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2008年11月

うざったい

好きってメール打って
ハートマークいっぱい付けたけど
字だとなんだか嘘くさいのは
心底好きじゃないから?

でも会って目を見て
キスする前に好きッて言ったら
ほんとに好きだった分かった
声のほうが字より正直

だけど彼は黙ってた
そのとたんほんの少し私はひいた
ココロってちっともじっとしていないから
ときどきうざったい

「こころ」   谷川俊太郎 10月の詩  朝日新聞掲載より抜粋

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8月の詩 こころ ころころ

こころ ころころ

こころ ころんところんだら
こころ ころころころがって
こころ ころころわらいだす

こころ よろよろへたりこみ
こころ ごろごろねころんで
こころ とろとろねむくなる

こころ さいころこころみて
こころ ころりとだまされた
こころ のろのろめをさまし

そろそろこころ いれかえる

こころ 「8月の詩」 谷川 俊太朗  朝日新聞 掲載より抜粋

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出会いへの期待失わずに

ー30代、40代ぐらいの女性に向けて、生きるアドバイスを三ついただけますかー
まあ、いろいろな人を知ること。それから、世の中のものに対して好奇心を持つと、今まで思いもよらなかった物事が目に入っていくかもしれない。そんな所で新しい人間のお勉強するかもしれないしね。今までこんな人会うたことないっていう時も、なるたけ心広く持って、「ああ、こういう考え方があるのか」と考える。「あんなこと考えるから、あの人嫌い」って言うんじゃなくてね。新しい発見があるという人生はいいわよ。いま、いくつ言った?

ー二つ、いただきましたー
それから、2番目と似てるけど、趣味はやたら多くしなくてもいいんだけど、かじるだけかじってみることね。思いも寄らないことが世の中にはあるという「畏れ」をいつも持ちながら。ひょっとしたら、という畏れと希望と期待をね。いろいろなことに首を突っ込む人間、大好き。

ー最後の質問です。何人かの女性から「ぜひ聞いてこい」と脅された者ですから。80年の集大成として、いい男性の見分け方というものはあるのでしょうかー
まず、人間って不思議なもんで、肌の合う合わないが絶対にあんねん。どんなに他人が「あの人はええ」と言っても、肌が合わんということがある。何十年かの人間生きてきた蓄積がありますから、どうしても一緒になれないとか、理解できる範囲じゃないというものがある。どうしても肌が合わなければ無理しなくたって構わないと思う。

ー無理するな、とー
でもね、何年がたってその人に会って見たら、「ああ、この人はこういう感じだったのか」と、新しい発見することもありますね。自分が年を重ねたことによって、新しい芽を生み出すかもしれない。でも、その時代の自分はそこまでしか理解できなかったわけやから、しょうがない。その時代時代の自分の気持ちに忠実なのが一番よ。やっぱり出会いに対する期待を失ってはだめよ。人間の社会っていろいろなことがあって、期待するに足ると思う。私の生き方として、発見がないよりは、辛い発見でもあるほうが楽しい、ですからね。

「人生の贈りもの」 作家 田辺聖子(80) 朝日新聞掲載より抜粋

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頼りになるのは「仕事」

ー学校を出て大阪の金物問屋に勤め、小説の勉強をされていました。いまでこそ珍しくないですが、38歳まで独身。周りから「結婚しろ」っていわれなかったんですかー
小説の勉強をしている変わった女に、誰もそんな恐ろしいこと言わへん。「何言うてんのさ」って怒鳴り散らかすに決まっているからね。でも、母なんかはやっぱり心配して、「いつまでたっても芽ぇ出えへんね。あんた、そないして書いてはあちこち出してるけど、賞金とかもらっているの」とは言っていました。

ーもし小説が売れなかったら、金物問屋で働いて、お母さんと生活を続けられる予定だったんですかー
売れないことはないと思ってた。いろいろな雑誌を読んでみても、みんな幼いか古いのかのどっちかや。達者でもおもしろいっていうのは一つもないねん。まず、働き盛りの人は戦後、小説を書くとか読むどころやおまへんという感じ。がっちり養わいかん人を抱えて。みんな必死で働いて、娯楽を求めてた。

ーそんな時代、田辺さんが小説で生きていこうとお考えだったのは、いまから思えば日本文学界の財産ですね。ー
どうでしょうね。私ぐらいの才能のやつはいっぱいいましたでしょう。ありがたいことに、戦後だから書く場はいっぱいあった。投稿雑誌がいっぱい出て、いろんな新聞社とか雑誌社が懸賞の小説募集を出し始めていた。だから、私みたいな地道に書いている女の小説が活字になり、本になったんでしょう。みんな活字に飢えてたしね。

ーいちばん頼りになると思われるのは、子どもですか、夫ですか、仕事ですかー
仕事。人間は頼りになりません。「これを世に問うぞ。書いてやるんだ」って、書かないとだめ。配偶者はとっても役に立ちますけれども、やっぱり、私は書いて生きてきた。遠縁のおばさんが、そんな私を見て、「聖ちゃん、それ、お金になりまんねんってなあ」と聞いたことがあるの。「いや、まあそんなに大したお金じゃないけど」。そしたら、「ええ手ぇ、持ってはるなあ」って言われた。縫い物のお針子さんになったような気がしたな。いまから考えると、同じようなものよ。

「人生の贈りもの」 作家 田辺聖子(80) 朝日新聞掲載より抜粋

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毎日晩酌、毎日バラ色

ー田辺さんのエッセーを読むと、落ちこむことが全然なくて、苦労を苦労と思われないみたいなところがある気がするんですけれどー
そんなに厚かましくないわよ。落ち込みますよ。小説でも、なかなかいい考えが浮かばないとか、よくあります。こんな状態で書いててもあんまりパッとしないなあ、とか考えながら書いていると、「あ、三べん目のやり直しや」ということも、しょっちゅう。部屋のなかで「やりましょう、やりましょう、さあ、やりましょう」なんて、自分で大声で歌ってやってます。

