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2008年9月

読む落語の可能性と魅力 『新版圓生古典落語3』鑑賞(2)

私はテレビやラジオでしか圓生師匠に接していないと思う。しかし写真をみてなつかしく、この本を読んで耳もとで聴く気になるのだが、そういう故人の記憶のよすがを持たないひとにも、この本は面白いと思う。
まず魅力的なのは、ページの字面のいいこと。むつかしい漢字は避け、美しいページになっている。それは速記者なり編集者なりの、お耳や、お手々がいい、ということである。ルビもピリッと辛みがきいている。「番頭さん」「大将」 このデリカシイがまことに全ページにいきわたっていて、キモチイイ。
「お藤松五郎」の、お藤が二階に好きな男を待たせ、旦那にごまかす、幇間(たいこもち)があがって「だれか・・・・・横になって寝ている」のを発見する、旦那はお藤をとっちめる。

「何か、うちの二階にいるのか?」
「いいえ」
「いいえッたって、今二階へあがってったら男がなんだか、横になって寝ているてえじゃないか・・・・・・・なんだ」
「(困って、言葉を捜しながら)あァ・・・・、あァそうですか。まァ・・・・・ですがねえ」
「なんだい、ですがねェッてのは。なんだい」
「あ、じゃァきっと、なんです、殺気ね、あの・・・・・・(と、ちょっとしどろもどろ)なんですから・・・・そうなんでしょねえ。いやンなっちまうわねえ・・・・・そう、じゃァいいんですよ、もう、打っ捨ッときましょうよ」
「なんだかちっともわからねえやな。なんだ、打ッ捨ッときましょうッて・・・・・」

このへんの応酬(やりとり)の秀抜さ、文字に定着しても別種の魅力が生れ、目をみはるばかりである。あるいは「中村仲蔵」の、五段目定九郎の役づくりのヒント、あの有名な話のくだり、モデルになった浪人の描写の冴えを見るがいい。簡単だが、おそろしいばかりの切れ味、というところ。仲蔵が考えあぐねて蕎麦屋で食べたくもない蕎麦をあつらえて、ぼんやりしていると・・・・・入ってきた人影。

「ゆるせ」
ひょいッと見る。年ごろ三十二、三。背の高い、痩せぎすで、色のぬけるように白い、月代が森のように生えてまして、黒羽二重のひきときという、あの袷の裏をとったもの、これへ茶献上の帯。蠟色艶消しの大小を落とし差しにして、尻をはしょり、茶のきつめの鼻緒の雪駄を腰へはさみまして、破れた蛇の目傘をぽーんとそこへ放り出す。月代をぐッと手で押さえると、たらたらッとしずくが流れようという。濡れた着物の袂(たもと)をこう・・・・しずくを切っている。

何とも、ゾクゾクするような凄味のある雰囲気。そして、この字面のよさ。それから「大山詣り」の兄ぃたちの喧嘩や立廻りのいなせなこと。・・・・・
落語のたのしみかたがまた増えたような思いもし、更には、よみもの文学の新しい分野の可能性を示唆された気がし、私は愉快であった。

『楽老抄”ゆめのしずく”』 田辺聖子著 集英社 本体1400円+税より抜粋

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読む落語の可能性と魅力 『新版圓生古典落語3』鑑賞(1)

私は落語は好きなのだが、それも漫然とした好みなので、個々の噺家についてくわしい知識があるわけではない。
ただときどき、夜、お酒を飲みながら落語のテープを聴いている。歌舞伎の舞台のテープのときもあるし、お座敷唄、小唄、などのテープも聴く。そうでなければ演歌だ。めったにオーケストラなどは聴かない。夜のお酒は。
落語はお酒にとてもいい。じっくり聴いてもいいし、うわの空で聴いてもいい。もっとも、じーっと聴かないと、なにをいっているのか分からぬ咄家が一人いる。初代桂春団治だ。ダミ声でおそろしく早口である。大阪のニンゲンが聴いてこれだから、他の地方の人にはほとんど分からないんじゃないかと思う。高座で聴けば違うのであろうが、話芸の悲しさは故人の芸を楽しめないことだ。これもビデオができたから、現代ではある程度は再現の可能性が生まれたが。

落語というもの、筋も話のはこびも知っているのに、なんで同じところで、いつも笑わされてしまうのだろう。それが芸というものだろうか。咄家のつくる宇宙にすっぽり入りこんでしまって帰りみちを忘れ、自分の現在地点を忘れ、咄家に手を引かれて、一喜一憂し、今までのやくたいもない知識はすっかり忘れはててしまっているので、ここぞというところでストン、と落とされると、わッとばかり笑ってしまうのであろう。
落語っていうのは、たいへんな芸だ、と私はいつも自分の小説と思いくらべ、あれこれ考えつつお酒を飲むわけである。それが落語を聴いていると、じつにさまざまなヒントを与えられる。人物描写の溌剌たるクロッキーがそこにある。躍動する会話がある。
それなら高座の咄家の芸を直接聴いたら、もっと勉強になるのではないか、というところであるが、寄席へ出かけていくと、そんなことはすっかり忘れてしまう。わっさわっさと笑って気分が昇華するばかりだ。

日本酒をちびちび飲りつつ、(肴には私の好きな刺身や、冷奴や、これからの季節だと、鮎の塩焼きなんか)じーっと落語のテープを聴いていると、一種独特の濛気(もうき)を発しているのを察知できる。(いやいや、ははあ、こういうところに、描写のコツが秘匿されてるんだなあ)と思ったりする。
「読む落語」をめざしている私としては、まことによく「お勉強」でき、楽しめるのである。そうして酒と落語に沈酔して、たのしく夜は更けるという算段である。
その意味で、『圓生古典落語』はたのしい本である。

