになりまして、お出入りの船宿の二階に厄介になっているてェ図があったそうでございますな。
「(船宿の親方が)若旦那、ご退屈でござんしょう」
「あッ、はッ、はッ、は、いいこころ持ちだよ」
「あなたね、へッ、へェ、幾日(いつか)何十日に、あたくしのところへおいでになってもかまわないんですがね。お身のためによくないからね。あなただって何かをやらなきゃいけないでしょ」
「あッ、いろいろ心配をかけたがね、今度、あたしはもう覚悟をきめました」
「何です、その覚悟をきめたてえのは」
「とにかく、あたしは、家の商売になるよ、船頭になるよ」
「はッ、はッ、は、あなたね、その、馬鹿げたことを言っちゃいけません。あなたみたいなね、か細い躯で、船頭なんかなりゃしません」

親方が止めるのも聞かず、店の若い物を呼んで、「若旦那って船頭はねえから、徳なら徳と呼んでくれ」と船頭宣言をしてしまう。若い連中も「若旦那、おなんなさいよ。あなたなんかようすがいいし、ちょいと乙な拵(こしらえ)で、櫓につかまって裏河岸ひとまわりでも廻ってごらんなさい。どう考えたって芝居に出てきそうな船頭ができるね。女の子なんぞはね、うっちゃちゃおかないってえことさ、いよッ音羽屋」

竿は三年、櫓は三月、なんてえことをいいますが、なかなかむずかしいもんで、このくらい教ェたらいいだろう、当人もこのくらい覚えたら一人前てんで、自分で一人前ってえのは当てになりません。

噺の一言一句を磨きあげて完璧な高座をつとめた文楽師であるから、(自分で一人前というのは当てにならない)というひと言に「藝」の修業のことも重ねたに違いない。
そして、若旦那の噺をさせたら右にでるもののない師匠は、たとえ落語のなかとはいえ、遊びでも男としても一人前を気取りながら、結局は半人前にしかなれなかった若旦那たちに哀憫(あいびん)の情を持って慈しむように描いているのである。

「落語で江戸を聴く」 槙野修著 PHP研究所 定価 本体1500円(税別)より抜粋

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親の心子知らずの愛憎噺(2)

『唐茄子屋』の若旦那はいよいよどうにもならなくなり吾妻橋から身を投げて死のうとする。そこに偶然に居合わせて身投げを止めてくれたのが若旦那の叔父さん。親に内緒で家に連れ帰り、死んだ気になって働け、と唐茄子売りの棒手振りに出そうとするが、若旦那は、恰好が悪いと渋るのである。すると叔父さんは、

「肩に天秤当てて担いで売って歩くのが、なにがみっともねえんだ。えェッ、勘当されて行くところがなくてノソノソしているほうがよっぽどみっともねえや。売って歩いてその日をおくりゃ、立派な商人だ。・・・・・・人間てえ奴はな、てめえで働いて、てめえで取った銭を自分で使やァ、他人はなんともいうんじゃねェや。てめえなんか、親父の銭を使い込んだりなんかするから、勘当だチョウチンだッて言われるんだィ」

と、きついお説教を末、いやなら川へ飛び込んでしまえと突き放す。そうして、若旦那は炎天の往来を荷を担いで「唐茄子屋でござァーい」と売って歩く。
この噺は、その後、親切な通りがかりの江戸っ子職人に助けられ、唐茄子が売れ、若旦那には稼ぎが入るのだが、因業大家に責められている母子に出会い、その稼ぎを恵んでしまう、という美談になり、善行が親に聞こえて勘当が許されることになる。

「落語で江戸を聴く」 槙野修著 PHP研究所 定価 本体1500円(税別)より抜粋

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親の心子知らずの愛憎噺(1)

『明烏』のまじめな若旦那時次郎が、お稲荷様の御籠(おこもり)という筋書きでむりやり吉原へ連れて行かれ、すったもんだのあげく、結局は、浦里花魁といい仲になる。時次郎のうぶな様子と、先輩風を吹かせた遊び人の源兵衛と多助がまったくもてずに朝を迎えたときのやりとりが桂文楽の絶妙の話藝によって、大いに笑いを呼ぶ。
お女郎屋なんてとんでもない、と言っていた時次郎が、やがて『干物箱』の銀之助になるのは時間の問題で、そして、『よかちょろ』の幸太郎のように「よかちょろ」という廓の戯れ歌に店の大金をはたいてしまう立派な道楽息子になっていくことであろう。店の金に手をつけて、気障りな恰好をしての吉原通い。

《傾城(けいせい)に可愛がられて運の尽き》
《傾城の恋はまことの恋ならず金持ってコイが本当のコイなり》

などとは知らずにお馴染みの花魁に入れあげて、しまいには家に帰らない。すると家では親類協議の末に勘当ということになるのである。

勘当という言葉は、いまは冗談として使われる程度だが、昔は大変なことで、廃嫡(はいちゃく)とか義絶(ぎぜつ)ともいい、主従や師弟また親子の縁を切って、永久追放することである。江戸時代を背景にした落語では、親が不良な子弟を除籍するかたちが多く、久離(きゅうり)ともいい、町人や百姓の親や近親者は、連帯責任を逃れるため、その不良子弟との縁を切り、人別帳からはずしたのである。その勘当された子は勘当帳とか久離帳に載せられ、たとえ親類縁者といえどもなさけをかけることができなかった。
そのため、吉原などの遊里に通う駕籠や船のことを勘当駕籠とか勘当船などといった。

噺のなかで、実際に勘当になったのが『唐茄子屋』の若旦那。勘当となると、とうぜん無一文で家を放り出されるわけで、あれほと馴染んだ花魁も相手にしない。ひいきにしていた若い衆や幇間の家にしばらくは居候することもあるが、それも一時のこと、しまいには「お閻魔さまが死んだ」のではないが、行き場所がなくなってしまう。
着ている着物はよごれてくるし、履いている草履は切れてくる。お堂の下や他所の家の軒下に寝たりするような、
《後悔を先に立たせて後から見れば杖をついたり転んだり》
といった身の上になってしまうのだ。

「落語で江戸を聴く」 槙野修著 PHP研究所 定価 本体1500円(税別)より抜粋

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ほっと、ひと息!!

