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2008年10月

はるみの肩に 歌の神様(2)

長年、公私ともに支えてくれた音楽プロデューサー中村一好が今年4月、自ら命を絶つ。なぜ思いとどまらせることができなかったのか。自問し、悔やみ、泣きぬれた。押しつぶされそうな悲嘆の底で思った。歌い続けよう。「それが彼の遺志を継ぐこと」。力をふり絞り、ステージに戻る。渥美の歌う「男はつらいよ」の主題歌が大好きだ。

〈奮闘努力の甲斐もなく 今日も涙の 今日も涙の日が落ちる 日が落ちる〉

人生は、奮闘努力の甲斐もなく、ではない。聞くたびにじんとしてしまう。「歌の神様」の面影が浮かぶから。

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この歌を作詞したのは星野哲郎(83)。68年、テレビ版「男はつらいよ」が始まる前、テレビディレクター小林俊一(75)から頼まれた。
山口生れの星野は船乗りにあこがれ、高等商船学校へ。卒業して病に倒れ、故郷で長く療養した。プロの作詞家を志し、32歳で上京。売りこみにいっては断られ、落胆して帰る。電車の窓から見た都会の夕暮れ。「夕日がとてもきれいだった。『奮闘努力の甲斐もなく』は私の思いなんです」
星野が書いた詞に山本直純がメロディーをつけた。東京の山の手生まれ、東京芸大で作曲を学ぶ。親友に指揮者の小沢征爾(73)がいる。
「小沢が富士山の頂上なら、おれはすそ野。大衆のために音楽をつくるんだ」
クラシックの世界から飛び出し、チョコレートのCM「大きいことはいいことだ」で茶の間の人気者に。トレードマークは口ひげと黒縁メガネ。長男で作曲家の純ノ助(50)は思い出す。「父は、寅さんそのもの。お人よし、おせっかい、人を笑わせるのが大好き。自分もいつもワハハと笑っていました」
映画の湿っぽいシーンも、山本の音楽が入ればカラッと明るくなった。02年6月、69歳で急逝。出棺のとき、純ノ助は父が愛した「男はつらいよ」を演奏してもらった。

〈奮闘努力の甲斐もなく 今日も涙の 今日も涙の日が落ちる 日が落ちる〉

人・脈・記 「おーい 寅さん④」 朝日新聞掲載より抜粋

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はるみの肩に 歌の神様(1)

台本を読んで都はるみ(60)は目を丸くした。この役、私そのまんまじゃないの?
マドンナになるのは83年の「旅と女と寅次郎」。仕事の忙しさと失恋の痛手から失跡する「演歌の女王」、都はるみ役である。
「じつは京はるみって、私の最初の芸名だったんです。たまたまダンサーに同じ名前の人がいて急きょ、やめたんだけど。山田洋次監督はそれをご存じだったかどうか」
京都の西陣織りの織元の家に生まれ、16歳でデビュー、「アンコ椿は恋の花」が大ヒット。「北の宿から」で日本レコード大賞をとり、歌謡界の頂点にのぼりつめた。
マドンナの声がかかるのは35歳。その前の年に離婚していた。「忙しくて、ぐちゃぐちゃのスケジュール。もう歌手をやめたいと本気で思っていた。ひとりの女として、私の人生はこれていいのかと・・・・・・」

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山田の頭の中にはマドンナに美空ひばりをという案もあったらしい。でも渥美清が都はるみの大ファン。ロケ先の車内でテープをかけ、「惚れちゃったんだヨ」をこぶしをきかせて歌っていた。
その渥美との撮影1ヵ月。はるみの演技がうまくいかなくなると、渥美は冗談をいって気持ちをほぐしてくれた。そうした日々は「私の宝物でした」
映画ができた翌年、「普通のおばさんになります」と芸能界を引退。6年後、「自分には歌しかない」と復帰する。ある日、コンサートに渥美がメッセージをくれた。
「都はるみの左肩には歌の神様が座っている、と。歌いたくないといっても、その神様が背中をポンと押すと歌わざるを得ないようになっている、そう書いてくださったんです」

人・脈・記 「おーい 寅さん④」 朝日新聞掲載より抜粋

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こたつにミカン 葛飾柴又(2)

山田の父は満州鉄道(満鉄)で技師をしていた。山田が東大に入学した年、その父と母が離婚した。「結構つらい思いをした。だって、家庭がなくなっちゃったんだからね」
おちこむ山田を元気づけようと、学生寮の仲間が映画研究会にさそってくれた。松竹に補欠で採用された山田は、大船撮影所で脚本作りを勉強する。ある日、先輩から「家族を入れると落ちつくんだよ」と教えられた。「小津安二郎は全部、その世界でつくっていた。先輩の言葉は、ホームドラマの松竹ならではでした」

かつて柴又の家々は玄関にカギをかけず。開けっ放し。近所の人同士、夕涼みの縁台で将棋を指す。ひとつの家族のようなぬくもり。「そういうふるさとは僕にはなかった」と山田。寅さんのような落ちこぼれでも仲間はずれいにしない下町は「ある意味、理想」だった。
寅さんが帰ってくると、三崎千恵子(87)演ずるおばちゃんは「おなかすいたろう」。きまって芋の煮っころがしをこしらえてやる。冬はこたつにミカン、みんなで肩寄せ合って、よもやま話。そんな団子屋のモデルになったのが「高木屋老舗」だ。帝釈天の参道にあり、店内でいすに座って団子を食べられる。大おかみの石川光子(87)は、早乙女と山田が団子をつまんだ席を覚えている。「亡くなった父は町内会長をしていて、とても世話好きな人でした。早乙女さんともよく世間話をしていたんですよ」
昨年6月、渥美の妻や山田の妻らを招き、食事会をした。「ハナショウブがきれいな季節。うちの裏庭にも咲くの」。また来年も集まれたらいいな、と思っている。

人・脈・記 「おーい 寅さん⑤」 朝日新聞掲載より抜粋

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こたつにミカン 葛飾柴又(1)

「おいちゃん、おばちゃん、元気にしてたかい?」 寅さんが旅からフラリと帰ってくる団子屋は東京の葛飾柴又、帝釈天の参道にある。

「ぼくが山田さんをあそこに連れていったんですよ」 そう話すのは早乙女勝元(76)だ。東京大空襲の記録運動でも知られる作家。「今でこそ、カタいものばかり書くと思われているけど、若いころは青春小説を書いていた。それが次々、映画化されてね」
62年の秋、山田洋次(77)が自宅に訪ねてきた。まだ30代そこそこ、駆け出しの監督時代である。倍賞千恵子(67)主演で、「下町の太陽」を撮ることになったという。
山田は旧満州育ちで、東京の下町の風情を知らなかった。そこで、10代から町工場で働いた早乙女に知恵を借りにきたのだった。打ち合わせが一段落し、息抜きする。早乙女の話。「こっちは大酒飲みだが、あの人はお酒をのまない。それなら草団子でも食べようと」、歩いて10分の帝釈天に山田を案内した。「参道に入ったとたん、山田さんは興味津々。あれが帝釈天との出会いでした」

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それから6年後の68年夏。山田は渥美清の主演でテレビドラマを作ることになった。ふたりを引きあわせたのはテレビディレクター小林俊一(75)。「うんとハネた面白いドラマを」と、山田が仕事場にしていた赤坂の旅館に集まった。
さて、どういう主人公にしよう? 渥美は少年の日にあこがれたテキヤの話をした。聞き覚えた口上を次から次へ披露する。〈粋なねえちゃん、立ションベン〉。その名調子に山田らは大笑いで聞きほれた。
「寅さんは、山田さんが人間渥美を知ることで自然に生れてきたんです」と小林。
旅ガラスの寅さんにも故郷がほしい。どこにしよう。浅草、上野、巣鴨・・・・・。「あそこはどうだろう」。山田が記憶の引き出しからひっぱりだしたのが、葛飾柴又だった。

人・脈・記 「おーい 寅さん⑤」 朝日新聞掲載より抜粋

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下町そだち 私はさくら(2)