『楽老抄”ゆめのしずく”』 田辺聖子著 集英社 本体1400円+税より抜粋

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商人道の心得と覚悟 「いざというときに商売の切っ先が鈍る」

『百年目』は商売の心得をといた噺と聴くことができると、さきほどからくりかえしているが、噺の最終盤、大旦那が、番頭の昨日の大層なお楽しみに触れる場面で、この噺いちばんの、商人としての覚悟を語る一節がある。
大旦那は、番頭にお茶をいれてやりながら、じんわりと昨日のことを訊ねる。

「エー、話は違うけれども、きのうは何だな、大層、お楽しみなようだったな」
「あれはなんでございます、ェーお顧客(とくい)の旦那様のお供という・・・・・・」
「うッ、まァまァま、・・・・・、そんな、言い訳をしなくてもいい、エー、お前さんがお金を使って遊んでいるか、それとも人様のお供でやっているか、見てわからないことはない。しかし、まァ、きのうは、そりゃお供で遊んだのかもしれない。しかしね、どうか人様とお付き合いをするときには、決してね、引けを取らないようにしておくれ。いい界、エー、向こう様で三百両使ったら、お前さんは五百両使っていい、向こうが七百両使ったら、お前が千両使う。ね、いャ、そうしなければ《いざというときに商売の切っ先が鈍っていけない》。そういうことでお前さんが潰す身代ならあたしゃなんともいわない」

《商売の切っ先》
とはブルっとするようないい言葉である。
青光りする研ぎ澄まされた刀剣のような鋭い商才は、割り勘だの右へならへならなんだのではけっして磨かれないのだ。機を見るに敏にポンと金が出せる商売人でこそ生き残れる、と旦那はいうのだろう。
そして、全幅の信頼を置いているからこそ、たとえそれでお前が身代を潰してもいいとさえ覚悟をみせるのである。ここまでいわれれば、番頭ならずとも部下としては発奮せざると得ないというものだ。何度この噺を聴いても、筆者はこの場面にくると肌に粟を生じるのである。商売と人遣いの妙は、まことここに極まれり、である。

三遊亭円生の絶品『百年目』は、このあと、前に述べたように、「番頭は堅いと思われておりましたが、あんなざなでお目にかかりましたので、ああァ、これがもう『百年目』と思いました。」のサゲに進むのである。
商人道は、主人から番頭へ、そして奉公人たちへ受け継がれていくのだが、もう一つ、当代である親が次代の跡取り息子へも受け継がせなければならない。

「落語で江戸を聴く」 槙野修著 PHP研究所 定価 本体1500円(税別)より抜粋

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商人道の心得と覚悟 商人道の真骨頂を『百年目』に聴く(3)

私たちが聴いている『百年目』の高座は、昭和四十一年のもので、三遊亭円生六十六歳の、まさに円熟の期にあたる。噺の大旦那の年齢にみごとに符合する。そのため、この登場人物の多い噺のなかにあって、大旦那の役が、その風格と情感、さらには説得力といったものが絶妙なのである。
円生は六歳のとき豊竹豆仮名太夫の名で寄席にでて義太夫を語った。そして十歳のころ噺家に転向、二十一歳で真打、橘家円好となり、四十二歳で六代目円生を襲名する。と書くと、いかにも順調な噺家人生のようだが、円生師本人も自著(『寄席育ち』)で告白するように、戦後、満州での苦労を経て帰国するまで、高座は地味で噺もうまくなく、しかも人気もなかった。一大転機は昭和二十二年十二月十日に新宿末広亭の昼席で初演した『妾馬(下)』の出来だった。

「ただ笑わせるだけでなく、笑いあり涙ありという噺があたくしに一番向いているようだと悟ったわけなんです。それまでは暗中模索というか、どれが本当に自分にむいている噺かどうか、はっきり判らなかったんです」

円生四十八歳のときである。筆者の想像であるが、円生師はこの『百年目』の番頭に四十代後半までパッとしなかった自分を映し、そして、いま藝も人気もゆるぎない六十六歳の自分を大旦那の心情に託したのではないか、と思うのである。

「しかしねェ、世の中というものはむずかしいもので、よく無駄をするてぇことをいう、あの人はあんな無駄がある。で無駄はなるほどいけないには違いないが、それじゃ無駄を残らずはぶいたらいい世の中になるかというと、さあ、そう一概にもいえないこともある。ま、たとえるならば、鯛というお魚がお膳へつく、頭と尻尾をだれも食べる人はいない、それじゃ切り身でだしたほうがよかろうと思うが、切り身になってしまえば、鯛のもう値打ちはなくなるわけで、食べない無駄な頭と尻尾があるから鯛という魚がそこに立派に見える。ま、なにごとも無駄といってもそれはあながち、そう無駄でないこともある」

旦那は鯛のことにたとえて、店で使っている者のなかには、こんな者はしょうがないとおもう者もいようが、何かの役に立たないこともない。人は使いようだよ。と番頭の度量をもう少し広くすることを望むのである。
いまのわが国はまさにこの大旦那のいう「切り身」の風潮が蔓延して国も企業も学校も、さらには人々の生活も、みな一丸となって無駄はぶきを合唱している。それがいい世の中になる、それが社会企業だと信じている。あんな工事は無駄、あんな路線は無駄、あの人材は無駄、あの授業は無駄とさかんに頭と尻尾を切っている。日本という国が鰯程度の国ならそれもいいだろう。しかし、日本はまだ鯛の国なのだ。そして、頭と尻尾の文化が立派に存在してきた国なのである。