ー多作の田辺さんが、意外ですー
ものを書いているっていうのは、ちっちゃいちっちゃい抜け道を探すっていう感じね。こう行かないとパッと花が開かないと思うんだけど、どうしてもその行き方が分からない。朝からがんばって、何にも進まず晩になる。するとね、秘書が「ご飯にしましょうか」と声を掛けてくる。「ちゃんとついてますよ、お燗」「そうか、じゃ、行こ。おもしろいこと、先しよ」って言って、飲んじゃうの。

ーいまでも晩酌は毎日?-
うん、してますよ。

ーどれくらい飲まれるんですかー
毎日一升も飲んでたら、所帯つぶれてしまう。そうね、日本酒をちょっとかしら。でも、その前にまだありますから。ビールとか、あとウイスキーちょっと薄めたんとか。ずっと日本食でお刺身とかお魚の焼いたのが好きだから、やっぱり日本酒ね。ぬる燗にして。ご飯食べたあとは洋酒もいただきます。でも瓶が林立したりしませんよ。おしゃべりしてるから、たくさん飲んだような気がしないのね。

ー色紙に「まいにち ばらいろ」とかかれますねー
あの言葉を見ていると、なんか幸せになるでしょ。やっぱり言霊っていうだけあってね。魂を持っています。匂いとかね波動を発してますよ。ものすごくきれいな言葉を使って、みんなが美しく元気が出て、ほかの人にちょっと親切にしよかって気が起きたりする。ちょっとでええねん。せっかくのきれいな優しい日本語だから。新しい筆なんかおろして、なるべくきれいに書いて贈るの。ああ、楽し。

「人生の贈りもの」 作家 田辺聖子(80) 朝日新聞掲載より抜粋

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大人の男って、おもろい

ー最近、アラサー(30歳前後)、アラフォー(40歳前後)といわれる女性が恋愛について悩んでいるという声をよく聞きます。田辺さんがカモカのおっちゃんと出会われたのも、38歳のときでしたー
年を取るということは、それだけ言葉を獲得しているということなの。いろいろな自分の言葉を持ってる。結婚するときに、若い人同士やったら言葉なんかいらなくてもすぐ始まるやろけど、30歳を超えたら、自分の人生で使い込んだ言葉を味方にしないといけない。人を説得する言葉、自分を洗いざらい出してうまく言える言葉。ちょっと気取った飾る言葉。そんな言葉を使うのね。「こない言うたら、向こうにショックを与えるかもわからないな」「こういうふうに言うたほうが、ええかもしれん」と考えながら、いろいろ小説なんかで言葉を覚えたりね。やっぱり手の中で慣らしてしまった言葉をたぐり出し、やりとりするのが年をいってからの恋愛のおもしろさよ。

ー30代、40代の女性のなかには、やっぱり一人で生きていく方が楽、とおっしゃる方藻多いんですけどー
それは2人住まいの楽しさを知らんからよ。面白いわよ、2人であれこれ言い合いしながら暮らすの。ええ相棒との暮らしは興味が尽きないと思いますよ。でも、ひとつ、やっぱりインテリジェンスのレベルが合っていないと苦しいかもしれない。おおきな差がないほうがいいという意味ね。どの辺まで言うたら怒りよるかわからないから。

ー失礼ですが、36年間もひとりの男性と一緒に住まれて、飽きなかったんですかー
飽きなかった。男はね、正直なの。男が女に勝っている美徳は、正直なところね。女はどうしてもうわべを繕うけど。私があることを言うと、男は「いや、知らんかった。ほんま?」と応じるけど、女やったら「そないなもん、さっきから知ってました」ってすまし顔やからね。36年間、男に正直さを学んだわね。カモカのおっちゃんも、自分が好きじゃなかったら、「俺はそういうのは好かん」ってはっきり言って、絶対やらなかった。大人の男っておもろいなあっと思っているうちに、時が過ぎたのよ。

「人生の贈りもの」 作家 田辺聖子(80) 朝日新聞掲載より抜粋

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恋に大切なのはやさしさ

ー今回は特別に、現代の30、40代の女性のために、80年間の恋愛を振り返っていただこうかと。最初に、失礼を顧みずお聞きしますが、女性にとって「美人」は幸せの条件でしょうかー
なんでそんなアホなこと言うの。せっかく、これだけ大きな犠牲を払って戦争に負けて、日本全体がぐらっとひっくり返って、あらゆるものの考え方もひっくり返ったんよ。また戦前みたいなこと言うな。本当に「美人、美人」って騒ぐ男性は、「パァ」よ。恋を知らない人たちよ。

ーでは、恋愛でいちばん大事なのは、なんですかー
そりゃ、やさしさね。その人の持ってるやさしい性質。相手の考えてることの中に、ちらっとやさしさが見える瞬間、恋愛は急におもしろくなるの。なかにはやさしさがない人間も居るけれど、それは親の教育が悪かったのよ。あきらめるしかない人もいることはいますよ。

ー恋の究極の姿とは?ー
人間っていうのはもともと「人をなでなでして、自分をなでなでされるもの」だと思うの。そんなやさしさのやりとりから、自分も元気をもらう。だから、人を慰めたら自分も元気出る。「そんな心配せんかてええて。何とかなるよ」という感じね。でもこんなこと言うて何ともならへんかったらどないしましょ。そんなこともあるしねぇ。まあ、神サンいてはるね、どこかに。

ーなにかの本で、最初にカモカのおじさん(川野純夫さん、36年間事実婚をつづけ、02年死去)からプロポーズされた時に「あっちいけ、しっしっ」っていう感じやったと書いてらっしゃいました
ハハハ、あの人は正直な人やったね。本当に自分で思っていることしか言えない。語彙は少ないけど、その少ないボキャブラリーをうまいこと使うて、いろいろとすてきな表現をするの。それがおもしろかった。奄美大島の人なのね。あそこの人はみんな、すごく正直。嘘なんか聞き習うことがなかったのかもしれないけど、みんな素直でおもしろい。それから、あの人は、人を責めたらいかんというのは、よく言ってたなぁ。それも好きだった。それだけの理由よ。でも、36年なんて、ようもったわな、我ながら。

「人生の贈りもの」 作家 田辺聖子(80) 朝日新聞掲載より抜粋

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ほっと、 ひと息! 