カトレア 夢の島ラン展で撮りました

Rimg0227web_3 ・蘭(らん)科。  カトレア属                   
      
・蘭にもいろいろ変わった形があります。胡蝶蘭(こちょうらん)とか、カトレアとか。
  切り花、生け花でもよく使われます。    
・中国で呼ばれる「四君子(竹、梅、菊、蘭)」の一つ。水墨画の画材にもよく使われる。   
・「カトレア」 熱帯アメリカ原産の蘭。

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宮沢賢治 虔十公園林(けんじゅうこうえんりん) (3)

自然と人間は平等。これも賢治の核。

子どものころ、「虔十公園林」で遊んだというアメリカから帰国した大学教授が言います。

「その虔十といふ人は少し足りないと私らは思ってゐたのです。いつでもはあはあ笑ってゐる人でした。毎日丁度この辺に立って私らの遊ぶのを見てゐたのです。この杉もみんなその人が植ゑたのださうです。あゝ全くたれがかしこくたれが賢くないかはわかりません。たゞどこまでも十力の作用は不思議です。こゝはもういつまでも子供たちの美しい公園地です」

ここに書かれている「十力(じゅうりき)」とは、仏そのものをさすと言えましょう。仏の力は、人間の苦難を救済するだけではなく、人間のありかた・考えかたを根本から変えてしまうものでもあります。「虔十公園林」では人間と自然との描写が交互に編まれ、人間が自然の中で生きるのではなく、自然によって生かされているという考えを促し、読み手から自然と人間の境界を取り除かせるところがあります。虔十の内面と、虔十を介した自然の営みが表裏一体となって描かれているのです。チブスに感染し虔十は死にますが、物語は終わらず、虔十は杉の木や芝生となって生きます。

また、能力の高い人が評価され、そうでない人は軽蔑される、そういう俗世間に対する抗議も、「あゝ全くたれがかしこくたれが賢くないかはわかりません」という大学教授の言葉に賢治は込めたのではとも思えます。草や木にはお金や才能はなく、自然と花を咲かせる、それが大事なのです。努力してオリンピックでメダルを取ることも立派ですが、不自由な体でありのまま生きることも立派なのです。
自然も人間も、大人も子どもも、能力の優劣も、生も死もなく、みんなが金メダル、みんなが風、偉いと思わず、偉いと言わずに生きる。その大切さを思うことが、この物語を読む意味のひとつではないでしょうか。

読まないままの本棚 宮沢賢治イーハトーブ館長 原 子朗さん 雑誌「いきいき」掲載より抜粋

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宮沢賢治 虔十公園林(けんじゅうこうえんりん) (2)

この物語が書かれたのは大正12(1923)年ごろと思われ、当時、700本もの杉の苗は裕福な農家でないと買えないのに買ってもらいます。
そうしてせっかく植えた杉ですが、土が粘土質のため、7、8年たっても高さ九尺(約2.7メートル)ほどにしかなりません。さらに、人に言われた冗談を真に受けた虔十は、「枝打ち」といって下枝をすべて切ってしまい、「林はあかるくがらんとなって」しまいます。虔十は落胆しますが、子どもたちの歓声が聞こえてきます。

「すると愕いたことは学校帰りの子供らが五十人も集まって一列になって歩調をそろえてその杉の木の間を行進しているのでした。
全く杉の列はどこを通っても並木道のやうでした。それに青い服を着たやうな杉の木の方も列を組んであるいているように見えるのですから子供らのよろこび加減と云ったらとてもありません、みんな顔を真っ赤にしてもずのやうに叫んで杉の列の間を歩いてゐるのでした」
思いもよらないことに、虔十の植えた杉が、なんと虔十をばかにしていた子どもたちの遊び場になります。3メートルほどの杉が、子どもにはちょうどいい高さ。日当たりがよくない場所なのに、子どもたちにまたとない生きた場所に変わります。虔十も、杉の木も、差別はもちろん優劣もない躍動的な空間として描かれています。杉の丈がそろっているのは、みんな平等の象徴とも読み取れます。杉は育ちが早く、すっと伸びていく。子どもたちが緑の洋服を着て一列に立っている、そのイメージの重なりもすばらしい効果を生んでいます。また、杉は賢治が短歌にも織り込んできた愛着あるテーマでもありました。

読まないままの本棚 宮沢賢治イーハトーブ館長 原 子朗さん 雑誌「いきいき」掲載より抜粋

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宮沢賢治 虔十公園林(けんじゅうこうえんりん) (1)

宮沢賢治の思想の核がほとばしる短編

『虔十公園林』は短い物語でありながら、賢治が年来考え抜いた思想が込められ、ほとばしっています。それは、”デクノボー精神”とも呼べるもので、役にたたないとされるものへの俗世間の差別を取り払った、代表作の一つです。これは若いころから仏教に、わけても法華経に傾倒し、絶対的な無私をめざした賢治の理想の生きかたであり、「雨ニモマケズ」や多くの童話にも躍動しているものです。それが凝縮され、短編ならではの軽やかさの中でしっかりと伝わってくるのが、この物語の特徴です。
精神的な障害をもつと思われる主人公の虔十は、名前の音が「けんじ」に似ていることからも想像できるように、賢治がめざした人物像ともいえます。賢治は『銀河鉄道の夜』の創作メモに、「kenju」と署名を入れたこともありました。

「虔十はいつも縄の帯をしめてわらって杜(もり)の中や畑の間をゆっくりとあるいているのでした。(中略)風がどうと吹いてぶなの葉がチラチラ光るときなどは虔十はもううれしくてうれしくてひとりで笑へて仕方がないのを無理やり大きく口をあき、はあはあ息だけついてごまかしながらいつまでもいつまでもそのぶなの木を見上げて立っているのでした」(ちくま文庫『宮沢賢治全集6』「虔十公園林」より)