「落語で江戸を聴く」 槙野修著 PHP研究所 定価 本体1500円(税別)より抜粋

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商人道の心得と覚悟 商人道の真骨頂を『百年目』に聴く(2)

そして、本当のことかどうかは知らないが、と断りつつ、栴檀(せんだん)の木と南縁草(なんえんそう)との持ちつ持たれの天竺の故事を話す。
それは、栴檀の木の下には南縁草という汚い草がはえている。こんな立派な木にふさわしくないと南縁草を刈ってしまう。すると、栴檀が枯れてしまった。じつは栴檀には南縁草がいい肥料になり、南縁草には栴檀から降りる露がいい肥料になっていたのだ。その互いのいい関係から、栴檀の檀をとり、南縁草の南をとり、あわせて「だんなん」、これが転じて「旦那」になった、という由来話であった。

「ここの家でいうとおこがましいが、あたしは栴檀、お前さんが南縁草だ。お前さんの気にいらないだろうが、あたしもできるだけ露は降ろしているつもり、で、お前さんが店で儲けて、あたしという木をどんどん太らしてくれる。ところが、店へいくとこれが逆になって、お前がこんどは栴檀で、若いものや何かが、これが南縁草になる。」ェーこれはね、あたしの思い違いかもしれないが、いま店の栴檀はたいへん勢いがいいが、南縁草が少しィ、萎れているんじゃないかとおもうが、店の南縁草を枯らしてしまえば、お前さんも枯れる。ともにわたしも枯れなければならない。とうか若いものにも、露を降ろしてやってもらいたいとおもって・・・・・・」

なんとも巧みな諭である。と同時に成長する組織の基本を述べている。
上層部が生き残るために、弱いところからつぎつぎにやめさせていくようないまの経営者に聞かせてやりたい。しかし、まあ、この大旦那の倫理からいえば、そんな経営者は枯れていかなければならないわけだから、たとえその場を凌いでも、やがでツケは自分にまわってくることになる。
昔もいまも、働くもののなによりの不幸は、バカな上司、身勝手な経営者を持つことであることは間違いないが。

番頭の治兵衛は本年四十五歳で、小僧時分つかいものにならないといわれたのを、この大旦那が若いころ、先代のもとで旦那修業をしていたのだろうが、見どころがあると育て上げたのだから、大旦那の歳は六十五から七十くらいと推測できる。商売の道だけでなく、世の中のこと、人生についても一家言をもっている。
私たちが聴いている『百年目』の高座は、昭和四十一年のもので、三遊亭円生六十六歳の、まさに円熟の期にあたる。噺の大旦那の年齢にみごとに符合する。そのため、この登場人物の多い噺のなかにあって、大旦那の役が、その風格と情感、さらには説得力といったものが絶妙なのである。

「落語で江戸を聴く」 槙野修著 PHP研究所 定価 本体1500円(税別)より抜粋

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商人道の心得と覚悟 商人道の真骨頂を『百年目』に聴く(1)

いよいよ、『百年目』の聴かせどころ、奥の座敷での主人と番頭のしっとりとした場面となる。ところが、この噺のよくできているところは、そのわずか前の、主人と小僧のやり取りにあって、心憎いばかりの演出をみせている。少し長いが、じっくり聴いてみたい。
主人の呼び出しを伝えにきた小僧に対して、すっかりくびの言い渡しだと思っている番頭は、ふだんを忘れて、「いま行くと、そ言っとけ」と乱暴にいうのだ。小僧は奥に戻り、

「行ってまいりました」
「(ご主人)はい、ごくろうでした。どうした?」
「えー、何だか番頭さん変なんです。何か独り言を言って、ぶつぶつ、ぶつぶつ、もうどうにもしょうがねェ、て、番頭さんと言ったら、飛び上がって驚いて、エーどういたしましょ、旦那がご用がありますったら、『いま行くと、そ言っとけ』」
「誰がそんなことをいった」
「番頭さんがそー言ったんです。『いま行くと、そ言っとけ』」
「馬鹿なことをいいなさい。番頭さんがそんなことを言うわけはない」
「わけはないったって、そー言ったんです。どうしましょうってったら、『うるさい、いま行くと、そ言って・・・・・』」
「そんなことを言うわけはない! たとえば、番頭さんがそう言ったにもしろ、きさまはちゃんとここで手をついて、『ただいまうかがいましたところ、おいでてございます』となぜ言わん。それ、叱言をいえばすぐそうして頬っぺたをふくらます。可愛がってやれば増長して、《米の飯が、天辺(てっぺん)に上がった》とは、きさまのことだ!」

これは主人が障子越しに番頭が控えていることを十分に意識しての小僧への叱言である。「可愛がってやれば増長し」た、きさまとは小僧であり番頭であるのだ。この重層した演出を可能にできるのは、三遊亭円生の名演ならではである。
そして、主人は小僧を下がらせ、番頭を座敷によびいれる。ここから大家(たいけ)の大旦那が気品をもちながら、諄々と、しかし、言外に、厳しい覚悟のいる商いの道の真髄を、やがて一軒の店の主になる番頭に諭すのである。

「誰、おお、こっちィ、入ってください。治兵衛さん、こっちィお入り、そこじゃ話もできないから、さあさ、布団へどうぞ、まあまあ、敷いておくれ、私もこの通りいただいている。さあ、お敷きなさい。なにもそうお前、家で遠慮する事はない。遠慮は外でするもんだ」