江戸菊 〈平成絵巻〉

Rimg0065_editedweb1 江戸菊は,江戸時代に江戸(東京)で発達した古典菊です。 花が咲いてから花びらが様々に変化し,色彩に富んでいるのが特徴で,「色の変化」を鑑賞する菊です。 まるでダリアかしらと思うような花が江戸時代から楽しみです。

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夢見たふるさと どこに〈2〉

翌72年、「日本列島改造論」の田中角栄内閣発足。町も村も自然も「改造」の波にのみこまれる。山田らは農村風景を求め歩いた。
「どうしても土の道がみつからなかった。渥美さんは『もうぜいたく言わないからさ、これ以上、この国は変わってほしくないな』って」

〈仏様は愚者を愛しておられます〉

こういったのは帝釈天の「御前様」笠智衆(りゅうちしゅう)である。こんな懐の深い人生の先達に見守られたらいいな、と思わせた。
笠の生家も熊本の寺だった。
「姿そのものが一幅の絵。撮影現場にさわやかな風が吹きすぎるようだった」と山田。高齢の笠が体調すぐれぬときは鎌倉の笠の自宅近くの寺を借り、帝釈天にみたてて撮影した。

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寅さんの名セリフいろいろ。
恋愛
〈燃えるような恋をしろ。大声だして、のたうちまわるような〉 〈好きな女と添いとげられれば、こんな幸せはないけどさ。しかしそうはいかないのが世の中なんだよ〉
家族
〈労働者諸君! 田舎のご両親は元気かな。たまには手紙をかけよ〉
人生。
〈あぁ生れてきて良かったなって思うことが何べんがあるじゃない。そのために人間いきてんじゃねえのか〉 〈生きてる? そら結構だ〉
人間
〈お前とおれとは別な人間なんだぞ。早え話がだ、おれが芋食って、お前の尻からプッと屁が出るか!〉

笑いと勇気をくれた寅さんの誕生から40年。農村の衰退、バブルと格差社会、「僕たちの国はすっかり変わってしまった」と山田は語る。いま寅さんが生きていたら何というだろう。
こんなセリフもあった。
〈わびしい独り旅の夜汽車の中のうたたねに、ふと夢に見るのはふるさとのこと。お笑い下さいまし〉

人・脈・記 「おーい 寅さん⑬」 朝日新聞掲載より抜粋

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夢見たふるさと どこに(1)

69年8月、「男はつらいよ」第1作の公開日、山田洋次(77)は家でフテ寝していた。
テレビドラマの寅さんの人気をみて映画化を提案、「失敗したら会社を辞める」と大見えをきった。でも社内試写会の評判はいまひとつ。「喜劇を作るはずが、まじめな映画になっちゃった。僕はもうだめだな、と」
その日、新宿の映画館にいたプロデューサーから「すぐ来い」と自宅に電話が入った。駆けつけると「昼間からお客さんがいっぱい。どわっと笑うわけよ。もう映画は斜陽といわれていた時代なのに」。国民的シリーズに育つのはなぜか。心に響く名セリフぬきには語れない。渥美清の寅さんはいう。

〈ザマ見ろぃ、人間はね、理屈なんかじゃ動かねえんだよ〉
〈おう? てめえ、さしずめインテリだな〉

第1作の69年は東大安田講堂攻防戦があった学生運動の年。山田もよく新宿駅で学生の演説を聞いた。「でも体から出てきた言葉じゃないのね。頭の中だけで構築された理論で世の中が変わるだろうか、人間を変えていけるんだろうか?」。そんな思いをセリフにこめた。

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〈庭一面に咲いたリンドウの花、あかあかと灯りのついた茶の間、にぎやかに食事をする家族たち、それが本当の人間の生活ってもんじゃないか〉
志村喬(しむらたかし)がさくらの夫の博の父親を演じ、しみじみとつぶやく。
71年の第8作「寅次郎恋歌」だ。この年、マクドナルド1号店が銀座に登場し、カップヌードルも発売された。食卓の風景ががらりと変わりはじめる。名優志村のセリフは日本人の原風景を映していた。
この第8作の撮影中、渥美は山田にいう。「八という数字は末広がりで縁起がいい。それにあやかって、寅さんもそろそろ終わりでしょうかねえ」
ところが148万人もの観客を集め、全国の映画館主が山田らへの激励会を開く。やめるにやめられなくなった。

人・脈・記 「おーい 寅さん⑬」 朝日新聞掲載より抜粋

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風天は歩く 明日のため(2)

「赤とんぼって、渥美さんかしらね」と黒柳。明日のために、渥美は仕事の合間に芝居や映画を見て歩く勉強熱心な人だった。
笹野高史(60)は六本木の小さな劇団にいた。「渥美清が客席に来てるぞって、みんなでささやき合った。ああっ、本物だ、スゲエって」
渥美に見いだされた笹野は「男はつらいよ」の脇役になる。休みの日は映画や芝居めぐりのお供をした。「『何かおもしろいの、あった?』『あの芝居、どう?』といつもおっしゃるから、情報を仕入れとかないといけないと思いました」