そんな虔十を子どもたちや近所に住む平二という農民はばかにしています。虔十はある日、家の後ろの野原に植える700本の杉の苗を買ってほしいと母親に言います。母親と兄は反対しますが、父親は、これまで虔十がほしいと言ったものはなかったから買ってやれと言います。

読まないままの本棚 宮沢賢治イーハトーブ館長 原 子朗さん 雑誌「いきいき」掲載より抜粋

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宮沢賢治 よだかの星(3)

結末の美しさのみでこの作品を評価するべきだろうか

私は、ラストシーンの美しさだけに目を奪われて、この童話を傑作と言うことはできないのではないかと思います。たしかに、よだか自身は、星になることで自分より弱い存在を犠牲にして生きる業から解放されたのかもしれません。しかし、生きるという原罪意識から逃避するための死、あるいは新しい別の「生」、それは単純に美化してはならないものです。

生きていくのはつらいけれども、それに耐えぬくこと。自分のみにくさを、あるがままに受け入れること。そして人を助けることで自分を助ける、そういう生きかたもあるのですから、悪いことをしなくても生きていることじたいが業という自覚がよだかにあれば、凄絶ではあっても、ある意味で単純なラストシーンの行動は選べないのではないか。業を背負って生き続けることが、また方法としてありはしないか。壮絶なよだかの最期は、もしかするとあってはならない自己浄化なのかもしれないとさえ思えるのです。

宮沢賢治は、自分や家族だけの幸せを祈ってはいけない、みんなの幸せをいのらなければならないと考え、ソノ祈りを実現しようとした人でした。人間のみならず生類すべてが、助けあって、慈しみあって生きていく道を探る。そして自分を痛めることとは別の方法で自分を助ける。自己救済とは、どんなに美しかろうと、なにも死ぬこととはかぎらないのではないか、そういうことを、しかし考えさせずにはいないのが、『よだかの星』ではないでしょうか。代表作ながら、大きな問題作の一つといえましょう。読者のみなさまのご意見をお聞きしたいところです。

それからしばらくたってよだかは
はっきりまなこをひらきました
そして自分のからだがいま
燐の火のような青い美しい光になって、
しづかに燃えてゐるのを見ました
すぐとなりは、カシオペア座でした。
天の川の青じろいひかりが、
すぐうしろになってゐました。
そしてよだかの星は燃えつヾけました。
いつまでもいつまでも燃えつヾけました。
今でもまだ燃えてゐます。
『よだかの星』より

読まないままの本棚 宮沢賢治イーハトーブ館長 原 子朗さん 雑誌「いきいき」掲載より抜粋

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宮沢賢治 よだかの星(2)

それとともに、仏教でいうところの宿業(すくごう)、つまり生きている生類(しょうるい)の、自分より弱い何かを犠牲にしないと自分を生かしていけないという加害者意識も、よだかはかかえています。よだかの弟の川せみは魚を食べ、よだかは羽虫を取って生きています。よだかはそれを気にしていて、自分は食べたくないのに口が大きいから空を飛んでいると羽虫が口に入ってくる。それを自分の意志に反して食べざるをえない。そんなよだかのつらさが強調されています。

つまり、『よだかの星』は、弱肉強食の世界で生存の罪深さを自覚させられる筋立てなのです。やがてそうした生きかたに耐えられなくなったよだかは、そこから抜け出そうと「遠くの空の向こうに行ってしまはう」と考えます。

「よだかはまっすぐに、弟の川せみの所へ飛んで行きました。きれいな川せみも、丁度起きて遠くの山火事を見ていた所でした。そしてよだかの降りて来たのを見て云ひました。
『兄さん。今晩は。何か急のご用ですか。』
『いヽや、僕は今度遠い所へ行くからね、その前一寸(ちょっと)お前に遭ひに来たよ。』
『兄さん。行っちゃいけませんよ。蜂雀(はちすずめ)(編集部注:蜂雀も弟)もあんな遠くにゐるんですし、僕はひとりぼっちになってしまふぢゃありませんか。』
『それはね。どうも仕方ないのだ。もう今日は何も云はないで呉れ。そしてお前もね、どうしてもとらなければならない時のほかはいたづらにお魚を取ったりしないようにして呉れ。ね、さよなら。』
『兄さん。どうしたんです。まあもう一寸お待ちなさい。』
『いや、いつまで居てもおんなじだ。はちすヾめへ、あとでよろしく云ってやって呉れ。サヨナラ。もうあはないよ。さよなら。』」と非情なほどのよだか。

家族に別れを告げたよだかは、太陽や、オリオン座など4つの星に「私をあなたの所へ連れてってください」と懇願します。しかし「『馬鹿を云ふな。おまへなんか一体どんなものだい。たかが鳥ぢゃないか』」、「『とてもとても、話にも何にもならん。星になるには、それ相応の身分でなくちゃいかん。又よほど金もいるのだ』」と、現代のいじめを目の当たりにさせられるような残酷さで、よだかは星たちに拒まれます。

そして最後には、自ら自己救済をする方法を考えざるをえなくなります。よだかは自力で空高く激しく疾翔(しっしょう)していき、カシオペア座の隣で輝く星となり、いつまでも燃え続けるという、すさまじい美しさをともなう自己浄化で物語りは終わります。

読まないままの本棚 宮沢賢治イーハトーブ館長 原 子朗さん 雑誌「いきいき」掲載より抜粋

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宮沢賢治 よだかの星(1)