遠慮は外でするものだ、という主人の皮肉にすっかり恐縮のていの番頭。主人は再度、いま店の方を抜けても構わないかと確かめる。そして、いまの小僧のような礼儀作法を知らないものを大勢使っていて、さぞかし骨の折れることだろうと、番頭をなぐさめる。

「落語で江戸を聴く」 槙野修著 PHP研究所 定価 本体1500円(税別)より抜粋

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商人道の心得と覚悟 特別な会話で人間関係を描く(2)

落語のなかに含まれている商いの心得といったものを見ているのだが、話は少し横道にそれて、敬語の問題になっている。それをもうしばらくつづけたい。
『百年目』の噺では、ご主人が大番頭の治兵衛さんにとても丁寧な言葉遣いをしていることがよくわかる。
この噺でご主人が登場するのは、大番頭が店でさんざん叱言をいい、番町のお屋敷の方を廻らなければ、といって、柳橋から一巻(いちまき)(取り巻き連)と船で桜見物にでかけ、向島の土手にあがり、鬼ごっこで間違ってご主人を捕まえてしまうところからである。

この主人は、いまは枯淡の境地にいる大旦那であるが、「あたしなんぞもね、若いときにさんざん遊んで、親父にすでに勘当されるところだった」という酸いも甘いもかみわけた人物だから、酔った大番頭の醜態にも、いきなり怒るような野暮なことはしない。大番頭が驚いて地面にへたりこんで低頭すると、

「ああ、これこれ、番頭さん何をする、着物が汚れる。そんなとこへ座ったら・・・・、 たいそう酔っているようだから、怪我でもささないよう、よくみんなで気をつけて遊ばしてください。あんまり遅くならないうちに帰していただくように」

と藝者衆に頼むという粋さを示すのだ。旦那も驚いたに違いないが、番頭の身を案じる気持ちがまずははじめに出るという優しさがある。そして店に帰ると、番頭の様子を小僧に聞く。

「番頭さんは、えー、どうなすった」
「さきほどお帰りでございます」
「お帰りになった」
「へィ、あのォー、風邪を引きましたので、頭が傷みますから二階でさきィ休ましていただきたいとおっしゃいまして」

また、翌朝、番頭を呼びにやるとき、小僧に、

「あの、誰かいないか、(手を打つ)、これ(再び手を打つ)誰かいないか」
「ヘィ、およびでござ」
「え、お前、お前でいい、えー、お店にいって、番頭さんがお手すきならば、ちょっとお話がありますから、顔をかしていただきとうございます、と、いまお忙しいようならば、あとでもよろしいのでございますが、いまお差し支えなかったら来ていただきたいと、うかがってきなさい」

なんともじつに丁寧な言葉遣いではあるまいか。これは決して嫌味でバカ丁寧にしているわけではない。なぜなら、何も知らない小僧にこの皮肉は通じないからである。
これほどまで主人が番頭に対して丁寧であるということは、この治兵衛番頭が仕事熱心で、店の繁栄に貢献しているということもあろうが、主人が番頭を立てて大事にしていることが他の奉公人に伝わり、番頭に箔がつき、したがって奉公人も番頭の言うことをきちんと聞くことができるのである。
つまりは、店に働くものの結束がしっかりして、隙のない商売ができ、ゆるぎない繁栄をのぞめるのである。名作『百年目』が商いの心得噺であると、筆者が考えるのも、このようなところがあるのだ。

「落語で江戸を聴く」 槙野修著 PHP研究所 定価 本体1500円(税別)より抜粋

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商人道の心得と覚悟 特別な会話で人間関係を描く(1)

落語は登場する人物が互いに交わす会話が噺の流れになっているから、一つひとつのセリフに精緻な演出がなされている。もちろん、それは演者のゆきとどいた神経と巧みな藝とによってのみ表現できる。
ひとつのセリフのなかの言葉の選択、たとえば、「あたし」というべきか「わたし」というべきか、また「あたくし」、「わたくし」というべきか、その選択もたいへん重要なことであって、名人といわれる人たちは、決して無神経にしてはいない。

三遊亭円生の口演『百年目』の前半部分、大番頭治兵衛のセリフを注意して聴いてみることにしよう。(昭和四十一年一月三十一日、東宝名人会録音盤から)

「ご主人がまだ早いとおっしゃったのを、わたしからお願いして肩上げを取らした・・・・・(手代見習いのような兼どんに)」

「何です? あたしゃは聾ではないよ。お前さん今小さな声で、おいでなすったといったね。(番頭、吉兵衛に)」

「こんな若いものと違います。あたしがここにいなくなれば・・・・・・(吉兵衛に)」

「うかがいましょう。あたくしはね、本年四十五になりましたが、・・・・料理屋の梯子はどっちィ向いてついているか、あたくしは存じません(おなじく吉兵衛にだが、嫌味っぽく威張って)」

「これからこういうことがありますと旦那さまへ、わたくしから申し上げるが・・・・・ (おなじく吉兵衛にだが、「旦那さまへ」という言葉に続けてだから)」

「わたしが立てというときに立たないと、立ち端を失うよ。(吉兵衛に、かなり声高に)」

お気づきだと思うが、ご主人との関係がセリフの背後に含まれている場合は「わたし」か「わたくし」といい、そうでなければ「あたし」が基本となり、セリフに嫌味や皮肉や恫喝といった要素を含める時は「あたくし」となっている。
これはきわめて演者の話藝の天分に拠るといってもいい。いちいち気にして演じられるものではないからで、いま天分といったが、長年、言葉に張りつめた神経を行き渡らせきた結果の後天的な才能といっていい。このような名人による言葉遊びの事例はいくつもみられる。
ご主人との関係がセリフの意味にあることによって、自分を示す「私」が異なる音通になるということはすなわち敬語の表現ということになるのだ。話言葉の集成である落語の場合の、まさに独特の感性ではないだろうか。