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渥美は「役者は役の名で呼ばれているうちが花」といいつつ、88年、早坂に声をかける。「尾崎放哉(おざきほうさい)をやりたいんだけど」。尾崎は季語を含めず自由に詠んだ大正時代の俳人。結核を病み「咳をしても一人」という句がある。渥美も20代に結核で片方の肺を失っていた。
ドラマの主人公はテレビ局の都合で、放浪の俳人、山頭火に変わり、来週から撮影というとき、渥美は突然キャンセルする。「寅さんが坊主の山頭火の袈裟姿になったら笑われないだろうか」。寅さんのイメージが、重かった。
96年夏。早坂が渋谷のホテルにこもって原稿を書いていると、渥美がフロントから電話してきた。「いま忙しい最中といったら、『また今度』と会わずに帰っていったんです」
翌月の8月4日、渥美はがんで68歳の人生に幕を下ろす。あの日、サヨナラをいいにきてくれたのに。早坂は悔やんだ。
のちに早坂は、渥美が手帳にこんな走り書きを残していたと知る。「伊豆の式根島に家族で行こう。暁さんも一緒に」。寅さんのロケで訪れたその島を、渥美はことさら気に入っていたという。

人・脈・記 「おーい 寅さん⑫」 朝日新聞掲載より抜粋

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風天は歩く 明日のため(1)

渥美清は1928年3月、上野に生れた。世界恐慌の前年の春である。
本名は田所康雄。地方新聞の記者だった父が失業し、母が仕立物の内職で家族を養った。少年の日の渥美はラジオの落語が大好き。よくものまねをして友達を笑わせた。戦後、テキヤ仲間に入り、23歳で浅草の芝居小屋の舞台を踏む。
脚本家の早坂暁(はやさかあきら)(79)が浅草の銭湯で渥美に出会うのはそのころだ。早坂は日大で学生運動に首をつっこみ、警察からマークされていた。
「あんちゃん、追われているのかい」。湯船でふりむくと、白い舞台化粧の男がぬっと顔を寄せた。渥美である。
「家に連れていかれ、メシでも食わしてくれるのかなと思ったら、僕をダシにして母親からお金をせしめるんです。『この人は苦学していて郷里に妹さんが病気。病院にいれてやりたいけど金がない。貸してやってくれ』と」
そのお金は? 「半分ずつ山分け。笑っちゃった」

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10年後、早坂は脚本を書いていたNHKで再会する。渥美はテレビの売れっ子になっていた。ドラマで妻を演じた黒柳徹子(75)の初対面の印象。
「私がかわいいプードルなら、あの方はケンカ犬という感じですかね。身構えて、うなり声をあげて、遠くからこっちを狙ってるみたいな」一段低くみられていた浅草軽演劇からテレビの世界にきて、気負っていたのだろうか。
黒柳は山の手のミッションスクール育ち。仲良くなった渥美から「お嬢さん」と呼ばれる。黒柳も5歳上の渥美を「お兄ちゃん」と慕った。
渥美は永六輔(75)に誘われ、俳句をはじめた。俳号は「風天(ふうてん)」。むろんフーテンの寅さんからである。矢崎泰久(やざきやすひさ)主宰の句会は楽しかった。
渥美にはこんな句がある

好きだからつよくぶつけた雪合戦
初めての煙草覚えし隅田川
お遍路が一列に行く虹の中
赤とんぼじっとしたまま明日どうする

人・脈・記 「おーい 寅さん⑫」 朝日新聞掲載より抜粋

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パン屋の手紙 ロケが来た(2)

95年10月、長田区の菅原市場でのロケの日。約5千人が見物に集まった。
泰三はセットのパン屋の看板を見て、息をのむ。「Isikura Bakery」と自分たちの名前が書いてあるではないか。「えらいこっちゃ」。
山田にあいさつするが、涙ばかりで言葉にならなかった。
パン屋の夫婦は大阪の漫才コンビ、宮川大助(58)、花子(53)が演じた。その日、大助は腰痛で立っているのもつらかった。
「でも大震災の現場。渥美清さんに『ここは聖地だね』といわれ、身がひきしまりました」
花子は「お祭り騒ぎのようだった」とふりかえる。石倉の家族らと記念写真を撮った。「自分が本当の被災者のように思え、映画と自分の気持ちがクロスしてしまってました」
西宮で被災した芦屋雁之助も町内会長の役で出た。

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それから山田は神戸に来るたびに、くららべーかりーを訪ねるようになった。作業所に車いすで通う人たちの姿に生きるたくましさを、それを支える石倉夫妻に「無私」をみる。
今年7月、石倉夫妻は山田にさそわれて、長野県小諸市の「寅さん会館」の渥美十三回忌に出席した。そこで寅さんの扮装をしたファンに出会う。
中折れ帽子に背広、腹巻き、雪駄。泰三はひらめいた。震災の日を忘れまいと「一七市」というバザーを毎月開いている。そのバザーで寅さんスタイルでパンを売ってみよう。ビデオを見ながら寅さんのタンカの練習をはじめた。
悦子はいう。「主人の中には寅さんの記憶がいっぱい詰まっていて、衣装をつけると、すぐ寅さんになれるんです」
パン屋の「寅さん」は来月16日の日曜に、JR新長田駅前に現れるはずだ。

人・脈・記 「おーい 寅さん⑪」 朝日新聞掲載より抜粋

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パン屋の手紙 ロケが来た(1)