生存の罪深さを自覚させられる『よだかの星』

「よだか」という語は一般的には「よたか(夜鷹)」と発音します。賢治の生まれ住んでいた岩手県の花巻では「よだか」と濁って発音するのを聞きますから、賢治は方言ふうに濁って書いたのでしょう。
江戸時代、「よたか蕎麦」といえば屋台の「夜鳴き蕎麦屋」のことでした。また、「遊女」(ストリート・ガール)の意味でも用いられ(英語の”ナイトホーク”もそうです)、あまりいい意味で使われない言葉でした。そのことやこの童話の出だしの部分からも、『よだかの星』の主人公が軽んじられている存在であることが伝わります。

「よだかは、実にみにくい鳥です。顔は、ところどころ、味噌をつけたようにまだらで、くちばしは、ひらたくて、耳までさけてゐます。
足は、まるでよぼよぼで、一間(編集部注:1.818メートル)とも歩けません。
ほかの鳥は、もう、よだかの顔を見ただけでも、いやになってしまふといふ工合(ぐあひ)でした。(中略)もっとちひさなおしゃべりの鳥などは、いつでもよだかのまっかうから悪口をしました。
『ヘン。又出て来たね。まあ、あのざまをごらん。ほんたうに、鳥の仲間のつらよごしだよ。』『ね、まあ、あのくちの大きいことさ。きっと、かへるの親類かなんかなんだよ。』」(『宮沢賢治全集5』「よだかの星」ちくま文庫以下同)

引用した文から、よだかが容姿のみにくさを理由に差別され、苦悩を募らせていることがおわかりになると思います。
また、名前が似ている鷹に、お前はにせものだ、名前を「市蔵(いちぞう)」と変えて、首からそう書いた札をかけてみんなのところをあいさつして回れと言われる場面があります。よだかは断りますが、「市蔵」とは、この童話が書かれた当時よく読まれていた夏目漱石の小説『彼岸過迄(ひがんすぎまで)』の主人公で、内向的で職にも就けずに悩みぬいて暮らす「高等遊民」の名前。ここから賢治は名前を借りたものと思われます。

「一たい僕は、なぜかうみんなにいやがられるのだらう。僕の顔は、味噌をつけたやうで、口は裂けてるからなあ。それだって、僕は今まで、なんにも悪いことをしたことがない。赤ん坊のめじろが巣から落ちてゐたときは、助けて巣へ連れて行ってやった。そしたらめじろは、赤ん坊をまるでぬす人からでもとりかへすやうに僕からひきはなしたんだなあ」

よだかがいじめられ、悪い鳥の代表のように決めつけられることから来る被害者意識が、ここに書かれています。

読まないままの本棚 宮沢賢治イーハトーブ館長 原 子朗さん 雑誌「いきいき」掲載より抜粋

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ほっと、ひと息!

もみじ

Rimg0026web2_3 楓(かえで)科。                                     
・学名 (いろはもみじ): カエデ属                           
・秋の紅葉(こうよう)がすばらしい。                   
・300種もの園芸品種が江戸時代から作り出されている。 
・楓(かえで)と紅葉(もみじ)は植物分類上は同じだが、 楓のなかで特に紅葉の美しい種類を「もみじ」と呼ぶ説が ある。また、盆栽や造園業の世界では、葉の切れ込みの数 切れ込み具合によって両者を呼び分けているらしい。      
(例)【造園】かえで → 葉の切れ込み(谷)が浅い    
                もみじ → 葉の切れ込み(谷)が深い       
英語では「かえで」「もみじ」とも「メープル」と呼び、 
  カナダ産の「かえで」の樹液からとったものに 「メープルシロップ」がある。                         
・楓(かえで)の語源は「蛙手(かえるで)」から転じた。  水かきのように切れ込みの浅い葉のものを楓という。
  紅葉(もみじ)の語源は、秋に赤や黄に変わる様子を昔、「紅葉づ(もみづ)」といったことにもとづく。(色が揉み出ず(もみいず)、からきたとの説も)。
切れ込みの深い楓を紅葉(もみじ)という。       
  なお、「イロハ紅葉」の名は、掌状に5~7裂する葉の先を 「いろはにほへと」と数えたことから。 

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賢治の祈りの言葉 詩「雨ニモマケズ」 (5)

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケズ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋(イカ)ラズ
イツモシズカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンヂャウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アラバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノホートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

読書があなたを強くする  「宮沢賢治」 原 子朗さん [宮沢賢治イーハトーブ館館長] 雑誌「いきいき」掲載より抜粋

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賢治の祈りの言葉 詩「雨ニモマケズ」 (4)

肯定できる自分になりたい。その願望が作品となった

賢治は33(昭和8)年、37歳で亡くなりましたが、中学時代から短歌をはじめて正味十数年であれだけの量の作品を書いたことは、驚異的なことです。そうまでしないで仏様に近づけたのならば、書かなくてもすんだはずですが、まだそうはなれなかったがゆえの辛苦の量だったといえないでしょうか。業のようなものだったと思います。それは、「雨ニモマケズ」以外の詩や童話も含め、賢治の作品にいきわたっている精神の証明なのです。

その思いの実現を、賢治は、しかし人一倍、頭ではなくからだで実践しようとしました。その無理がたたったことが、徹底した菜食主義を含めて早世の大きな原因だったと思われます。ききめの早い燐の肥料が買えたら買いなさい。石灰をどれくらい買いなさい。あそこへ行けば安く手に入るからと、死の前日まで肥料設計について尋ねてきた農民に指導していました。
排泄物の糞尿だけを肥料にするのではなく、品種改良と肥料設計によって、台風に弱い東北の農業を少しでも強くしたいと、実験するひまもないから金のかかる金肥は農民にはつらいとわがことのように悩み、そのために命を賭けていた。書斎で苦労してストーリーを考え、イメージを工夫するようなひまもどんなに賢治はほしかったことか。そのひまもなく身を粉にして実践し、その合い間、合い間に願望を手帳に書きつけた一つが「雨ニモマケズ」でした。

読書があなたを強くする  「宮沢賢治」 原 子朗さん [宮沢賢治イーハトーブ館館長] 雑誌「いきいき」掲載より抜粋

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賢治の祈りの言葉 詩「雨ニモマケズ」 (3)