「落語で江戸を聴く」 槙野修著 PHP研究所 定価 本体1500円(税別)より抜粋

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商人道の心得と覚悟 奉公人への教育的叱言(2)

「清元?・・・・・、お前だな、ときどき便所(はばかり)で変な声で唄をうたっているのは、そうでしょ。何だ、あきれたもんだ。藝事は決してやって悪いということないが、自分が一人前になり、店をもって、ああこれなら大丈夫だという目処がついて、それから何を楽しみに稽古してみるというのはいいが、なんです修業中に! こんなものを稽古するひまがあったら、商売のほうに少し身を入れなさい。」

そして、叱言は、番頭の吉兵衛にも及ぶ。「お前はね、こんな若い者とは違います。私がここにいなくなれば、店の支配をしなければならないのが、お前の役目だ。」といわれる次期支配人候補まで、きつく叱るのである。吉兵衛画、夜な夜な御茶屋で藝者・幇間をあげて遊んでいることを大番頭はお見通しなのである。

「(大番頭)藝者・幇間というものはどういうもんです?」
「(吉兵衛)どうも、えへへへッ、番頭さんもお人が悪くていらっしゃる。藝者・幇間をご存じがないこととは・・・・・」
「うかがいましょう。あたくしはね、本年四十五になりましたが、自分にはそれだけのはたらきがありませんから、料理屋の梯子はどっちィ向いてついているかは、あたくしは存じません。藝者という紗は何月に着る? 幇間(たいこもち)という餅は煮て喰うのか焼いて喰うのか!」
じつに皮肉たっぷりの叱言である。いささか度の過ぎた堅物大番頭と、噺をここまで聴いた客席はおどろく仕掛けになっていると同時に、つぎの大番頭の豹変ぶりをきわだたせ、かつ旦那が大番頭を堅物と信じ込んでいることへの伏線になっているのだ。

叱言をいい終わって、今日のところはこれくらいにというのに、吉兵衛は、叱られたままの姿勢でいる。こういう場合、叱られる方の引け時は意外にむずかしいもので、早すぎても叱言が身にこたえていないようだし、ぐずぐずしていても不満そうでいけない。そんなことにも治兵衛大番頭は神経が行き届いている。

「じゃ、そちらへおいで、そっちィおいで、何をしてんだお前は、私が立てというときに、立たないと、立ち端(は)を失うよ」

小僧から手代、そして番頭まで、ぐうの音もでないほどの叱言をふりまいた大番頭。しかし、そこで語られる奉公人のありさまは、古今共通の勤め人の人間性をあらわしていて、今日においてすこしも古さを感じさせないのである。

「落語で江戸を聴く」 槙野修著 PHP研究所 定価 本体1500円(税別)より抜粋

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商人道の心得と覚悟 奉公人への教育的叱言(1)

『百年目』の大番頭治兵衛さんは、十一歳のときにこの店に奉公にきた。しかし、三つ用を言いつければ必ず一つは忘れてくるし、二桁の算盤を二月かかっても覚えられない。寝小便は直らない。こんな子は暇をだしたほうがいいという声を朝得て、いまの主人が見どころがあると丹精したのだ。そして、いま四十五歳、奉公人にとっては旦那よりこわいほどの立派な大番頭である。ある日、奉公人たちに端から端へ叱言をいう。あさない小僧の常吉や定吉にはつまらない悪戯を咎め、実家に帰しますよ、と脅かし、年かさの鉄どんには、店の端で本を読んでいることに叱言をいう。

「お前さんにね、此間(こないだ)っから言おうと思っていたんだが、どういうわけで店の端で本を読む、えッ、そりゃね、本を見て悪いてえことはないが、表を通る方が見て、ああ、あそこでは本を読んでいる。暇な店だた思わなければならない。商売には油断のないようにしていなければならない」

大番頭の叱言を続けて聴こう。
つぎは、兼どんに、お前の筆跡(て)の手紙が二本、硯の引き出しに二日ばかり前から入っているがどうしてのだと問いただす。すると、兼どんは、出そうと思ったのだが、小僧の手がふさがっていたのでそのままになっていると弁明するのだ。
それで、大番頭の治兵衛はキッとして怒る。

「小僧の手がふさがっておりましたァ? ほォ、お前さんは一人前なのか、自分で一人前だと思っているのか、どうもじつにあきれたもんだ。小僧にそんなことを言いつけることはない。お前が自分で出したらよかろう。お前に何がまともなことができる! 背ィばかり大きくなってみっともないから、ご主人がまだ早いとおっしゃったのを、私からお願いをして肩上げを取らしたんだ。それで一人前だと思っている。手紙ぐらい自分で出しなさい!」

自分はもう奉公も長いし、お顧客(とくい)へ出す手紙も書けるようになった。そこに慢心と雑用を嫌う上級者意識が出てくる。
大番頭が兼どんを叱っていると、手代でも先輩格の吉松が肩を揺すって、ふふんと哂ったことが大番頭の耳に入る。それを機に、吉松への叱言がはじまる。そして、吉松の懐に清元の稽古本を見つけるのだ。叱言はさらにエスカレートする。