95年1月17日、阪神大震災の日、神戸市長田区でそば屋を営んでいた中村専一(69)の店と自宅は全焼した。「避難所では救援物資を奪い合うわ、怒号が飛ぶわ、ドロドロを通りこしたときもありましたわ」
町の自治会長だった中村は、復興を話し合う勉強会で、こんな話を耳にした。あるボランティアが銀幕代わりに布団のシーツを持って避難所を回り、「男はつらいよ」を上映している。映画が終わって電気をつけたら、みんなとても明るい顔になっている。
「いい話やなあ。どや、寅さんを呼んで、『おいちゃん、おばちゃん、元気か』って言うてもろたら」
勉強会のメンバーが4月、監督山田洋次(77)に長田区でロケをしてほしいと手紙を送った。中村も「寅さんを迎える会」の事務局長になり、3万5千の署名を集める。
山田はしかし、悩んでいた。何千人も亡くなったところで喜劇を撮っていいものか。もう1通、手紙が届くのはそのころだ。「地震に遭って大変ですが、毎日楽しく障害者と一緒にパンを焼いています。というようなことが書いてあってね」
どんな人たちなんだろう? 山田の心が動く。スタッフに手紙の主を訪ねさせた。
その手紙を書いたのは長田区の小さなパン屋「くららべーかりー」の石倉悦子(59)。長女愛(あい)(32)は生れたときから脳性まひがあった。脱サラした夫の泰三(56)と、5人の障害者がパンを作る共同作業所を作り、パンを売っていた。その店は開店9ヵ月後の阪神大震災で半壊したが、修理してパンを焼けるようになっていた。
山田は浅丘ルリ子(68)をマドンナにして「寅次郎紅の花」の脚本をほぼ完成していたが、書き直す。「寅さんはふだんはダメな人間だが、たくましく生きている。震災のような非常事態にこそ力を発揮する」
寅さんが震災直後にボランティアとして救援に入り、1年後パン屋と再会、「みんな苦労したんだろうな」というシーンを加えた。

人・脈・記 「おーい 寅さん⑪」 朝日新聞掲載より抜粋

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煮っころがしに 神は宿る(2)

露木の先輩、五十嵐敬司(73)は助監督だった。山田のイメージにあう撮影地をさがすロケハンで全国を飛び歩く。
「そう、阿蘇山かなあ」
73年の「私の寅さん」に、寅さんが噴火口近くに露天を出すシーンがある。公開日が近づくのに、火山活動が盛んで撮影許可がおりない。ここが腕のみせどころと、役所の担当者とひざ詰め談判。「2~3日してようやくOKとなった」
五十嵐は、あごの張りぐあいや背格好が渥美によく似ていた。「床屋での洗髪シーンとか、代役として何回も映画に出ましたね」。寅さんの背広を着て釧路湿原を歩いたりもし、影武者の気分を味わった。
露木も五十嵐も尊敬する「山田組」伝説の人がいる。高羽哲夫(たかはてつお)。「男はつらいよ」シリーズ48作中47作を撮った名カメラマンである。

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山田から全幅の信頼をよせられた高羽は「カメラはあまり自己主張しないほうがいい」という控えめな人でもあった。
95年秋、最後の「寅次郎紅の花」クランクイン直前、肝臓がんで入院。余命を悟ったのだろうか、高羽はまな弟子の長沼六男(ながぬまむつお)(63)を病室に呼んだ。
「高羽さんに『これも運命と思って、寅さんを引き受けてほしい』といわれた。僕でつとまるだろうかと不安だったが、『どうしても』といわれて」と長沼。岡山でロケを終え、病院の高羽に電話で報告した。
「無事終わったと思ったんでしょう。それで安心したのか」、高羽は10月末、69歳で世を去る。悲報の日を思い出し、長沼はつらそうな顔になった。
「その日も葛飾柴又のロケに行きました。駅前か何かで黙祷して」。
生涯を映画にかけた男の物語はいまも「山田組」に語り継がれる。

人・脈・記 「おーい 寅さん⑩」 朝日新聞掲載より抜粋

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煮っころがしに 神は宿る(1)

松竹本社3階に「山田組」と表札をかけた小部屋がある。小さな机のまわりにパイプいすが五つほど、ホワイトボードに日程が書かれている。ふだんは監督の山田洋次(77)が打ち合わせに使う。金曜夜、スタッフたちが缶ビールやおつまみを手に三々五々集まってきた。機材を置く隣の小部屋もつかって延々、映画談義。OBの露木幸次(つゆきゆきつぐ)もちょくちょく顔を出す。「ここは気持ちが温かくって、昔の仲間と会うと、ホッとするよ」
神奈川県の農家の生まれ。定時制高校にかよいながら農協に勤め、22歳で大船撮影所に。山田をささえる「山田組」の小道具係になる。
「寅さんの好物のイモの煮っころがし、あれはいつも僕が作ってた」俳優さんが食べたときに、あ、うまい、という味、食堂で作らせてもどうしても出なかったから」
露木の母は煮っころがしが得意。その味を舌が覚えていた。寅さんの手土産は東京駅地下の名店街で選ぶ。山田のこまやかな注文に忠実にこたえた。神は細部に宿る。それは裏方のプライドでもあった。
ネアカな露木は役者からも頼られる。そのひとり武田鉄矢(59)の記憶。「監督にしかられ、めいっていると、ツユちゃんがいつもよってきて『うちのボスは伸びねえやつはしからねえ。怒鳴られているうちが花なんだから』って」
そんな露木が「スーッと血の引いた」ことがある。81年の「浪花の恋の寅次郎」だ。ロケ先で小道具を空けたら、渥美清が右手にはめる指輪を忘れていた。閉まった、ああ、どうしよう?
「そしたら、渥美さんが目で合図してくれたんです。『こっちの手を出せはいいんだろ』と。カメラの前で左手を出し、右手は背広の下に隠してね」
その指輪は特注の金製、ハンコになるよう「寅」を裏返しに彫ってある。8年前、大船撮影所が閉じたとき露木が預かった。「僕の一生の宝物ですよ」