否定、肯定を超えた作品の本質を理解しよう

「雨ニモマケズ」。この詩的メモは、仏教に深く帰依していた賢治の願望の本質をよく表わす詩的メモであり、手帳に書かれた詩の最後に「文字曼荼(陀)羅」(インドの古代語サンスクリットの「マンダラ」が語源。以下マンダラと書きます)と呼ばれる言葉が綴られています。
だからといって、この「雨ニモマケズ」を、はなから仏教的に読め、というのではありません。ところが、ご覧のようにこの詩的メモの中心部分(東、西、南、北のそれぞれ不幸な人や出来事)が、おのずから真四角をかたどっていること、そしてその四辺で対応する主体は「ワタシ」であること、その「ワタシ」の信条と生きかたが、この中央部分に前後して確認されている、これが「雨ニモマケズ」の構造です。
すると、中心部分の四角がマンダラをかたどっているのは、賢治がそれを最初から意図して詩のかたちにしたか、書いてゆくうちにおのずと東西南北の中心部分が形成されて言ったか。それは微妙な詩の秘密です。おそらく両方だったと私には思われます。
仏教の教えを視覚的に象徴的に表わすマンダラには、さまざまな種類がありますが、例外は別として、たいていは四角い形をし、画面の円形の中の像はすべて仏様をかたどったものです。

もとは、たとえばお祭りなどのたびに広場に描き、祭りが終われば消されていたのが、長い歴史のあいだに保存のきく紙や布や板に描かれ、彫られたりして彩色されたものがマンダラです。天台宗や真言宗のお寺や博物館などで、見おぼえあるかたもいると思います。そのマンダラを、誰にもわかる言葉とイメージで、詩として説明ぬきに書いたものが、「雨ニモマケズ」だといえると思います。賢治作品の中でも例外みたいに。

もう一度、そのマンダラを見てみましょう。その図柄は、漢字の「田」のかたちになります。詩に出てくる東西南北の四方に合わせ、上下左右はそれぞれ仏たちの座になっています。さまざまの様式があるので、ここでその説明は省略しますが、その四辺の四仏たちの外に、さらに四つの角にもそれぞれ菩薩がいます(たとえば普賢菩薩や文殊菩薩など、仏に成道する前の修行中の菩薩たち)。
これを四面の四仏に対して「四菩薩」と呼び、やはり図像に描かれています。すると四仏と四菩薩(八葉院と呼ぶ)の真ん中に、とても立派な姿で描かれているのが「大日如来」で、これが多種多様のマンダラの基本様式です。四面と四角(つまり農本主義のシンボルにもなる”田”)の中心である大日如来は「みほとけ」というふりがながつけられることもある慈悲と救済の化身、すなわち「解脱(げだつ)のシンボルなのです。その中心をとりまく八葉は、そのまま蓮の花の姿になります(八葉=八弁に囲まれた蓮華の花弁の中心台座が大日如来)。この覚者の”解脱”こそが、賢治が求め、生涯、あまたの言葉にし続けた者であり、この詩の本質を成すものだと思われます。「サウイフモノニワタシハナリタイ」という最後の一行は、仏様のような存在に、なれるものならなりたいという、賢治の欣求してやまぬ強い願望だったのです。農民のために尽くそうとしても、「金持ちの息子がいい気なものだ」と、受け入れられることのなかった賢治の晩年の心が書かせた祈りの言葉といえましょう。
だから、この中心部分に前後する具体的な暮らしかたの部分はこのマンダラ実現にふさわしい、たいせつな「条件」だった、ともいえましょう。

読書があなたを強くする  「宮沢賢治」 原 子朗さん [宮沢賢治イーハトーブ館館長] 雑誌「いきいき」掲載より抜粋

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賢治の祈りの言葉 詩「雨ニモマケズ」 (2)

「雨ニモマケズ」の評価のされかたは正しいのだろうか?

谷川徹三が絶賛して以来の、賢治の作品は無条件ですばらしいとするような風潮に対し、「あれは想像力の衰えた、賢治の作品でいちばんつまらない作品だ」と、55(昭和30)年に詩人の中村稔が批判して、二人のあいだに論争が起きたことがありました。しかし、両方とも直感的な印象批判で上げ下げ下だけに、この論争は不毛に終わりました。
私も、賢治の作品がよく読まれずに、この「雨ニモマケズ」が、わかりよいだけにありがたがられ、賢治は偉いと、まるで仏壇に向かって拝むようにあがめられることには反対です。もちろん、「読んでみたけれどもよくわからない」という場合もあります。それは賢治の作品、とくに詩は難解だからです。それこそ明治時代以降、賢治ほど象徴的で、実践的、かつ宗教的で、自然科学的な多面性をもつ詩を書いた詩人はいませんでした。日本の古典を含めた歴史の中での異色であると、ずっと詩の歴史を研究している私には断言できます。

賢治は中学2~3年生のころから短歌をはじめた影響もあって、その表現は躍動的でリズミカルな面を身につけていました。しかしその形式では表現しえない。おさめきれない自分の内面の複雑なものをかかえ、それに気づいていたのです。生、老、病、死の「死苦」ばかりか、人間の愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦の四苦、合わせて「八苦」はもとより、それに加えて、めまぐるしく変化する時代に取り残されたようにオロオロしながら、自分たちのつくった米を自分で食べられないで、地主に持っていかれてしまう多くの農民たちに接しながら、しかも都会は、あたかも繁栄しているかのようなにぎやかさ。