80年、賠償は、山田監督の映画「遥かなる山の呼び声」で母親役になった。子役の男の子にロケ先で「これから親子なんだから一緒にお風呂に入ろう」。
恥ずかしそうに服を脱いだのは当時まだ小学生だった吉岡秀隆(38)。翌年、さくらの息子、満男として寅さんファミリーに加わった。
「シャイで、すぐ泣く子」を賠償はヒデと呼び、わが子のようにかわいがる。その吉岡が「ALWAYS 三丁目の夕日」で06年の日本アカデミー賞最優秀男優賞をとった日、思わず目頭が熱くなった。

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さくらを演じた女優がもう一人いる。長山藍子(67)68年10月から半年続いたテレビドラマ「男はつらいよ」に出演した。
テレビの寅さんは最終回でハブにかまれて死んでしまう。シナリオを知った日、「どうしてお兄ちゃんが死んじゃうの?そんな芝居したくない!」。長山は泣いて山田に抗議した。その思いはファンも同じ。抗議の電話がテレビ局に殺到した。寅さんが69年、銀幕によみがえるきっかけとなる。
長山は映画でマドンナにもなっている。シリーズ第6作「望郷編」。寅さんの慕情に気づかない、ほんわかした豆腐屋の娘を演じた。失恋した寅さんは旅に出る。「何か訳があるんじゃないかしら」「別に訳なんて。口先ばっかり調子がよくて、結局、兄はヤクザな人間ですから。まともな暮らしは飽きちゃったんでしょう」。長山と賠償、新旧ふたりのさくらがスクリーンで交わった。

賠償さん、さくらはあなたにとって何でしょう。「長い長い一本のレールのように、みんなであの映画を支えてきたの。最後までさくらを演じられてのは、私の財産」

人・脈・記 「おーい 寅さん③」 朝日新聞掲載より抜粋

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下町そだち 私はさくら(1)

倍賞千恵子(67)のコンサートで「さくらのバラード」を聞いた。しみじみした旋律、「私のお兄ちゃん」というリフレインが胸にしみる。
「『男はつらいよ』ができて何年かして、レコードを出したんですよ。表が『さくらのバラード』、裏面に『寅さんの子守唄』が入っているの」
さくらは額に汗して働き、無鉄砲な寅さんをいつも温かく見守る。印刷工場勤めの夫をいたわり、一人息子をそだてる母でもある。「撮影現場で誰かが『寅さんの恋人はさくらだもんな』みたいなこと、言ってた記憶もありますよ」

賠償はガスタンクが見える東京の下町で育った。学校帰りにガラス工場をのぞくのが好きな少女は、中卒後、松竹歌劇団(SKD)から映画界入り、「下町の太陽」で主演した。
「男はつらいよ」の台本をもらったとき28歳。さて、どう演じよう? 「ふと気がついたら一年で十何本っていう映画を撮ってたわけだから、世間とか社会ってのは、私、よくわかってなかったの」 庶民のモデルは身近に居た。母はなと2歳上の姉節子(69)である。
母は都電の運転手と結婚、6畳と3畳の長屋で和裁の内職をして5人のきょうだいを育てた。姉の赤ちゃんのあやし方、ミシンの踏み方、洗濯物の干し方。「よく観察しました。それと下町で暮らしていたころの私の部分が合体して、さくらをつくりあげていったの」
映画は大ヒット、どこへ行っても「さくらさん」と呼ばれるようになる。でも賠償には「それがしんどくなってきた」ときがあった。さくらから自由になりたい。おでこを出すさくらの髪形がいやで、前髪をばっさり切って監督山田洋次を驚かせる。悩みを渥美清にうちあけた。
「人間、あまり欲ばっちゃあいけないね。いいじゃないですか。役者は役柄で名前を呼ばれているうちが花ですよ」
下積み時代の長い渥美にそういわれ、「ああそうかって楽になったの」

人・脈・記 「おーい 寅さん③」 朝日新聞掲載より抜粋

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ピュアな恋って罪深い(2)

そんな寅さんをいちばんドキドキさせたのは、いしだあゆみ(60)だろう。82年の「寅次郎あじさいの恋」で、夫を亡くし、一人娘を育てる孤独な女性かがりを演じた。
寅さんのやさしさにふれ、一晩共にしてもいいと思う。娘のランドセルを手に、寅さんが寝ている2階へ。ランドセルについた鈴がチリンチリンと鳴る。「寅さん、もう寝たの・・・・」ところが寅さんはタヌキ寝入り。その気になればどうにかなってしまうのに。
大阪で上映されると、酔客が「グズグズせんと、いてまえ」と叫んだ。別の客が「アホ、寅はそういうことはせんのや。それが寅のええとこやないか」。場内、大爆笑。山田がその映画館から聞いた逸話である。
いしだは「それ、よくわかります」という。「プラトニックラブって罪深いと思いません?だって、終わりがないんですもん」

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いしだは高校一年で芸能界入りした。17歳のとき、テレビで共演した森繁久弥(95)から「あゆみはな、一番好きな人と結婚したらだめだよ」と忠告された。「きっと、私が熱い子だったからじゃないですか」
「ブルー・ライトヨコハマ」が大ヒット。萩原健一(58)と結ばれ、別れた。マドンナの声がかかったときは紅白歌合戦と同じくらいうれしかった。でも山田の演技指導には絞られた。寅さんに言い寄るあの場面、一線をこえてもおかしくないのに、なぜ? 「私、男じゃないから分からなかった」。何度もダメ出しされ、「登校拒否」になりかけた。自信がもてないまま映画は完成。ひとりで渋谷の映画館に見にいった。チリンチリンとランドセルの鈴の音・・・。「そのときね、寅さんに悪いことしたって、私、ブワーッと泣きました。一晩限りの遊びよ、と寅さんの心をもてあそんでしまった自分が恥ずかしくなったの」
女優とはこれほど役に没入するものなのか。その場面を、いしだと一緒にもう一度ビデオで見た。「ごめんなさい。やっぱり涙がでちゃって」。いしだは、そっと目頭を押さえた。

人・脈・記 「おーい 寅さん③」 朝日新聞掲載より抜粋

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ピュアな恋って罪深い(1)

どんなにほれても指一本ふれない。ふられて、顔で笑って腹で泣く。「男はるらいよ」の寅さんはいつも忍ぶ恋である。
マドンナの目にどう映ったのか?吉永小百合(63)にたずねた。「えもいわれぬ、というのかしら。そういう抑制された思い、よくわかります」 吉永は72年の「柴又慕情」でマドンナになった。父の反対をおしきり、陶芸家の青年と結婚する歌子の役だ。撮影中、当時27歳の吉永もまた秘めたる愛をはぐくんでいた。恋の相手は15歳上のテレビディレクター岡田太郎(78)。両親に反対されても吉永は思いを貫いた。「あの役は、結婚とか人生とか、将来を不安に思ったりする等身大の女性。違和感なく演じられました」
10代から国民的な大スター。でも仕事漬けの日々に疑問がわく。共演の渥美清が「大自然や悠久の時」へのあこがれを教えてくれた。「アフリカで見た星空のすばらしさを、あの語り口で。感動しました」

寅さんが大好きだ。「自由に羽ばたきたいという思いは誰にもあるんじゃないかしら。明日はどこへ旅するか、汽車に乗って決めるみないなことって、あると思うんですよね」 じゃあ、結婚相手としては? 「思いませんね。私なんか本当に常識的な人間だから」
今年1月公開の「母べえ」で監督山田洋次と久しぶりで組んだ。吉永が演じるヒロイン母べえは戦時中、反戦を唱える夫が囚われの身に。子どもを育てながら、けなげに生きる彼女に、浅野忠信(34)演じる「山ちゃん」がほのかな恋心を抱く。でも実らぬ恋。苦しみ、悩む、「とってもピュア。寅さんと似ていますね」

人・脈・記 「おーい 寅さん③」 朝日新聞掲載より抜粋

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「私は愛していました」 (2)