人・脈・記 「おーい 寅さん⑩」 朝日新聞掲載より抜粋

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「辛抱せいよ」 道しるべ(2)

武田にとって山田は役者人生の道しるべ。
佐藤蛾次郎(さとうがじろう)(64)にとってそれは、アラカンこと嵐寛寿郎である。
佐藤はアラカンの鞍馬天狗にあこがれ、小学3年のとき児童劇団に入った。「男はつらいよ」シリーズで帝釈天のとぼけた寺男、源公を演じる。77年、「寅次郎と殿様」でその嵐と共演した。殿様役の嵐をリヤカーに乗せ、「下に!、下に!」といいながら走る。
「『蛾次郎、もっと速く走れ』って山田監督は厳しいんだ。何回も何回もやり直し。汗が乾いて塩ふいてんだよね」
そのとき、後ろから小さな声が聞こえてきた。
「『辛抱せいよ、辛抱せいよ、役者は辛抱だよ』と。アラカンさんなんです。あの言葉、いまも大切にしています」

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神戸浩(かんべひろし)(45)は95年、シリーズ最終作「寅次郎紅の花」で、浅丘ルリ子(68)演じるリリーの家の下働きの青年になった。
その2年前、夜間中学を描いた山田の映画「学校」で、口の重い生徒を演じたのがきっかけだった。「あのころ芝居をやめようかと思っていたんです。芝居じゃ食えなくて、ホテルで働いた。人間関係嫌だし」
だが渥美にはかわいがられた。神戸が名古屋出身と知ると、オレも昔は名古屋の大衆演劇小屋に出たことがあるよと話してくれた。
「渥美さん、最後は体がボロボロ。セリフが出なかったときもあった」
ひそかに抗がん剤治療を受けながらカメラの前に立ち続けた渥美に、役者魂を教えられた。その渥美が逝った96年の「学校Ⅱ」で日本アカデミー賞優秀助演男優賞。
「でもね、役者をやってきて一番よかったと思うのは、賞より、寅さん最後の作品に出られたことなんです」
教え、教えられて、役者人生がめぐりゆく。

人・脈・記 「おーい 寅さん⑨」 朝日新聞掲載より抜粋

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「辛抱せいよ」 道しるべ(1)

武田鉄矢(59)が役者の世界にはいるのは77年、山田洋次(77)が監督した「幸福の黄色いハンカチ」に出てからだ。当時28歳。
「なんでオレみたいなやつ雇ったんですかって、山田監督に聞いたんです」
山田はこう答えた。街をあるいていたら、君の「母に捧げるバラード」が流れてきた。この子は歌で物語を作っている。これは一編の映画だ。もしかしたら、セリフをいう力があるかもしれない。「それで、君に目をつけたんだよ」
武田は福岡に生まれ、聾学校の先生になろうと福岡教育大へ。フォークグループ「海援隊」をつくって上京、大学は中退した。「バラード」で「コラ! テツヤ! なんばしようとかいなこの子は」としかる母イクは、たばこ屋を営みながら武田ら5人の子を育てた。
「幸福の黄色いハンカチ」の翌78年、武田は山田から「寅次郎わが道をゆく」に呼ばれる。九州の農村青年、留吉の役だ。失恋して泣いていたら、「おい、青年」と寅さん。「女に振られた時は、黙って背中を見せて去るのが男というものじゃないか」。そう諭され、寅さんを人生の師とあおぐ不器用な若者を演じた。
撮影中、武田は山田が怖かった。「山田学校なんです。監督の『違う』って声が響くたびにぼく、フリーズしちゃうんですよね」。映画づくりの厳しさ、スタッフの心配り、そして完成の感激。「山田学校」を卒業すると、テレビドラマに主演する話がまいこんだ。「3年B組金八先生」である。

武田は、山田が渥美清のことをしみじみ話していたのを思い出す。「彼は学校の勉強はできない。でも時々おかしいことをいう。それがどのくらい人間と人間を結びつけたか。それが人間としての力なんだ、と」
金八先生は生徒たちの心の内にとびこみ、ともに笑い、悩み、涙する。演技をこえて武田鉄矢という人間をぶつけた。

人・脈・記 「おーい 寅さん⑨」 朝日新聞掲載より抜粋

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苦労わかるよ タコ社長(2)

長野県小諸市に「渥美清寅さん会館」がある。この夏、渥美十三回忌の法要が営まれた。渥美から「小諸のお父さん」とよばれた井出勢可(いでせいか)(80)の姿があった。
井出は、従業員12人の小さな電気工事会社の社長である。創業45年。景気の波にもみくちゃにされたタコ社長の気持ちがよくわかる。
渥美と出会ったのは46歳のとき。すでに「男はつらいよ」は大ヒット。井出は上京すると、知人から紹介された関敬六のスナック「けいろく」でよく飲んでいた。なじみになった関は「こんど、おれの親友に会わせるよ」。誰だろう? 約束の日にスナックに顔をだすと渥美がそこにいた。同い年のふたりは意気投合する。井出は会社を半月近く留守にして、地方ロケを追っかけるようになった。でも口下手で、俳優にお世辞を言うわけでもない。遠巻きに見ているだけ。「エキストラにと誘われたこともあるが、お断りしました」
ポスター、台本、衣装、小道具。寅さんにまつわるものは何でも集めた。いつの日か、渥美さんの会館をつくりたい。そんな夢を打ち明けると、渥美は黙って笑っていたが、ある日、「お父さん、トラックで撮影所に来て」。井出が駆けつけると、渥美の賞状やトロフィー、写真が詰まった段ボール箱が待っていた。
「おれの一人息子は脳性まひで、渥美さんは大変気にしてくれていたらしい。おれが死んでも、息子が働ける場所をと思ってくれたんだろうな」
その「寅さん会館」は95年6月にオープン。渥美は体調をくずしていたが、わざわざ一時退院して開会式にきてくれた。井出の息子はいま48歳。父と渥美の友情がいっぱい詰まった会館で、今日も来館者を迎える。