そうした矛盾を押さえつけている絶対的な軍国主義、そうした個人と社会や時代とのからみ合う相克を傍観者ではなく、わがこととして賢治は詩に、そして童話に向かわざるをえなかった人でした。そして、人間性の根源へ向かって錘(おもり)をおろし、「人間とは何か、どう生きるか」ということに、深く探りを入れ、象徴的な表現で詩を、そして、詩と切り離せない童話や劇の多くを書いたのです。
古来多くの詩人(歌人も俳人も含めて)たちはそうだったように、彼は自分の才能に賭ける、しばしば傍観者ふうの知識人の一人ではなかった。(そうまでしなくてもよかったのに)自耕氏、自助し、他助する不思議な人だったのです。彼はしょせん金持ち階級の一人だったのだ、という批判も当時からありましたが、彼はみずからそれに激しく反発し、自分で処理できない分は信仰によって自他の矛盾を克服しようとし、悩みぬいています。そうした複雑な内面が、彼の詩や童話にそのまま反映し、それが言葉を複雑にし、また難解にもしているのです。
そのことを念頭において「雨ニモマケズ」を一緒に読んでみましょう。

読書があなたを強くする  「宮沢賢治」 原 子朗さん [宮沢賢治イーハトーブ館館長] 雑誌「いきいき」掲載より抜粋

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賢治の祈りの言葉 詩「雨ニモマケズ」 (1)

18歳のときから賢治にひかれ、その作品を読みこみ、以来、研究を続けてきた。賢治研究の国際的な研究情報センターである宮沢賢治イーハトーブ館館長のの原 子朗さんは、「いちばんわかりやすくて有名な『雨ニモマケズ』から読んでみてはどうか」とおっしゃいます。

「雨ニモマケズ」はどのように読まれてきたか

生前、詩集『春と修羅』(1924・大正13年)が、たった3冊売れただけとさえいわれる宮沢賢治を、今日のように有名にしたおおきなきっかけの一つは、哲学者・谷川徹三の講演でした。敗戦直前の44(昭和19)年、東京女子大学で行った講演で詩の「雨ニモマケズ」を、「日本の近代文学における最高傑作であり、世界的に見てもこんな素晴らしい作品はない」と絶賛したのです。これが翌年(敗戦の半年前)、国策協力の出版物『日本叢書』に収録され、『雨ニモマケズ』の書名で2万部も刊行され、多くの人に読まれるようになりました。

65(昭和40)年、井伏鱒二が発表した広島の原爆を主題にした小説『黒い雨』には、登場人物の会話のに「雨ニモマケズ」が出てくる場面があります。「玄米四合」の箇所を文部省は「三合」に書き換えているのはひどい、と食糧不足で買出しに行く電車の中での2人の主婦の会話。しかもそのため、下車駅前の交番で警官につかまり、そのことを咎められる。という内容です。戦時中、「雨ニモマケズ」はそれほど有名ではありませんでしたし、調べてみると文部省は当時の教科書に載せてはいません。宮沢賢治は少しも有名ではなかったころのエピソードとして『黒い雨』には書かれています。

不平など言わずに、じっとこらえて人々の幸福をはかる姿勢が、日本の国家中心主義のありがたい教材のように使われ、戦争中から少しずつ浸透していた面もありました。毎日の朝礼でこの詩を朗読する小学校の校長先生もいたほどです。まるでお経を唱えるみたいに。
ところが敗戦直後、アメリカ軍の占領下にあった日本で、「雨ニモマケズ」を教科書に載せようという話が出た経緯を、」金田一晴彦は著作に記しています。詩をよんだアメリカ人の検閲官が、「これはすばらしい。とても民主的な庶民の生きかただ」と言い、ぜひ教材にしたほうがよいという話になったというのです。そんなふうでいっそう有名になった。戦時中もありがたがられ、今度は民主主義のお手本になるという珍しい例です。

読書があなたを強くする  「宮沢賢治」 原 子朗さん [宮沢賢治イーハトーブ館館長] 雑誌「いきいき」掲載より抜粋

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賢治と日本人の宗教(5)

盆地が詩人・賢治を生み出し、宇宙的感覚を研ぎ澄ませていきました。

花巻は盆地です。盆地は自然がとても美しく、山には豊かな森があり、麓には北上川という清冽な川が流れています。けれども、この盆地の社会は閉鎖的です。閉鎖的な社会ですから、賢治の詩はなかなか受け入れてもらえません。美しい自然と閉鎖的な社会というジレンマの中での葛藤や、閉鎖的な社会から脱出したいという強い願望によって、賢治の詩人としての魂が非日常的に噴出したのでしょう。盆地という風土が賢治のような詩人を生み出したとい得るかもしれません。
賢治は閉鎖的な社会から脱出しようと、父親の制止をふり払って東京へ出て行きます。しかし、生活力がなく、また花巻の地へ引き戻されてしまいます。引き戻された賢治の想像力は結局、宇宙に向かって垂直に脱出し、すべてのものにいのちが宿るとする宇宙的感覚が研ぎ澄まされることになったということが逆説的にいえるでしょう。

賢治は冬になると、寒行(寒中に寒さに耐えてする修行)にでました。絣のきもののうえに黒いマントを羽織る、という気味の悪い服装でしたが、賢治はあえてこうした出で立ちで登場したのでしょう。この黒マントからは、ペリーの黒船来航を、さらにさかのぼれば、16世紀に日本へやってきた宣教師の、黒い帽子に黒いマントを羽織った異様な姿を思い出します。黒は途方もない異国から途方もない力をもつ者がやってきておびやかすというイメージです。
黒いマント姿の賢治は、閉鎖的な社会や農耕民的なライフスタイルにアンチテーゼを突き出す象徴だったのでしょう。

賢治はすべてのものになろうとしました。自身の内部にある可能性のすべてを花開かせようとした人間といえます。そのためにどれもが中途半端に終わったととらえられるかもしれません。確かに、詩人としても、教師としても徹底することはできませんでした。けれども、そのすべてになろうとしたところに、ただの専門家であることに耐えられない人間だったということが見えてきます。賢治は人間というものは可能性をもった存在だととらえ、人間として誠実に生きようとしました。