ドラマの中のリリーは奄美に住んでいる。95年のロケの日、島の人々がホテルで歓迎会をしてくれた。ひとりの少女が島唄を披露する。その美しい歌声に浅丘はおどろいた。翌日、撮影現場でその少女をみかけ、「あんたのテープ、買いに行ったよ」。大女優に声をかけられて仰天したのは当時高校2年だった歌手の元(はじめ)ちとせ(29)。彼女の島唄は「寅次郎紅の花」にも使われた。
町営体育館での上映会。オープニングで自分の名前をみつけた元は「出た、出た!」。同級生と手をとりあって喜んだ。そのロケの最中、浅丘は渥美の異変に気づいた。
「とってもおつらそうなの。『寅さーん!』と抱きついても、以前ならボーンと受け止めでくれたのに、細いんです、すごく。組むのも悪いような気がしました」
渥美はがんにおかされていた。いつもはよく響くあの声もかすれがち。スタッフは誰も知らされていなかったが、「私は思いました。絶対これが最後だわって」。9カ月後の8月4日、渥美は逝く。68歳。

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浅丘の胸のなかで、渥美は寅さんと分かちたく生きている。いまも渥美を語る時、つい「寅さん」といってしまう。男くさくて粋で不良っぽくて。照れ屋で優しくて可愛くて、そしていつも笑わせてくれた。「私は愛していました。ほかのどのマドンナよりも、愛していました」
リリーがいた青い屋根の民家を、南の島の人々は「リリーの家」と呼ぶ。いま住む人はないが、近所の人が雑草をむしり、掃除する。いつしか、こんな伝説も生れた。
テキヤ稼業を引退した寅さんは、この島でいまもリリーと暮らしている。海辺で釣りをする島の子たちに旅の昔話を聞かせている、と。
風の吹くまま気の向くまま。寅さんに思いを寄せる人々をたずねて旅に出よう。

人・脈・記 「おーい 寅さん①」 朝日新聞掲載より抜粋

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「私は愛していました」 (1)

寅さん、わたし、帰ってきたわよ。
浅丘ルリ子(68)は今夏、奄美の加計呂麻(かけろま)島を訪れた。サンゴ礁に囲まれたこの島で95年秋、「男はつらいよ」シリーズ最終作「寅次郎紅の花」のロケをした。渥美清らとすごした日々が相馬灯のように浮かぶ。

浅丘が「寅次郎忘れな草」でさすらいの歌手リリーを初めて演じたのは73年、33歳のときだ。それまでマドンナといえば良家のお嬢さんだったり、貞淑な婦人だったり。監督の山田洋次(77)から最初に示されたのも、北海道の牧場で働く女性という役だった。浅丘は自分の細い手をみせる。「わたし、こんな手をしているんですよ」宝石の似合うその手を山田はじっと見た。しばらくして浅丘に台本が届く。「場末のキャバレーを渡り歩く歌手」に変わっていた。夜汽車の中でひとり、窓の外を見てなく女。勝ち気なようで、家族におくられて出港する漁船を見ながら、寅さんにささやく女。
〈ね、私たちみたいな生活ってさ、普通の人とは違うのよね。あってもなくてもどうでもいいみたいな、つまりさ・・・・・アブクみたいなもんだね〉

浅丘は旧満州で生れた。父は官僚だった。瞳の大きな少女は15歳でデビューする。日活映画の黄金時代、相手役の石原裕次郎や小林旭(69)に恋心を寄せた。
「私ね、いろいろな人に恋をしたの。何遍も恋をして、何遍もふられてみたかったの。燃えるような恋をしたかったの」
30歳で石坂浩二(67)と結婚、のちに離婚。リリー役を4回演じた。寅さんは風来坊だけど、東京の葛飾柴又に、おいちゃん、おばちゃん、妹のさくらたちがいつも待っている。うらやましかった。

人・脈・記 「おーい 寅さん①」 朝日新聞掲載より抜粋

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感性を、とがらせておきたいね(2)

ウン、ボクの子供のころの話ですよ。
同じクラスに、いつも、エンピツの先、とがらせている子がいましてね。シンの先をキレイにとがらせている。で、先生が何か話すと、ス、ス、スとノートに書きこんでいる。いちいち、ノートなんか見ませんよ。顔は、黒板のほうをむけて、先生が何か言うと、ス、と書き込む。ボクなんか、できないから、先生が話すでしょ。それからエンピツとって、見ると、先が折れてたりして、あわてて、小刀でケズる。この違いね。
思いましたね。いつも、エンピツの先は、キレイに、とがらせておかなきゃいけないってね。感性というのかな、精神を、いつも、エンピツの先のように、とがらせておく。で、なんでも見たり聞いたりするたびに、「ウン、そうだ」「ウン、そうだ」と、ピッピッと反応する。大切だと思うな、とくに役者にとってはね。だから、一人でいたんだよ。ま、役者は、虚構の中に生きてるんだな。

一年三百六十五日として、マ、ほとんどウチには帰らない。かと言って、ふつうのサラリーマンにくらべて、女房に対する愛情は、ちっとも変わらない。いや強いんじゃないかとボクは、思ってる。女房を愛していないわけじゃないんだ。独りでアフリカに出かけて、「ああ、女房いまごろどうしてるかな」と、ね、この気分、思いを馳せる、このホロ酔いの気分だなあ、これを大事にしたいねえ。
「寅さん」ね。
ずっと続けたいな。こうなると、お客さんと、作家のモノだからねえ。ボク個人がどうってこと言えないけど、できれば、ながーくやって行きたいね、思い出し思い出し、つくって、一年に一本でもいい、二年に一本でもいい。
だんだん寅さんもトシをとって、ね、ゴーンという。柴又の、題経寺のお寺の鐘も、若いころの寅さんとは、また違ったひびきで、寅さんの耳に聞こえてくるんじゃないかね。ウン。

『きょうも涙の日が落ちる』 渥美清著 株式会社展望社 本体1600円+税より抜粋

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感性を、とがらせておきたいね(1)

遠い外国に旅してるでしょ。ね。あれ不思議なんだなあ。夕方になると、ふと、『東京新聞』の夕刊が読みたくなる。『朝日』でもない、『毎日』でもない。『東京新聞』の夕刊なんだなあ。これわかるでしょ。
これも、手狭な芸能界に生きてる宿命かね。芸能欄の多い『東京新聞』の夕刊が読みたくなる。やはり、町なかのひと、ウン町人、町人なんだな。都会人とは言いませんよ。町人なんだ。

外国で、ホテルでね、そのホテルも、何か白々しい感じでね、部屋、そこらじゅうペンキ塗って、洋服ダンスもペンキなんだな。戸、明けようとしても、上からペンキそのまま塗ってるから、なかなか開かなかったりしてね。陽が落ちる。フウッと窓の外を見ると、向かいのホテルの窓からね、大きなトシとったオバちゃんが、あれは、風呂敷かな、ショールかな、バラバタ、バタバタ、とふってホコリを落としてるんだな。パタパタ、パタパタ。だなって、何度もやってるのね。あんなモノ、元気があれば、二、三度やれば、落ちちゃうものでしょ、それが、そうじゃないんだな。パタパタ、パタパター。ボクは、ジッと見てるんだ。淋しいよね。アテネなんかね、カラカラッと馬車のワダチが聞こえて、「オヨヨ、オヨヨ」「オヨヨ、オヨヨ?」と、何かもの売りの声が聞こえてくる。サミシーもんだね。

あれ、ボクなんか、帰りのヒコーキの切符を持ってるワケでしょ。帰ろうと思えば、スグにでも帰れる。ほんとうに放浪してサ、帰る家のないニンゲンは、あんなとき、泣いたんじゃないかな。旅に出るとね、ふうっと、そんな思いをしまして、ということが役者に大切なことだし、そういう感性ばっかりみたいな人間が、こういう商売にむくんじゃないかって気がするね。感性をとぎすませておくこと、ね。ナマらせちゃいけないね。