「落語で江戸を聴く」 槙野修著 PHP研究所 定価 本体1500円(税別)より抜粋

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商人道の心得と覚悟 商家の番頭と奉公人たち(2)

当時の奉公人でいちばんつらいのはなんといっても小僧の時期で、小僧のころは木綿の着物に前掛姿、その前掛の下に両手をいれて、きちんと店に座っていなければならず、どんなに寒くても火鉢に手をかざすことなどできなかった。伝馬町の店では小僧は上にあがることができず、脇に風呂敷を挟んで土間に立っていて、用のあるときにすぐに出掛けられるようにしたというのだ。
通い番頭になるまで奉公人はすべて住み込みであり、実家(さと)に帰れるのは年に二度、正月と盆の十五、十六日で、これは「宿下り」(薮入り)といって大手をふって家に帰ることができた。また、足袋を履くこともうるさく、十二月一日から二月晦日(みそか)まで、それも白足袋と決められ、洗ってきれいにすれば儀式にもでられる。紺足袋は色が褪せるので絶対に用いなかったという。

大番頭になると羽織を着ることが許され、夏でも冬でも鉄無地の羽織に白足袋と一目でその役職が分かった。普通の番頭は店にいるときは羽織を着ることはない。年季が明けたらいちおう羽織を着てもいいとしてあるのだが、遠慮があって、店から出て着て、脱いでから店に戻ったというのである。以上のようなことが、円生師の枕から知ることができる。

また、大番頭は店の営業から奉公人の教育までおこない、決算報告を主人に見せるだけで一切の責任を負っていた。ときには「奥」とよぶ主人の家計にも口をだし、「主人に放逸(わがままや勝手気まま)の行為があるときは、これを制限する」ことができたという(『新編江戸時代漫筆』)。
また、明治初年に大伝馬町の主人が自家用の人力車を購入しようと番頭に相談したところ、即座に断られた(飯島友治氏)。これほど、大番頭には力があったということである。

「落語で江戸を聴く」 槙野修著 PHP研究所 定価 本体1500円(税別)より抜粋

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商人道の心得と覚悟 商家の番頭と奉公人たち(1)

この『百年目』の本題にはいる前に、三遊亭円生は「聞く江戸博物誌」とでもいうような枕をふり、商家のそれも大店の「奉公人」という制度について丹念に解説してくれることもしばしばあった。これがじつにわかりやすく楽しい。
この噺は本題だけでも四十分はかかる噺だから寄席向きではなく、独演会や名人会、またホール落語会などでじっくり演られた。
戦後すぐのころの末広や本牧亭といった席には明治生まれのお客がおおぜいいて、商家の制度や奉公人の階級などの案内をことさら枕に話すことはなかったに違いない。そんなこったァ知ってるよ、といわれたはずだからだ。
ところが、昭和四十一年一月三十一日、東宝名人会での録音を聴くと、これは長講六十四分、華やかな銀座の席にきた、いわば一般的な現代人の客に円生師意の「江戸博物誌」をつぎのように、ことこまかに語っているのである。

「昔は、この奉公をする、年季十年と申しまして、まあー、たいてい小僧さんになりますのは、早いので九つとか、十、十一二ぐらいが、こらァまァ奉公の年頃でございまして、これで十年の年季を勤める。もちろん無給でございます。えー、いまのお方がお聞きになると、そんなばかなことはなかろうと、不思議に思うかもしれませんが、つまり商売の道というものを向こうのご主人から教えていただく、その教え賃ですね。つまり無給で十年働きます。で、二十なり二十一になりまして、十年ちゃんと勤め上げると、もう一年はお礼奉公といいまして、さらにお礼として一年間無給で勤める。まァ、つまり通算十一年間は無給で勤めなければなりません。それから年季が明けまして、いよいよこんどはお給金をいただける。そのお店へ勤めてもよし、また他へ替わってもよろしいのでございましょうが、たいていはいままで勤めたところで奉公をいたしましてお給金がいただける。これから、つまり手代となりまして、まァ二十七八、三十がらみになりまして、こんどは番頭となります」

と、このように九歳か十二歳の間に奉公にでた子が無給の十一年間を過ごし、手代、番頭と出世していくことを伝えてくれる。
さらに詳しく、番頭でも、女房をもって外からお店に通ってくる「通い番頭」もあり、独身でそのまま店に居ついている番頭もある。そして、四十歳前後になって「大番頭」となり、いまでいう会社の専務取締役にあたると円生師はいうのである。そして、大番頭になれば大したもので、これを支配人ともいった。日本橋伝馬町あたりでは隠居といったことを教えてくれる。

「落語で江戸を聴く」 槙野修著 PHP研究所 定価 本体1500円(税別)より抜粋

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商人道の心得と覚悟 屈指の大作『百年目』という噺

「ここで会ったが百年目、いざ尋常に勝負、勝負」と敵討がめざす相手に出会って声をあげるように「百年目」とは、めったにない絶好の機会に恵まれたときや陰謀や計略が露見して万事休したときに使う言葉である。百歳の長寿を保つのはきわめてむずかしいことから「おしまい」の意になる。