賢治の本質がどこにあるのかは誰にもわからないでしょう。賢治は自然にふれ、風にふれました。古代の万葉人と同じように天地万物にいのちが宿り、すべてのものに同等のいのちが宿るとする仏教以前の感覚を賢治はいちばん奥底にもっていました。仏教とキリスト教が積み重なっていった全体像の中で、賢治を位置づけてみると、日本人の宗教とは、決して何でもありの無原則なものではなく、宇宙的、人間的なものではないか、そう考えるときを迎えていると思うのです。

読書があなたを強くする 「宮沢賢治」 宗教学者 山折哲雄さん 雑誌「いきいき」掲載より抜粋

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賢治と日本人の宗教(4)

賢治の作品の中ではさまざまな”風”が吹いています

賢治は大きな自然の中へ、さらに宇宙空間へと限りない関心をもち、そうした世界の中の動物や植物、鉱物に、童話の世界と同じくらいの比重で強烈な関心をもち続けていました。こうした感覚が、詩人・童話作家の賢治を誕生させるうえで非常に大きな役割を果たしたと思います。この感覚はつねに外へと向かう意識の強さの表れであり、すべてのものに同等のいのちが宿るとする、いわば狩猟民的な感覚といえます。
この狩猟民的な感覚を軸に考えていくと、賢治の作品世界はまさにそういう感覚に彩られてつくられたものだとよくわかります。たとえば、『春と修羅』を中心とする賢治の詩を読むと、”風”という言葉が実にたくさん出てきます。風のイメージを表わしているわけですが、喜怒哀楽の風、悲しい風、寂しい風、喜びの風、愛欲の風、悪魔の風、宇宙から吹きつけてくる風、形而上学的な風など、さまざまな風が吹いています。ものすごく人間的な、野獣的ともいえるような欲望を感じさせる風から、神や仏の世界に近い、あたたかな光のような風まで実に多重的な風なのです。

賢治の代表的な童話は、風が吹いて物語が始まり、風が吹いて物語が終わります。『風の又三郎』も『注文の多い料理店』も『銀河鉄道の夜』もそうです。風は非常に重要なところでさりげなく吹くのです。この風は賢治にとってどのような意味をもつのでしょうか。
私の出した最終的な結論は、風は宇宙のかなたから吹いてくる風ということです。賢治の感性は宇宙すべてに、すべてのものに同等のいのちが宿るとする狩猟民的感覚であり、それがこの風と非常に深くつながっていると考えるからです。
賢治の狩猟民的感覚は童話『なめとこ山の熊』に如実に表れています。

読書があなたを強くする 「宮沢賢治」 宗教学者 山折哲雄さん 雑誌「いきいき」掲載より抜粋

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賢治と日本人の宗教(3)

賢治の『春と修羅』の原稿を最初に見たのは斉藤宗二郎でした

大正13年、2月7日。『春と修羅』を出版する少し前、賢治「永訣の朝」は賢治の妹、トシが結核のため、寒い寒い冬の部屋で亡くなった夜、押入れの中で一晩中泣き続け、その翌朝に賢治が書いた詩です。賢治はその1日で「松の葉」「無声慟哭」とあわせて3編書き上げました。宗二郎は「永訣の朝」を読んで感動し、日記に詩のかたちで書きのこしています。

私はずいぶん長い間、この詩を読んできましたが、これまでの自分の読みかたは間違っていたのではないかと思うようになりました。賢治はこの詩で標準語で妹のトシに呼びかけ、トシは花巻方言で答えています。標準語と方言のダイアローグで進行するのがこの詩の世界なのです。どうしても標準語で呼びかける賢治が主役だという前提でこれまで世間でも解釈されてきました。
しかし、賢治とトシの立場は逆転して考えなければなりません。賢治がこの詩を書いた日の主役はトシです。賢治の唯一にして最大の理解者であるトシが亡くなってしまったことによる賢治の絶望が歌いこまれています。賢治とトシの立場を逆転させてみると、精神的に死のうとしているのは賢治であり、花巻方言で語るトシは賢治に強く呼びかけてくる、と理解できます。

読書があなたを強くする 「宮沢賢治」 宗教学者 山折哲雄さん 雑誌「いきいき」掲載より抜粋

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賢治と日本人の宗教(2)

デクノボーのモデル、斉藤宗二郎から内村鑑三の思想にふれたのでしょう
賢治の父、政次郎は浄土真宗を熱心に信仰していました。だから賢治は子どものころから浄土真宗が全身にしみこんでいます。中学時代には、仏教の勉強をするために、森岡の願教寺(がんきょうじ)を訪れています。日本の近代仏教の先駆者であり、明治維新のときに大きな活躍をした島地黙雷(しまじもくらい)という長州の傑僧が25世住職を務めたお寺です。その後、賢治は農林に関する専門学校では当時随一の盛岡高等農林学校を出て、研究者になろうとしてなりませんでした。大正10年、花巻農学校の教師になり、農村の青年たちを目覚めさせようという使命感に燃えていました。そのときの賢治は教育者としての情熱がありました。教師をやりながら、詩を書き、童話を書き、文学の世界に限りない関心をもち続けていました。同時に、日蓮宗や法華経の世界に関心をもち始めて、宗教的な世界が賢治にとってより重要な意味をもつようになってきました。