『きょうも涙の日が落ちる』 渥美清著 株式会社展望社 本体1600円+税より抜粋

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いつも、ホロ酔いでなけりゃ

ウン、なるべくなら、ボクはイヤな話は聞きたくない。しょっちゅう自分で自分をオダててね。いい気持ちにさせていたいな。もし、それでいけるもんだとしたら、一生、ずーっといい気持ちでね、ヤな話は、なるべくさけたいな。そうでしょ。人前に出る商売ですからね。ヘンにウッ屈して出るとね、見るほうもヤでしょ。ボクが出ればね、そのなかの何人かのひとの、心がなごみ、何人かのひとが、やすらぎをおぼえるーと、こうなりたいんだな。また、そういう自信のある人に、なにかやってもらいたいねえ。
そう。酔っぱらいのフラフラ歩き。これも、自分を操作するわけだけど、いつもホロ酔いの自分というものをキープしておきたい。泥酔じゃダメなんだ。ホロ酔いでね。「さァ、今夜は花見だあ」なんてね。この精神が役者には必要なんじゃないかな。もう泥酔しちゃってね、相手は、聞きたくもないのに「だけどね、だけどね」って、手ばかりが前に出てさ、こういう酔っぱらいじゃ困るんだな。そう、コドモみたいにね。女を見れば「よゥ、ネエちゃんキレイだね」男をみれば「よゥ! 財バツ」なんて声かけてサ、自分もいい気持ちになる。上野なら上野の広小路の街灯の灯りが、ゼンブ、オレのために輝いてる。コレだね。アレ、ホロ酔いは、ドブ落っこちないんだよね。その程度の醒め方。わかるでしょ? こういう気分で、日夜起き臥しできたら、役者はいいですね。こういきたいね。醒めなきゃならないポジションは、またほかにあるんだから、それは、醒めたひとにやってもらってね。

ウン、しかし、そういうイミでは、役者にとって、いまは不遇なご時世じゃないでしょうか。世間がそれを許さない。バカにさせておいてくれない。昔、浅草で演ってた時分にはね、それこそ、身のふるえるような、異常なオジさん役者、オバさん役者がいたもんです。いまは、いない。いたら、ダメにされちゃう。-オレ自分で悲しいところは、税金をね、ちゃんと納めるんだな。納税がイイんだ。税金がいつまでもあって、そのために、イヤな仕事をするのがツライんだよ。だから、まず、最初、税務署へ金を持っていく。税務署がね、奨励金ってものをくれますよ。なに、たいした額じゃない、千いくらかですけどね。「よく納めてくれました」って。-ワレながら、役者としてなさけないンだなあ。ほんとはね、番頭がいて、今年の税金はコレコレです。て言えば「おー、そうかい」ってところで、生きていたいんだけど、ところが、そうはさせてくれないでしょ、現実は。

ホロ酔いにさせてくれないんだなあ。やなご時世です。ね、役者は、何人亭主を持とうが、何人カミさんを持とうが、どこへ泊ろうがイイと思うんだ。そのかわり一度舞台に立つと、もう身のふるえるような、奇妙キテレツな芝居を見せてくれてね「ま、みんなで弁当くいながら見ようや」と、楽しませてくれる。そう思うなあ。けどね、蝶よ花よと、なんとなくウタカタ状態にしとくためにはね、まず役者は、税金納めなきゃならない。ホントは役者から税金なんかとったらいけないンだよ。ね。

『きょうも涙の日が落ちる』 渥美清著 株式会社展望社 本体1600円+税より抜粋

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「俺、元気」という手紙

そうね、オレ、家庭にいるってこと、あんまりないから。仕事場の近所だとか、友だちのウチ、しょっちゅう泊り歩いているでしょ。でも、健康法というか、ちゃんと家庭にいるときは、朝ね、野菜ジュースを呑んでいる。ニンジン、ピーマン、リンゴ、キャベツ。ウン、どうしても野菜が不足しちゃうからね。食い物じゃ、ギョーザ、ラーメンがウマイね。「ウマイな」と思うね。あれ、みんなそう思ってるんじゃないかね。胃ぶくろは小さいんだよ。体重は六十二キロ。そうね、よく寝ますね。八時に寝ちゃって翌日午後三時までねちゃうなんてことあるね。十九時間。こう、よく眠れるってことがさ、幸せだったんじゃないかしら。トコトン神経質になれないという面があるんじゃないかな。
ボクは、どちらかと言うと、坐して書をひもとくよりも、ヒマがあるとトコトコ出かけてね、古い見おとした映画を見てあるくほうだから。マメじゃないんだ。旅先からの手紙もね、「俺、元気」。ウン、この一行だけ。字、あんまり知らないしサ、いちばんカンタンでいいだろうと思って。ウチのおふくろというのが、昔、代用教員やっていたからね、誤字をね、訂正するんだ。手紙だすでしょ。で帰ってみると、赤エンピツで丸買いてて、「これがマチがってる」なんてね「お前の死んだ兄ちゃんは、字、まちがえなかったよ。まちがった字を書くと、それだけで、人間、ダメなんだと思われるから」。でサ「俺、元気」と、必然こうなるワケなんだ。

兄貴は二十五で結核で死んだんです。おふくろ、ボクによく言ってましたよね。「この子だけは、だいじょうぶだ。この子だけは取られない」ってね。何か、自信があったんでしょうねえ。ボクも病気しましてね。ずいぶん変わりましたよ。思想とかそういうんじゃなくて、肉体を維持する燃料がね、エネルギーがちがってきた。夜通し酒呑んで、そのまま舞台に立っちゃうなんてこともあったけど、いまは、酒もタバコもやらない。
二十五のときでしたね。退院して、そのころ浅草に、親切にしてもらってた踊り子が何人いましてね、ボクが病気になって、いちどザセツしたわけでしょ。で、易者にボメさせて力づけてやろうと思ったんだね。当時、どこだったかな、神田あたりに、とてもよく当たる易者がいるって言うんだな。「渥美チャン、そこ行って見てもらいなさいよ。きっと成功するっていってくれるわよ。ほんとによく当たるんだから・・・」って連れて行ってくれたんです。ところが、その易者、ジッとオレの人相を見て「あなたは役者にはむかない。この道だけはむかない」と言うんだな。ボクは、信じませんでしたけどね。でもね、わざわざ、ボクを連れていってくれた踊り子さんが、可哀相だったな。見ると、困った顔をしてるんだな。ボクを元気づけるために連れてきたワケでしょ。気の毒なことをしちゃったなあ、といまでも思い出しますね。

『きょうも涙の日が落ちる』 渥美清著 株式会社展望社 本体1600円+税より抜粋

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寅さんという男とボク(2)

狂って演ってますからね。あれは、やはり、ワンカット、ワンカット狂った状態に自分をもっていって演ってる。こう、熱気が伝わってくるでしょ。どこか、ほんまもんのところがある。またそれを出すためには、狂わなきゃやれない。こう、年寄りがいろりばたに坐って来し方行く末を、ゆっくり語っているのとは違うんだ。ね、映画観ててもわかるでしょ。寅がね「エ、何か言った?」「エ、またおれのこと何か言ってたな」なんてね、コンプレックスの入りまじった、それでいてオレは田舎者じゃない、「こっちは町っコよッ」という、あの狂ったような言葉のやりとり。芝居だけというダンドリじゃ、できないんだな。

池ン中に泳いでいるコイはね、たとえどんな不器量なコイでも、コイでなくちゃダメなんだ。モグラだったら、池ン中に長い間、漬けられてたらダメなんだよ。だから、やはりオレん中にも、車寅次郎の中にも、同じ魚類であるという、同性質な、逃げることのできないものがある。オレは、けして、鳥ではないモグラでもない、ジャボンと池につけられて初めて、ピラピラピラ泳いでいる魚なんだよね。けして、鳥が魚を演じているんじゃないんだね。やはり、魚が魚を演じているという、スゴさはあるんじゃないかねえ。もっとも、ボクの場合は、渥美清を観るんじゃなくて、山田洋次を観ているんだねえ。映画を観に行くと。
演出のスゴサ、ボクはやはり山田洋次という監督を観ちゃうんですね。山田洋次にウナらされて、ね、たくみに、こう人形を使ってる、というカンジだな。
シリーズですからね。むつかしいですよね。だから、どっかで、お客さんに対して優しさがないと、いけないんだよね。思いやりって言うのかね、ウン、期待に応えるというのかな。