この百年目すなわちおしまいということをサゲにもってきた落語界屈指の大作噺『百年目』は、登場する人物も多く、場面も多様な人情味噺で、とくに後半部分の番頭の苦悩と、旦那が番頭を諭すやりとりは大真打でなければとてもこなせない大ネタである。
この噺は文化四年(一八〇七)の江戸落語のネタ帳にあり、原話は宝暦十二年(一七六二)の『軽口東方朔巻一』の「手代の当惑」である。(飯島友治氏)というから、かなり古くから演じられ、上方落語としても親しまれていたもので、桂米朝も「屈指の大ネタ、大阪落語の名作十題に当然入る」という。近年では三遊亭円生がきわめつきの名演をみせて、噺の終盤には客席ですすり泣きさえもれたほどだ。

噺の内容はつぎのようなものである。
大商家の支配を一手にまかされている番頭は、いつも眉間にしわを寄せて小僧や手代にやかましく叱言をいうが、じつはなかなかの遊び人。花見の季節、店をぬけだし、藝者や幇間をおおぜい引き連れて、船で桜の名所向島におもむき、派手な酒宴を催す。したたかに酔って、とりまき連中との鬼ごっこ。ところが、つかまえた相手がなんと店のご主人。おどろいた番頭は一間ばかりうしろに飛び去って地べたに座って両手をつく。
「あ久しぶりでございます。ご無沙汰申し上げて降ります」とわけのわからないあわてぶりで、主人も呆気にとられてそそくさと立ち去る。すっかり酔いのさめた番頭はすぐに店に帰り、風邪と偽って寝てしまう。
この番頭は店の金を一銭もごまかしたわけではなく、自分の収入から工面した金で遊んだのだが、根がまじめで小心者ゆえ、あんな遊びをしては暇を出されるのではないかと一睡もできずに苦悶する。

翌朝、案のじょう主人からちょっと奥へと呼ばれる。そこで大商家の主人は、おっとりと商いの道と人遣いの心得を番頭に話すのである。そして、これまでの長年の番頭の苦労に感謝の気持ちをつたえるのである。

「番頭さん、お前さんに改めて礼をいいます。いままでお前に店を持たせなかったのは私が悪い。でも後に直る者がいないので、ついつい延び延びになって、すまないことをした。来年は必ず店をもたせるから、もうすこし辛抱しておくれ」

そんな主人の言葉を聞いて、番頭は感極まって涙を流すのである。すると、主人はきのう番頭がいった、お久しぶりですとかご無沙汰申し上げていますとはどういうわけだ、と訊ねるのである。で、番頭は、この噺のサゲになる言いわけをいうのである。

「堅いと思われていた番頭が、あんなところでお目にかかりましたので、ああ、もう『百年目』だと思いました。

「落語で江戸を聴く」 槙野修著 PHP研究所 定価 本体1500円(税別)より抜粋

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ほっと ひと息!

黄花コスモス(キバナコスモス)

Rimg0065web  ・菊(きく)科。                               
  コスモス属               
               
 ・メキシコ原産。                               
 ・6~10月頃開花。                           
 ・コスモスの仲間で、花色が黄色かオレンジ色なので
  この名前になった。                           
 ・葉っぱはコスモスより太くギザギザ。            
   (コスモスの葉は線状)

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エピローグ 小さな港町

僕が、とっても好きな町のひとつに、
イタリア・リヴィエラ地方のポルトフィーノという、小さな港町があります。
ジェノヴァの近くなんですが、あの港町に立つと、
なぜか涙が出そうになるほど不思議な気持ちになる、小さな港町です。
時間時間に、教会の鐘の音が町中に響きわたる、
美しい色彩に統一された小さなその港町には、
本当においしいレストランと、ヨーロッパの一流のブランドのお店が、
みんな一間ぐらいの間口で、ずっと港の端まで並んでいます。
僕が行ったのは二月だったんですが、
シーズンオフということもあって、ほとんどのお店にはシャッターが下りていて、
地元の漁師のおじさんが、
まるで映画の撮影のためのエキストラのように見える魅力的な港町でした。
なんていうんでしょうねえ、その全てがほど良いというんでしょうか、
ほどの良さの中でしっくりと馴染みあっている。
あんな港に自分のヨットを浮かべて食事の時だけ上がって来るなんていう夢を、
何度か見ました。
あの町が持っている「ほどの良さ」、そういうものへの憧れは、
どんな旅人にとっても、とても大切にしていかなければならないと思います。

新しい世紀が皆様にとって素晴らしい世紀でありますように、
心からお祈りしております。
人間ていいなぁ、人生って捨てたもんじゃないなぁ、
という僕の思いは、あなたの心に届きましたでしょうか。
それじゃあ、お元気で。
また、どこか旅の空の下で、お会いしたいと思います。

『旅の途中で』 高倉健著 新潮社 本体1800円 より抜粋

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L.A.コンフィデンシャル

今年もいい映画を何本か観ました。
「プライベート・ライアン」
「モンタナの風に抱かれて」
「シティ・オブ・エンジェル」

「シティ・オブ・エンジェル」は、
ヨーロッパへ、コマーシャルのロケーションに行く飛行機の中で、
あの小さな画面で三回も、ローマへ着くまでに観てしまいました。
映画で飯を食っている映画人の端くれなんですが、
何故か同じところで三回とも涙が出ました。とても好きな映画でした。
しかし、今年いちばん感心した映画は何かと聞かれたら、
「L.A.コンフィデンシャル」で、
アカデミー助演女優賞を見事にさらったキム・ベイシンガーの演技、
と僕は答えるでしょう。
彼女は、ビバリーヒルズに住む高級娼婦を演じているんですが、
元締めの命令で、
もう一人のエリート刑事との情事をやむなく写真に摂らせる。
恋人の刑事はその写真を偶然見てしまうんですが、
そんな彼女の事情を知りませんから、嫉妬に狂って彼女を殴りつけるんです。
殴った刑事を見上げたその時のキム・ベイシンガーの目が、
とっても色っぽく感じました。
おそらく、小さい頃から身体を売ってきた、
いや、そうしなければ生きられない世界で暮らしてきた女が、
初めて、殴るほど自分を嫉妬してくれた男に対して投げかける眼差し・・・・・・・。
掃き溜めの鶴、という言い方がありますけれども、
掃き溜めにしか餌場を持つことができなかった一人の女性が初めて、
お金ではなく、権力でもなく、自分に対する情に触れる。

こういう女優さんの演技に賞を与える、
コールデン・グローブ賞やアカデミー賞は、本当に凄いと思います。

『旅の途中で』 高倉健著 新潮社 本体1800円 より抜粋

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免許皆伝!