人・脈・記 「おーい 寅さん⑧」 朝日新聞掲載より抜粋

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苦労わかるよ タコ社長(1)

「ヨッ、労働者諸君!」。葛飾柴又に帰ってきた寅さんが、団子屋の裏の印刷工場の工員たちに声をかける。
「景気はどうだい?」 「相変わらずひでえもんよ」と応じるのはタコ社長。まん丸い目、つるんとした頭。手形や税金、いつも金策に走り回っている。
演じたのは太宰久雄。浅草の乾物屋に生まれ、実家は空襲で全焼した。NHK東京放送劇団に入ってラジオの声優になる。でもカメラの前の演技はすんなりとはいかなかった。「男はつらいよ」の小道具係、露木幸次(67)の話。
「タコ社長が『最近のカップめんもおいしくなったねえ』と食べながら入ってくる場面、10回くらいNGになったかな。やり直すたびに、太宰さんは『すいません、すいません』と頭をさげていました」
汗びっしょり。渥美清がアドリブで「タコ!」といったのがあだなのはじまりだ。律儀な太宰は撮影所にプライベートなことをもちこまなかった。息子をなくしても一言もいわない。翌日、大声で笑わなければいけないシーン。こらえきれずに泣きくずれた。98年、74歳で死去。「葬式無用。生者は死者の為に煩わさるべからず」と遺言していた。

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前田吟(64)はタコ社長のもとでインキまみれで働き、さくらと結婚する博(ひろし)を演じた。山口県の高校を中退し、新聞配達、印刷工、サンドイッチマンなどをしながら役者修行。23歳のとき、山本薩夫総監督の「ドレイ工場」で工員を熱演、山田洋次(77)の目にとまって「男はつらいよ」へ。
「撮影が一段落したら、スタッフたちとよく飲んだねえ」タコ社長の太宰やおいちゃん役の下條正巳(しもじょうまさみ)も時々加わった。自分たちはしがない脇役。このままじゃあ、いつになってもスターになれない。そんな思いがよどんだ日もある。
「でもね」と前田。「10年ぐらいたったころかな。博のようなきまじめな人間が実は大切なんだとわかってきた。本当に世の中を動かしているのは、おれたちなんだってね」

人・脈・記 「おーい 寅さん⑧」 朝日新聞掲載より抜粋

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浅草ロマン 夢の踊り子(2)

かつて国際劇場のまわりに大衆演芸場やストリップ劇場がたち並び、気軽な軽演劇が盛んだった。渥美清も、団子屋のおいちゃんを演じた森川信も、そんな浅草軽演劇の出身である。
おいちゃんは失恋をくりかえす寅さんをみて「ばかだねぇ」という。森川のアドリブだ。映画館にどっと笑いがあがる。なぜそんなにウケるのか? 山田は不思議でならなかった。やがて「あいつは馬鹿だけど、その馬鹿をおれは愛しているんだ、という愛情表現」と気づく。血の通った芝居の達人だった森川は72年、60歳で死去。

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森川の後輩に関敬六がいる。舞台では「ダドーッ」と意味不明のセリフで笑いをとった。25歳のとき、浅草のストリップ劇場「フランス座」で渥美と出会い、生涯の友となる。
競艇好き。金にとんちゃくしない。人なつこく、ファンを大切にする。「関やんがいないと寂しい」という渥美の引きで、テキヤ仲間を演じた。長いセリフがなかなか覚えられず、山田にしかられた。
96年8月、その渥美の死。「渥美やん、ずるいよ。何で黙っていったんだ」。テレビの追悼番組で関は、おいおい泣いた。まもなく脳梗塞で倒れる。リハビリする関を励ましたのはコメディアン橋達也(71)。若いころから渥美や関にかわいがられた。98年、関らと喜劇集団「お笑い浅草21世紀」を旗揚げする。「敬六さんは後遺症で足をしきずりながら、それでも舞台に立った。心底、浅草が好きな人でした」
その関も06年、78歳で逝く。いは橋は、「喜劇王」エノケンこと榎本健一がつくった日本喜劇人協会の9代目会長。「浅草に芸人志望の若者が集まり、客も若返っている。第二の渥美清がほしいね」

人・脈・記 「おーい 寅さん⑦」 朝日新聞掲載より抜粋

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浅草ロマン 夢の踊り子(1)