『きょうも涙の日が落ちる』 渥美清著 株式会社展望社 本体1600円+税より抜粋

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寅さんという男とボク(1)

ウン、そうね。一本映画を撮ると、いろんなひとからファン・レターというのか、手紙をもらいますね。「まあ、私の話を聞いてくださいー」と、自分のことを書いてくる。ひと、それぞれが人生を持っているんだな。
わりとね、ウチで、ジッと坐って仕事をしているひとからの手紙が多いね。昔風にいうと坐業というやつ、そう、ハンコ屋さんとか、洋服屋さん。精神が、セッタをはいて、半ソデのダボシャツなんか着てさ、そういうひとたちって、どこか寅さんに似ているんじゃない? 発想が。昼まっから電気つけて一日仕事をやってさ、フッと気づいて外を見るてえと、夕方になっちゃってたとか・・・精神が、こう、江戸川の堤を、ツーと走っているひとでしょうね。そういうひとから、手紙がくるんです。長い手紙で、二十枚くらいね。これは、ボクの解釈だけど、けっして、こう、部屋の中に熱帯樹なんかあって、サンサンと太陽があたっている、というウチには住んでいない人・・・成城学園や田園調布の住人じゃないやね。ボクなんか、思ってることをペラペラしゃべっちゃうほうだけど、どうなのかな、ボクに長い手紙書いてくれるひとって、あまりしゃべらない無口なおじさんじゃないかなあ。内容もね、今は、こうしているけれど、十いくつのとき炭坑入って、朝から丸太ン棒でなぐられて苦労したとか、ね、苦労話が多いなあ。如何に自分は義侠心に富んだ人間であるとか、メンメンと書いてくるワケ。ひとに金かして、大変な負債をしょって、おまけに女房はアイソつかして逃げた。で「いまは一人よ」なんていきがっているひと。利用されたひとですよね。ま、オロカなひと。でも寅ちゃんの次元から見ると「イイやつ」なんだな。ウン、そんなひとが多いみたい。

なぜウケたのか。そうね。やっぱりホッとするんじゃないかな。あれ観ると、ね、大なり小なり、思いあたるフシがあるんじゃない? ひとには言えないけれども、寅さんみてると「ウン、そうだ、こういうこと、オレにもあったなあ」みたいな、ね。
どうかな、寅さんって男、ボクに似てるかな。ウーン、ある、と思いますね。でも、あの通り全部じゃない。あの通りだと性格破たん者、生活破たん者だよね。だから、演るとき、ギリギリの線で演ってる。まあ、もし、ボクは役者という商売がなかったら、具合のワルイ人物になっていたと思うな。そう、寅さんみたいな。その、ヘンな自信みたいなものはある。だから、ボクにとってはウマイなりわいがあったということですよね。

『きょうも涙の日が落ちる』 渥美清著 株式会社展望社 本体1600円+税より抜粋

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毛並みの悪さは天下一品

ただ一つ、ちょっと気になることが、いまだにあるんですが、それは、この渥美清という名前です。ぼくは本名は、田所康雄。ところがね、この田所とか、康雄ってのが、ぼくはきらいだったんです。もの心ついてから、田所さん、なんて呼ばれたときには、いいことはいっぺんもなかったんです。
おやじが慢性胃腸病だった、それていつも、おやじの代わりにくすりをもらいに行ったんですが、そうすると、田所さん、です。それから小学校二年までで、三年と四年は行ってないんです。これは、関節炎でもって、休んだからですが、それで五年の終わりから、六年といって、卒業したんです。そのあいだ、やっぱり病院へいって、しょちゅう包帯交換、すると田所さん、です。
すこしよくなって、学校へいく。すると田所たってろ、いましゃべったの田所だろう。とにかく田所では、いいことは一つもないんです。だから、なにかもう一つ化けられたら、もう一つ名前があったら、という願いが、ずっと心の底にあったのです。
あれは十七か十八の頃でした。こたつの中で、小説本を読んでいたんです。するとそのなかの人物に、渥美悦郎っていう名前があったんです。字づらが綺麗なんですよ。いい名前だなあ、とおもったんです。ほくは下町育ちだから、いつもヤスベエとか、ヤッチンなんていわれていたでしょう。エッチャンなんていわれたいなあ。という願望が、心の底にあるんですよ。小説のなかのエッチャンという人はきっと、山の手のいい家のぼっちゃんにちがいない、石ケンのいいにおいがして、こうトックリの白いセーターなんか着ているんじゃないか、そういう感じなんでしょう。

役者をやりはじめたときに、座長が、それで芸名なんにする、田所康雄、語呂わるいなあ、なんかないかい、といわれて、渥美悦郎、と紙に書いて渡したんです。ストリップショー全盛で、そのあい間にやるちょっとした芝居ですから、座長が、はじまるまえに幕の外へでて、ただいまより、何とか何とか一幕六景を開演いたします、なんで読み上げるんです。そして役どころと役者の名を、順々に読んでいって、渥美・・・・、渥美ときて、つっかえたんです。悦郎という名が、読みにくかったんでしょう。そこで、渥美ともう一度言い直して、清、とつづけたんです。渥美清。
あとで座長のところへいって、ぼくは清じゃありませんよ、悦郎です、といっても、悦郎なんて語呂がわるいよ、清がいい、そうしちゃったんだから、そうしとけ。それ以来、渥美清なんです。とうとう、このぶんじゃあ一生、エッチャンにはなれそうにありません。いまだに、なりたい気持ちはあるんですがねえ。

しかし、もうぼくも四十ですから、毛並みがいい、なんてことをきいても、おどろかなくなりました。というより、毛並みのわるいものの強さみたいな、負け惜しみでなく、そういうものが出てきたとおもうんです。つまり、若いころは、毛並みがいい、なんていわれると、とってもかなわないな、という気がしたものですが、いまとなると、それがなんだと、それがどうしたと、居直っているみたいなところがありますね。

『きょうも涙の日が落ちる』 渥美清著 株式会社展望社 本体1600円+税より抜粋

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生きることがつらい人に

仏教は本来、「家内安全、お願いします」 「商売繁盛、頼みます」といった、先行きの幸運を願う宗教ではない。家内が安全でなく、商売も繁盛せず、「生きていくのがつらい」と感じている、そういう人のために仏教はある。
釈迦の時代、出家して弟子になった人の多くは、「生きる苦しみ」に疲れ、もうどうにも行き場所のなくなった人たちだった。普通なら、生きるのをやめてしまうところだ。それを仏教は救う。「住み慣れた日常社会の決まり事で生きていこうと思うから行き詰るのだ。一度それを全部捨てて、出家せよ。そこには、普通の人が望むような世俗の幸せはないが、その代わり、苦しみを離れた平安の日々がある。さあどっちにする。死ぬか、出家するか」と、こういう厳しい問いかけをする宗教だった。長い歴史の中、自殺するのをやめて仏教で再出発した人の数は膨大なものに違いない。

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バブル経済の夢が覚め、「生きていくのがつらい」と感じる人が増えている。大望を抱いて未来に馳せのぼるはずの若者たちが、ネットカフェで切ない夜をすごしているのは、胸痛む光景だ。
しかし、自分が苦しい目に遭った人は、他人の苦しみも理解できるようになる。つらい思いをしている人は、自分でも気付かないうちに、その分、人間性が磨かれているのだ。そういう人たちが大勢になって初めて、社会も、すこやかなものとなる。そう思えば、今、苦しい状況にある若者たちは、これからの日本にとっての貴重な人材ではないか。