このころ、賢治は「雨ニモマケズ」の最後に出てくる「デクノボー」のモデルともされる、斉藤宗二郎と知り合っています。宗二郎は賢治よりも20歳年上で、日露戦争に反対した非戦論者の内村鑑三の影響を受けたキリスト教徒でした。花巻小学校に赴任し、児童たちに内村鑑三の思想を説き、教師の職を追われた人物です。宗二郎は内村から「新聞の取次業をしてはどうか」とすすめられ、ふたつ返事で受け入れました。その新聞の仕事をするとき、宗二郎は貧しい家の少年たちといっしょに配達をしました。少年たちと同じように朝早くからおきて、1日40キロ歩いたといいます。
配達のやりかたは、新聞をとっている山の中の数少ない家を一軒一軒まわり、一軒の家に新聞をいれたら神に祈り、10分くらい歩いてまた次の家へ、のくり返し。もし病気の人がいたら、中に入って慰めの言葉をかけてあげながら配達して行きました。途中、子どもたちに飴玉をあげることもしばしばでした。花巻の子どもたちは宗二郎の姿を見て、「やーい、十字架、やーい、キリスト」と悪口を言って囃したてました。ところが日がたつにつれ、「お菓子を買うなら花巻おこし、新聞とるなら斉藤先生」に変わったというのです。宗二郎の子どもたちに対する感化力はすごいものですね。
この新聞配達の中で、宗二郎は花巻農学校の先生たちと親しくなり、そのひとりであった賢治と出会うというわけです。
内村鑑三は宗二郎よりも17歳年上です。鑑三、宗二郎、賢治の関係は、おじいさん、父親、子どもの3世代のようなものです。おそらく、賢治は宗二郎から内村鑑三の話を聞き、キリスト教の世界にも親しみを感じていたのだろうと思います。

読書があなたを強くする 「宮沢賢治」 宗教学者 山折哲雄さん 雑誌「いきいき」掲載より抜粋

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賢治と日本人の宗教(1)

宮沢賢治も高村光太郎も岩手県・花巻の地にゆかりがありました。
私の実家は、岩手県花巻市にあり、浄土真宗の西本願寺派の末寺です。そこからわずか150メートルほどのところに賢治の生家がありました。賢治は昭和8年に亡くなっており、昭和6年生れの私は会う機会がありませんでしたが、私の両親は賢治のご両親とお付き合いが多少あったと聞いています。お寺の門前には洋品店があり、賢治の妹おシゲさんがそこに嫁ぎました。そのお子さんたちは私が小学校、中学校のころ遊び友だちでした。お顔が賢治とそっくりで、性格もとてもおだやかでしたから、自然に賢治に親しみを感じて、やがて作品を読むようになったというわけです。
賢治が亡くなった後、その作品を評価した2人の詩人がいました。ひとりが高村光太郎、もうひとりが草野心平です。この2人が中心となって、戦前に『宮沢賢治全集』全8巻が出版されました。

昭和20年、終戦間際に花巻は空襲を受けました。このとき、賢治の生家は焼けてしまい、火の手は燃え広がって、私の実家のお寺の手前で止まりました。
終戦から一か月後、「高村光太郎が花巻に来ている」といううわさが広がりました。光太郎はその当時から第一級の詩人で、中学生の私にとってもあこがれの存在でした。うわさを聞いてから私は、どこかを光太郎が歩いていないかと学校帰りに探しまわりました。探しつづけてついに、背の高い、風呂敷包みをぶら下げて歩く光太郎の姿を見つけました。3メートルぐらいうしろをくっつくようにして歩いていたのですが、なかなか距離が縮まらず、近づくにも近づけませんでした。そして、光太郎は肉屋に入りました。出てきたときには、新聞紙でつくった袋をぶら下げていました。「あの中に牛の尻尾が入っている!」と思い込んで、また光太郎のあとをついていきました。けれども光太郎はスーッと去って行ってしまいました。中学2年の私には、光太郎に話しかける勇気はありませんでした。

光太郎は賢治のことをとても尊敬していました。東京に住んでいた光太郎は、戦争に対する反省から、北国の寒さが厳しい土地で懺悔の生活をしようと、自分で自分を流罪にします。選んだのは賢治の故郷、花巻の地でした。光太郎は非常に粗末な小屋で暮らしました。畳3疊、土間3疊。光太郎が亡くなってまもなくのころに訪れたのですが、わずかな家財道具と炊事道具、それから鎌とか鋤とか農具が転がっているだけでした。そんなところでたったひとり、光太郎は自炊をしていたのです。

読書があなたを強くする 「宮沢賢治」 宗教学者 山折哲雄さん 雑誌「いきいき」掲載より抜粋

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楽にもうけたい

神戸市 中学生 男性(13)
学校のホームルームで、将来どんな仕事につきたいか、と聞かれたので、「楽してもうかる仕事」と答えたら、先生に「ウケねらいか? そんなのはダメだ」と一喝されました。でも、僕は本気でそう思っています。仕事は、人間にとって、単に生活できる分のお金をかせぐ手段で、それなら楽な方がいいに決まっています。苦労が多い仕事が貴いとは限らない。「仕事とは苦労を伴うものだ」とか「苦労を苦労と思わないようなやりがいのある仕事を見つけるべきだ」とかいうお説教は、全然ピンときません。
こんな僕の考え方はどこか間違っていますか。

少々の苦労 引き受けよう 哲学者 森岡正博さん
あなたの考え方は、間違っていません。多くの大人たちも、そういう仕事につけたらいいなあと思っています。私も、自分の書く本がどんどんベストセラーになってほしいなあと、毎日思っています。ただ、注意しておくべき点がいくつかあります。
まず思いつくのは、競馬などのギャンブルです。ところが、世の中には、ギャンブルにお金をつぎこんで、人生を狂わせてしまう人がたくさんいます。破産しないように工夫しながら、ギャンブル生活をずっと続けるのは、とてもしんどいし、楽ではありません。
家がすごくお金持ちで、仕事をしなくても暮らしていける人もいます。ただ、お金持ちのまわりには、何とかしてそのお金を吸い取ろうとする人々が群がってきます。それにだまされないようにしながら、資産の管理を続けていくのも楽ではありません。
あなたがギャンブラーでも金持ちでもないのなら、楽してもうかる仕事は、自分で作り上げていくしかありません。誰も楽な仕事は与えてくれませんから。会社を作って、成功させて、どんどん稼ぎましょう。
でも大もうけして資産を築き上げるまで、けっこう苦労すると思いますよ。楽そうに見える株取引ですら、すごくしんどいものなのです。なので、結局、「楽をするためには少々の苦労は引き受けないといけない」という考え方でやっていくのがいちばん賢いと思います。

「悩みのレッスン」 朝日新聞 より抜粋

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