木の実ナナ(62)は「寅次郎わが道をゆく」でマドンナになった。浅草の国際劇場で歌って踊るSKD(松竹歌劇団)のスター役である。
「撮影のとき、じつは私、自分のワンマンショーで転んで肋骨(ろっこつ)を折って、えらい迷惑をかけちゃって」
当時32歳。病室に監督の山田洋次(77)がお見舞にきた。「『治ってからでいいよ』っていわれたけど、大丈夫、私は江戸っ子だい、といって撮影を続けました。踊るシーンは、痛くて、テーピングをして」
東京の下町、向島生まれ。父はSKDの楽団でトランペットを吹き、母も浅草レビューの元ダンサー。子どものころ隅田川を渡って国際劇場へ行き、スポットライトをあびる踊り子にあこがれた。「花やしき遊園地もよく行きましたよ。くるくるロケットというのがあって、逆さまになったりして降りた瞬間、ぼおっとなって、スゲェ、と」
百貨店の松屋の食堂で年を偽って皿洗いのアルバイトもした少女は、16歳で歌手デビュー。アメリカで本場のダンスを学び、ミュージカル女優になる。78年、山田が監督した高倉健(77)主演の「幸福の黄色いハンカチ」の日本アカデミー賞受賞パーティーに、ゲストで呼ばれた。のびやかに歌い踊る木の実をみて、山田は思う。踊り子のロマンの物語を作ろう。それを知った高倉が、先回りして木の実に電話してきた。
「健さんは『ナナちゃん、山田組を断るな』と。ヤクザのことかと思った。山田監督のチームのことなのに。私、おっちょこちょいだから、何か間違えて出演をお断りしてしまってはと健さん、心配してくれたの」
国際劇場で踊るシーンの撮影の日。幼いころの夢がかなった。「何だか、するするっと涙が出て、メークさんが『泣いちゃだめですよ』と」
その後、ドラマの仕事もふえた。最近ではNHK連続テレビ小説「瞳」で小料理屋のおかみ役。でも、いまも歌って踊る。「それが趣味。趣味を仕事にしてるなんて、神様、こんなぜいたくなと思いながらね」

人・脈・記 「おーい 寅さん⑦」 朝日新聞掲載より抜粋

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あのタンカ、天下一品(2)

列島のあちこちでテキヤたちと意気投合する。「町から町へ。その日一日だけ、一発勝負をかける渡世」のおもしろさ。あやしげな物売りや見せ物にも「芸」がある。
「たとえば『千里眼』。紙に質問を書かせる。『私はなぜ女にもてないのか』。その紙をロウソクであぶると文字が浮かぶ。『鏡をよく見ろ』とね」
そんな遊びを楽しむ心のゆとり、今のニッポンに大切なんじゃないですか。ラジオの「小沢昭一的こころ」で軽妙に世相を語って今年36年目。
「男はつらいよ」のラストシーン。寅さんは恋に破れ、寂しげに旅に出る。「あんな雲になりてえんだよ」。カバン一つ、ラクダ色の腹巻きに雪駄ばき。放浪アウトローをこよなく愛する小沢には、ことさらジンとくる場面である。

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佐賀に住む北園忠治(80)は、小沢が行脚中に出会った古参のテキヤだ。渥美と同じ昭和3(1928)年生まれ、自称「特攻くずれ」。26歳でバナナのたたき売りを始めた。
〈ヤレー、金波銀波の浪を超え、海原遠き船の旅 艱難辛苦のあかつきに ようやく着いたが門司港〉。七五調に節をつけ、自慢ののどで客を呼ぶ。大卒初任給が月1万円強だった時代に、一日だけで2万円もうけたこともある。
「男はつらいよ」が好きで何度も見た。90年、自分の半生を『香具師〈テキヤ〉はつらいよ』に著し、監督山田洋次(77)に送った。
「寅さんは親分なし子分なしというが、親分なしではこの世界は通用しない。寅さんは本物だけど、テキヤとしては偽物」と手紙に書いた。
山田の返事。「疑問だったことがわかりやすく書かれていてとても勉強になりました」
バナナ売りの役で映画にでてみないかという話もきたが、断った。「わしらは見せる芸じゃない。売るための芸でいきとるんです」
いまも九州の祭りや縁日をめぐる現役だ。
「サァサァ買(こ)った、サァ買った、私のバナちゃん400円」。つい買いたくなる話芸である。

人・脈・記 「おーい 寅さん⑥」 朝日新聞掲載より抜粋

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あのタンカ、天下一品(1)

〈結構毛だらけ猫灰だらけ、お尻のまわりはクソだらけ〉
寅さんのお得意のタンカだ。こんなのもある。〈やけのやんぱち、日焼けのナスビ、色が黒くて食いつきたいが、あたしゃ入れ歯で歯が立たぬ〉
戦後まもなく、ねじり鉢巻きで闇物資をさばくテキヤのお兄さんがいた。渥美清は少年の日、彼らの口上に聞きほれ、ノートに書いて覚えた。テキヤを手伝ったこともある。それが「男はつらいよ」に生きる。

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小沢昭一(79)は81年、「寅次郎紙風船」でテキヤ仲間のカラスの常を演じた。病気見舞いにきた寅さんに「おれが死んだら、あいつを女房にしてやってくれ」。音無美紀子(58)演じる恋女房を託し、あの世へ旅立つ。
テキヤは「舌先三寸」で商う放浪芸だと小沢。「渥美ちゃんのタンカ、天下一品。あの人にかなう人はいませんよ」
その渥美に初めて出会ったのは浅草ストリップ小屋の「百万弗劇場」。小沢は22歳の早大生で、ある踊り子めあてに足しげく通っていた。スポットライトに照らされ、渥美が登場。
「なんと女性を縛りあげる役。実にどうも、度がハズれているというか、タダモノではありませんでした」。のちに同じ役者になり、テレビや映画で共演して仲良くなる。
小沢が放浪芸の魅力にとりつかれるのは30代の末、体をこわして入院してからだ。芝居以外にできる仕事はないか。ベッドで職業別電話帳をめくる。これもダメ、あれもダメ。やっぱりおれには芝居しかない。じゃあ芝居の原点って何なんだ?
「日本の芸能はすべて地べたから出発した。芝居という言葉だって、芝の上で演じるから芝居なんです」。万歳、猿回し、浪花節。みんな旅の空に生きている。時代に流され消えゆく芸の根っこをさぐろうと、カメラを首にさげて旅に出た。

人・脈・記 「おーい 寅さん⑥」 朝日新聞掲載より抜粋

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