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現代の若者に、「生きることに苦しみを感じたら、出家して僧侶になれ」などと極端なことは言わないが、その「生の苦しみ」こそが、智慧と慈愛を生み、満足できる人生の、大切な栄養分になるという釈迦の教えは、知っていてもらいたい。そして仏教界の人たちには、時代の波の中で苦悩する若者たちの気持ちを理解し、彼らを大切に見守り応援していって欲しい。仏教はいつの世でも「慈悲の器」なのだから。

『日々是修行』  花園大学教授 佐々木 閑 朝日新聞掲載より抜粋

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落日の瞬間 おやじは行った(2)

最後の要素に「柳田国男体験」があります。柳田の仕事の一つに日本各地に日本各地に伝えられた子守唄を分析したものがありますが、その中に「親のない子は夕日をおがむ。親は夕日の真ん中に」という唄があります。親に先立たれた子供が家路をたどる時、夕日に亡き親のイメージをさぐる。ある意味、これは子にとって普遍的な体験であり、その普遍性を、柳田は何げなく引用している。そのことがとても印象的だったんです。

初めて降り立った佐渡島は、実に豊かな印象でしたよ。日蓮や世阿弥も流された島だから「流人の島」として語られがちですが、海の幸も稲も採れるとても豊かな島です。だから日蓮はあの島で傑作「開目抄」を書きあげられたのではないかなあ。
路線バスで夕日の名所と言われる海岸を目指し、海岸でその時を待っていたら、光の橋がすーっと海上を走っていくんですね。素晴らしい光景でした。その沈みゆく太陽とともにおやじの魂は空中を飛び、落日した瞬間に「行ったな」という感覚がありました。その時私は浄土の「実在」を信じていたわけではないけれど、日本人の浄土観のDNA]なんでしょうね。

ある研究者が継続的に実施した小・中学生の意識調査で「落日を見たことがあるか」と言う質問に対し「ない」という回答が増えているそうです。その研究者によると、ビルが多いとかいうことじゃない。実際は落日の光景を見ているけれど、記憶に残っていない。夕日を見ても、感動してないってことのようです。実に残念なことですよねえ。

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昨今はよく新聞を読んでのんびり過ごす。しかし「『後期高齢者』ですからね」と豪快に笑い、さっそうと歩き去る姿は、かくしゃくそのものだった。

「追憶の風景」 佐渡(新潟県) 宗教学者 山折哲雄 朝日新聞 掲載より抜粋

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落日の瞬間 おやじは行った(1)

もう30年以上前のことです。おやじの魂を送ろうと思い立ち、新潟県の佐渡島に夕日を見に行きました。岩手の実家で、おやじの四十九日法要の最中に思いついて。その翌日か翌々日には、もう出発していました。
なぜ夕日だったのか。そこには三つの要因が重なっていたように思います。一つ目は最も素朴な体験で、日本海岸を旅した時に、車窓から眺めた日本海に沈む夕日の美しさを記憶していたこと。そして二つ目は、私は浄土真宗の末寺の出身ですから、親鸞の著作に親しんでいたことでしょう。
親鸞の「教行信証」や「三帖和讃」といった主著には、越後に流された時の体験がにじみ出る文章がでてきます。毎日のように日本海に沈む夕日の美しさに触れていた。ですから海に関する言葉には印象深いものがありました。

親鸞は「人間は阿弥陀如来の救済力によって西方浄土に往生するのだ」という浄土思想を説き続けた人です。しかしその西方浄土とは一体どこなのか。インド人が考えた浄土思想は「西方十万億土」のかなたに存在する、というものです。太陽が沈む西の方角が人生の終焉を象徴するという思想は普遍的なものであり、どんな宗教にもある。ですが「十万億土」という途方もないかなたはどこなのか。インド人は抽象的な数字の世界を考え続けてきた民族ですが、日本人は浄土思想を受け入れても、この「数」の世界になじめない。ですから山上や、海上のかなた、夕日が沈む方向といった自然の景観の中に浄土をイメージしたのではないか。そして親鸞もまた、越後での体験が重なって、独自の「海上浄土観」を作り上げたのではないか。著作に触れるうちに、私はそう確信を深めました。

「追憶の風景」 佐渡(新潟県) 宗教学者 山折哲雄 朝日新聞 掲載より抜粋

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日本人の乾いた心耕そう

戦後の日本の歩みを一言でいえば、干からびていったということじゃないか。今の若者を見ていると、すっかり表情を失っている気がするね。家族でも会話が少なくなっている。人間の精神に大きな干潟ができ、それが乾いてひび割れてきているようだ。高度経済成長期のカラーテレビに始まって、ワープロ、パソコン、携帯電話・・・・。便利なものは良いという価値観にどんどん染まったが、その中で殺されていったものもたくさんあるわな。無差別殺人や、親殺しがあちこちで起きている。便利さと引き換えに、豊かな表情や会話を醸し出す心のゆとりを失ってきたということやないかな。
戦後63年、日本は大変なところに行き着いてしまったと違いますか。

思い出すのは、戦後50年の年にあった阪神大震災。寝室で洋服ダンスが倒れてきた。頭の位置がほんの3、4㌢ずれていたら、死んでいただろう。この震災で心の傷を受けた遺児らを支える施設をつくるという案が持ち上がり、共感して全国に支援を呼びかけた。寄付が寄せられ、震災のちょうど4年後に「浜風の家」を兵庫県芦屋市に開くことができた。木造のログハウス風の建物で、今でも一ヶ月に400~500人の子どもたちが出入りしている。始めてみると、遺児だけではなく、不登校児もやって来るようになってね。お弁当を持ってきて、年上や年下の子どもやおじいさんと話しているうちに元気になって、やがて学校に帰っていく。子どもたちも自分で何とかしようと一生懸命、模索しているという事なんだろうね。
そんな姿も見てきて、干からびた精神がそのままおわってしまうことはない。と僕は思っている。これまでに重さ1.5トンになる分量の原稿用紙に文章を書いてきた。ワープロやパソコンは使わず、すべて手書きでね。その方が人と違う発想が生まれてくる気がする。実際、エッセーの審査をしていても、手書きの原稿は読みづらいが、何故か、読ませる内容が多いんだ。今の時代に思いがけないアナログ名表現こそ、新しい可能性が隠れていると思うね。たとえば、点字という手段はどうか。点字作文コンクールの審査委員長をしているが、目の不自由な方たちが深い視点をもって文章を書いていることに気づかされる。点字が一般にもっと普及して、健常者の表現活動にも使われるようになってきたらいいな。目の不自由な人たちにも何かを伝えたいという思いが広がり、うるおいを取り戻していけるんと違うかな。
今後10年ぐらいかけてじっくりやらないといけないのは、日本人の乾いた心を耕していくことでしょう。意外と、そこから新しい文化が生まれてくるかもわからんね。

あしたを考える 『夏に語る』 作家 藤本 義一さん(75) 朝日新聞掲載より 抜粋

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闇市の自由僕は解き放たれた(2)

警察の張り込みに注意しながら、値段表を持ってあちこちの闇市に知らせていく。足が速かったから、金を稼ぐのに一番いいと自分で考えた。あちこち走り回り、学校には行っていなかった。最年少の連絡員だったろうが、もらえる金には差はなかった。闇市というのは平等なところだった。

あの戦争がなければ、きっと父の質屋を継いでいたんだろうな。でも、そんな秩序はぶち壊された。戦後は一人ひとりが生きる目的をいかに持つか、それが問われるようになった。僕は大学生のころ、脚本の応募に夢中になった。そして、東京五輪の翌年に始まったテレビ番組「11PM」の司会をしながら小説に打ち込んだ。国会図書館には約300の著書が登録されている。
どこにでも自分で足を運んで、調べ抜いて書くのが好きだ。直木賞を取った「鬼の詩」の主人公は上方落語家の桂馬喬。明治時代に実在した二代目桂米喬がモデルだ。ただ一人、彼を見たことがあるという神戸に住む橋ノ円都さんという古老の落語家を何度もたずねて、酒を飲みながらいろいろ教えてもらった。大阪のスリの一家に入り込んで、取材をしたこともあったな。
組織に頼らず自由業でやってこられた原点はやはり、あの闇市の時代を生き抜いた体験にあるんやと思う。

あしたを考える 『夏に語る』 作家 藤本 義一さん(75) 朝日新聞掲載より 抜粋

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闇市の自由僕は解き放たれた(1)

「象形文字みたいやな」。大阪大空襲のあった1945(昭和20)年の春、自宅のあった堺市から父の質屋のあった大阪市内に出てきて、転がっている死体を見ながらそう思った。曲がるわけのない角度に曲がりくねった腕、真っ黒だから男か女かもわからん。でも、怖くはないんだ。怖いという感情を持つには、心のどこかにゆとりがいるん違うかな。人間それすら失わせていたのがあの戦争だったということか。

当時、12歳だった僕の体重は26㌔。さつまいもやカボチャばかり食べていた。一番太っていた友だちでも30㌔だから、特別な子どもやなかったね。みんなやせ細っていた。学校の先生からは「日本はすごい」とおしえられていて、飛行機の操縦士になろうと、こっそり養成所に応募していた。でも、空襲で試験もなくなり、その目標すら消えてしまったけどね。父は空襲で店がなくなったのに、朝から黙々と、質草を管理するのに使う、こよりばかり一生懸命作っている。話しかけても反応が返ってこない。今で言う、うつ病でしょうね。丁稚奉公から積み上げてやっと持った店をなくし、頼るところもない。結核もわずらい、食も細くて拒食症にもなっていたのか。姉は挺身隊に行って、家で父母と3人。一緒にいるのにだれも口をきかないんだ。まるで無人のような家になっていた。
父の状態は良くならず、終戦後に療養所に入った。今度は母が占領軍の車にはねられて頭を打って入院した。独りぼっちになり、闇市で「レポ」と呼ばれていた連絡員になって、親の治療費や生活費を稼いだ。大阪市に40ヵ所ほどの闇市があって、朝6時に真っ先に「ヒロポン」と呼ばれていた覚せい剤の値段が決まる。これを基準にフライまんじゅうや焼きイモの値段が決まっていた。

あしたを考える 『夏に語る』 作家 藤本 義一さん(75) 朝日新聞掲載より 抜粋

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力なき者が力強き者を制する「日本的勝負」の理想(2)・・・・山折哲雄

ところがその一方で、彼の『七人の侍』という作品になると、戦い方が一転して「サッカー的」になる。この作品は、強奪をはたらく野武士の集団から村を守るために雇われた七人の侍が、村人に竹槍の使い方を教え、一緒に戦うというストーリーです。こうした集団的な戦いと、一対一での戦いという両方の型を考えていたところが、黒澤明という人物のスケールの大きさだと思いますね。

しかしながら、どちらの型がわれわれの心をくすぐるかというと、やはり『用心棒』のほうではないでしょうか。『七人の侍』でも、最後は村人が七人の侍とともに戦い、野武士どもをやっつけるというところに、やはり力なき者が力強き者に勝つ、というパターンがみてとれるんです。

おそらくこれが、日本的勝負における一つの理想的な型なのでしょう。それが野球にも相撲にも、柔道にも通じている。ところが最近になって、そうした伝統的な型とはまるで違うものとして、サッカーが台頭してきたという感じを私などはもっているのですが・・・・。

「哀しみ」を語りつぐ日本人 斉藤孝・山折哲雄著 PHP研究所 本体1300円より抜粋

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力なき者が力強き者を制する「日本的勝負」の理想(1)・・・・山折哲雄

おそらく日本人には、一対一の対決というのを好む傾向があると思うんですね。集団的な戦争、集団的な戦いということが存在しなかったというわけではもちろんないのだけれども、とちらかというと一対一の対決に血が騒ぐタイプが多い。たとえば故・黒澤明監督の映画『用心棒』・・・・・。

この作品のストーリーはご存じのとおり、三船敏郎扮する浪人・桑畑三十郎が、清兵衛一家と丑寅一味という、二組のヤクザが対立する宿場町を訪れたところから始まります。そして、三十郎はその二組を巧みに戦わせ、町の大掃除をしようとする。
彼が対決するのは、仲代達也扮する丑寅一味の親分の弟・卯之助。
最後の決戦の日、三十郎は出刃包丁を手にして、ピストルを持つ卯之助に挑む。二人の戦いは、五十メートルぐらい離れたところで睨み合うところから始まります。
しかしどう考えても、出刃包丁とピストルでは、はじめからピストルのほうが優勢ですね。ところが三十郎は、卯之助と睨み合いながら、じり、じりと間合いを詰めていく。相手にピストルの引き金をひく隙を与えないよう、緊迫した空気を高めながらにじり寄っていく。
そうなると、卯之助もその緊張感に引きずられて隙が見出せない、金縛りにあったように退くに退けなくなってしまう。その心理戦をうまく利用して三十郎はぎりぎりの間合いにまで近づき、一気に卯之助の懐に飛び込んで彼を倒す。

『用心棒』は、出刃包丁がピストルを制するというみごとなストーリー展開で唸らせる。いうなれば、短刀の文化とピストルの文化の違いというものを前提にして、短刀の文化のほうに軍配を上げているというわけです。

それに対して、アメリカの西部劇というのは、二人の主人公が決闘をするときに、だいたいのところ双方とも同じ条件のもとにピストルを同時に撃ち合うわけですね。そして腕と運に勝るほうが勝ち残る。これはまさに、お互いに平等の条件を設定して行われる格闘技だといっていい。

でも日本の時代劇の場合、やはり弱い存在、あるいは力なき者が力強き者を倒すプロセスを喜ぶ。というところがありますね。相撲でも柔道でも、体の小さい選手が、体の大きな選手を倒すところに、われわれは喜びを感じる。
思うに、黒澤監督は『用心棒』で、こうした二つの文化の型を対決させつつ、それとなく日本文化の優位性を主張したのではないかという気がするんですね。

「哀しみ」を語りつぐ日本人 斉藤孝・山折哲雄著 PHP研究所 本体1300円より抜粋

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千葉周作の剣が弟子を三千人集めたわけとは・・・・・山折哲雄

なるほど、地政学的な観点からいってもですね、日本列島の風土的な環境は、合理的な物の考え方をすることに適していたと思いますね。日本人の民族性も、この合理性(私はとくにそれを儒教的な合理性と考えたいんですが)によってつくりあげられていると感じます。

たとえば、武道における剣の達人でいえば千葉周作でしょうか。宮本武蔵や塚原卜伝(ぼくでん)など、江戸近世から明治にかけて名だたる剣士がたくさんいたわけですね。けれどもそのなかで、いちばん成功した剣の達人が、千葉周作だと思うんです。
千葉周作は、江戸のお玉ヶ池に道場をつくり、そこは「弟子三千人」といわれるまで大繁盛しました。なぜ彼の剣は、弟子を三千人も集めるほどの人気を得たのか。これについては、司馬遼太郎さんが「北斗の人」でいっているんですが、それは彼の剣が合理的な剣だったからだ・・・・・・・・。
千葉周作は、短い期間で相手に勝てる技術を弟子たちに教えることができたというわけです。おそらく、それが人気のもとだったのでしょう。

もっとも、日本人が伝統的に好むのはやはり、ひたすら自己の内面と闘い自分の道を模索しつづける、そういう武蔵の剣のほうなのですがね。(笑)

「哀しみ」を語りつぐ日本人 斉藤孝・山折哲雄著 PHP研究所 本体1300円より抜粋

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「もらい泣き」の共感構造ー一青窈・・・・齊藤孝

昨年十月に発売されたデビュー曲の「もらい泣き」が大ヒットした一青窈(ひととよう)という歌手がいます。彼女は台湾人と日本人のハーフで、小学校二年生のときに父親を、高校二年生のときに母親をなくしたといいます。

ええいああ 君からもらい泣き
 ほろりほろり ふたりぼっち
  ええいああ 僕にももらい泣き
   やさしい、のは 誰です。

(一青窈作詞 溝渕大智・マシコタツロウ・武部聡志作曲「もらい泣き」)

私は以前、この曲を何十回となくリピートして聴いたことがありますして・・・・・・・・。そうすると、「ええいああ」という彼女の歌の世界が、そのまま心に染み込んでくるんですね。例えば、私たちが何か感動的なシチュレーションに直面してもなお、ぎりぎりのところで我慢して涙をこらえているとします。しかし面と向かっている相手が泣いてしまうと、一瞬にしてその緊張が破れ、こちらも泣いてしまう・・・・・「もらい泣き」の深層には、そんな共感構造があるのではないでしょうか。

この曲自体、何となく民謡調にも聞こえるんですが、全体の雰囲気としては、日本風とは違った感じがします。いや、日本風とは違うというより、いまの流行りの音楽とはちょっと違うな、といったほうがいいかもしれません。
また彼女のステージ上の姿をテレビで観たことがあるのですが、彼女は何と裸足でしゃがんで歌っているんですね。「もらい泣き」という、ほとんど死語に近い言葉にしろ、素足で歌う姿にしろ、彼女はかなり不思議な感じのする女性です。何か、いまの日本人が失いつつある身体感覚というか、そういったものを彼女はもっているような気がしますね。
いずれにせよ、こうした曲がヒットする土壌がまだ日本にあったのか、と思うと、なにか安心してしまうのは私だけではないはずです。

「哀しみ」を語りつぐ日本人 斉藤孝・山折哲雄著 PHP研究所 本体1300円より抜粋

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悩む心 駆り立てた海(2)

タレント 萩本欽一

この時、プロデューサーたちの言う通りにするのではなく、自分が思うようにやってみようと思った。いろいろな注文をすべてやろうとしたのが失敗の原因。たいした商品もない店のくせに、デパートのフリしてた。それからは、僕にはこれしかありません、それでもよかったらお持ちください、と考えを変えた。そのひとつを、もっといい商品にすればいいんだと気付いた。その後しばらくして、もう一度熱海に行った。それも自殺の名所・錦ヶ浦。成功してしばらくたった30歳ちょっとだね。いろいろ重なって週刊誌に「コンビ解散」とか「義理も人情もないヤツ」とか書かれ、がんじがらめになってた。「このヤロー、死んでやる」とある夜、新幹線に飛び乗った。

真っ暗な中で、バーン、ザバーンと、岸壁に砕け散る波の音だけが聞こえる。「オイ!」「コラッ!」と、なぜか2文字で、しかられているようだった。「そうは言ったってさ」。ゴニョゴニョつぶやくうちに、「おれが死ぬと、何人なくかな」と思った。お母さんでしょ、フジテレビの常田さん(プロデューサー)でしょ、と指を折っていたら、女性ばかり7人。彼女たちが涙を流すのはたまらなかった。
そしたら急に、「タクシーの運転手さん、待たせ過ぎたな」とか思ってね。割と早かったですね。立ち直るのが。この間、7分くらい。
僕ね、「あまり気にするのはやめよう」とは絶対に思わない。北京五輪で野球見てたら、監督以下「切り替えて行こう」って何度か言ってたけど、僕は野球の時も選手に「失敗をすべて背負い込め」と言う。今までのことをすっかり忘れてはダメ。つらい思いを受け止めて、もう限界だと思う頃、運はその分大きくなって返ってくる。僕は風景に教えられた。いや、正確に言うと、「怒られました」。机のコント、今も、なぜ机だったのかは謎。波でも船でもなく。あれがまさか、大ヒットになるとは。「運」ですね。

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語り口はどこまでも滑らか、相手を楽しませようとするエンターテイナーの真髄を見た気がした。

「追憶の風景」 熱海(静岡県)  朝日新聞掲載より抜粋

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悩む心 駆り立てた海(1)

タレント 萩本欽一
風景が人生にぶち当たったとでもいうのでしょうか、それが熱海でしたね。あれは24から25歳にかけて。
テレビで大コケしちゃって。公開放送番組で19回、NGを出した。放送終了後と、お客さんが帰ってからも撮り直し、翌日また撮ったけどダメ。結局は降板。
テレビ活動を始めたばかり、これからっていう時に出ばなをくじかれた。もうテレビなんて出来ない、悲しいよーとか嘆いていたら、友達が「熱海はいいよ!」って。疲れた心を癒すのにはもってこいだと言うので、「熱海つるやホテル」に住み込んだ。クラブで夜8時と10時にステージを2回。昼間は暇だから、ひたすら海を見ていた。「ケッ、海輝いてら」。でもオレ、くすんでいる。向こうはうねっているのに、オレ沈んでる。波は押し寄せてくるのに、押し出されちゃったよー。悪い方へ悪い方へと考えるわけ。
「海は広いな、大きいなー♪」というけど、確かにどう考えても相手はデカい。かなわない。はり倒された気分。2カ月やってて、もうこれ以上落ちこめないって時に、サーッと海の向こうから机がやってきた。四つの脚が取れててさ。それがコント55号のコント「机」のっきかけ。波の音が「帰れー」と聞こえて、追われるように浅草に帰った翌日ですよ、坂上二郎さんから誘いの電話が来たのは! 海は最後にお土産を持たせてくれたの。

「追憶の風景」 熱海(静岡県)  朝日新聞掲載より抜粋

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『悩みのレッスン』 社会の闇が怖い

東京都 高校生 女性(17)
「ゆがんだ若者」 「閉塞する日本社会」と、ここ数年言われています。ニュースで無差別殺人や自殺の問題が報道される機会も増えました。
私の学校では、夏休みに新聞を読んで感想を書く課題が出ましたが、事件の記事などを読むと気持ち悪くなって、しばらく立ち直れません。クラスでは友達と一緒に「もう日本はダメだね」と笑っていますが、そうやって話のネタにでもしないと、自分の心が社会の闇にのみ込まれていきそうなんです。私たちはこれからどうやって生きていけばいいのでしょうか。この社会をどうとらえ、どのような考えを持てばいいのでしょうか。

感覚を語る言葉を育てて  哲学者 永井均さん
冷静かつ客観的に考えてみると、事態はその逆かもしれない。解決すべきさまざまな問題はあるとはいえ、歴史的に見ても地理的に見ても、今日の日本ほど安全で快適な人間生活が保証されている社会は稀でしょう。私たちはなんて運がいいのだろう、と感嘆したっていいほどです。
ではなぜ、こんな意見があまり聞かれないかといえば、こんな「能天気な」意見にはなんの言説価値もないからでしょう。無差別殺傷事件のような、めったに起きない異常な事件が起きると、多くの識者がそれが日本のげんじょうを「象徴」する出来事であるかのように語り、穿った診断を提示します。
しかし、実のところそうした事件は何の「象徴」でもない。単に例外的な出来事であるにすぎない場合も多のです。ではなぜ、そのような言説が多く語られるかといえば、そういう言説には商品価値がある(露骨に言えば「売れる」)からです。そういう種類の「社会の闇」のことも、よく知っておく必要があります。
それでもなお、あなた自身が「社会の闇」にのみ込まれそうだと本当に感じるのであれば、マスコミで作られた決まり文句に頼って、曖昧な感覚に身を委ねていては駄目です。その感覚を語る、あなた(がた)自身の新鮮で精確な言葉を、自ら育てていく努力をしないと、人間が作り出していく闇を明るくできるのは、それを内側から精確に語り出す言語の力だけです。

『悩みのレッスン』 朝日新聞掲載より 抜粋

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ほっと、ひと息!

鷺草(さぎそう)

Rimg0005web  ・蘭(らん)科。                        
    Habenaria : ミズトンボ属      
   ・鷺が羽根をひろげたような形の花。      
  爽やかな夏の花です。                  
・東京都世田谷区の区の花。             
  戦国時代の世田谷城で、助けを求める姫君が手紙をサギに託すが、 サギは途中で射落とされ、その落ちた跡にこの花が咲いたという。 
・8月21日の誕生花(鷺草)            
・花言葉は「芯の強さ」(鷺草)         

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