二十世紀最後の今年、自分にとって大きなできごとの一つ。
変わったできごとと言っていいかもしれません。
今年の何月だったでしょうか、
長い間心の中で思っていた、
小型一級船舶操縦士の講習があるという知らせが西表(いりおもて)島からあって、
あの、とっても静かな雰囲気の中で、
もしかすると生徒なんて、二、三人ぐらいの授業が受けられるのかな、
と思って申し込んだんです。
実は、定員オーバーの二十何人で、
西表島のいちばん端にあって、車で一時間かかる町の公会堂へ毎晩通い、
この年齢になって、ああいう経験をするとは思いませんでしたが、
夕方の六時から夜十時まで、十一日間、
机を並べて、分厚い三冊の本を、丸暗記するように勉強しました。
今、あの時のことを考えてみると、
最初の西表島では二十三、四人の生徒がいたんですが、
先生やクラスメートの連中から、
「高倉先生」なんて言われて、非常にくすぐったい気分でした。
学科に受かると、一ヶ月おいて実技が一週間、石垣島であるんですが、
自分でも驚いたのは海上の実技で、
GPSという衛星を使った位置計測機器を使えばなんでもないんですが、
この時はハンドコンパスという道具を使って、
自船の位置を海図の上で確認できるようにする、
という訓練が、かなり厳しかったですね。
船がとっても揺れるんです。
きっと、講師の先生はわざとそういうところへ連れて行くんでしょうけれど、
揺れる甲板の上で、遠くに見える山の頂上とか、灯台とか、
動かないものを見て海図に書き込む。
自分の位置がきちんと確認できるまで、
立ったまま、揺れている小さな船の上で角度を測る作業なんです。
僕は船にはとても強いと思っていたにもかかわらず、
四十年ぶりに、その日摂った朝飯を、見事に全部吐きました。
絶対に酔わないとか、これぐらいなんでもないとか思っていましたが、
海を甘く見るんじゃないぞということが、
小型一級船舶操縦士の授業のいちばん根底にあるのかなと、
とても強く思いました。
海を甘く見ていると、ひどい目に遭う。
星を見られないと、外洋に出られない。
いえ、出られるんでしょうけど、
星を見る、海図に書いてある潮の流れを読む、という、
いちばんの基本を強く叩き込まれました。

『旅の途中で』 高倉健著 新潮社 本体1800円 より抜粋

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「運動靴と赤い金魚」(2)

本当に、童話のような映画なんですが、
この監督が世に問いかけていることこそ、
これが文化だな、と僕は思ったんです。
経済的に貧しいから、ひたむきに、一生懸命に生きている親の背中を、
子どもは絶えず見ている。

物語の途中で、自分の持ち去られた靴を妹が見つけるんです。
実は、妹よりもッと小さいクラスの子が履いていたんですね。
学校でその子が履いているのを見つけて、跡を尾けて行き、家も突き止める。
妹はお兄ちゃんを連れて、
あそこの子が自分の靴を履いていると話して聞かせ、二人で見張っていると、
おじいさんとその小さな子が出てくるんです。
その時、靴を拾っていったおじいさんが盲目だということを兄弟が知るんですね。
街角で見ていた二人は、そこで文句をひとことも言わない。
自分たちよりももっと貧しい人にその靴がいったんだからいいや、
とでもいうように。
ここの画(シーン)は台詞もなにもないんですが、
当たり前のように兄妹は納得して、
ひとことも咎めないで、すごすごと引き返していく。

この映像がとっても優しいんです。
ああ、この優しさが、経済優先で、戦後五十年間、
一生懸命走ってきた我が国が失ってきたものなのかなと、
僕はとっても強く思いました。
思わずポロッと気持ちのいい涙が出るほど、素晴らしい映画でした。
物欲まみれになっている国の人々に、
経済的に豊かなことと、心が豊かであることがこんなに違うんだ、
ということを、とても控えめに静かに伝えてくるこの映画は、
本当に素晴らしいと思いました。
この作品を観ていると、経済的に貧しいほうがかえって、
家族や人に対する優しさ、自分たちを育てるために、
毎日骨身を削って働いてくれている父や母に対する思い、
そういう絆みたいなものが壊れないのではないか、
そんな気さえしました。
自分の五体をきしませて。
足の豆が破れてもマラソンで走って、
妹のために運動靴を取ってやりたいと願う。
今、この日本の国にそんな若い人たちが、
どのくらいいるのでしょうか。
世紀の区切りに、とても凄い映画だと思いました。

『旅の途中で』 高倉健著 新潮社 本体1800円 より抜粋

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「運動靴と赤い金魚」(1)

今年も、感動深い映画を、たくさん観せていただきました。
お話したい映画は、三本も四本もあるんですが、
自分がとても感じた作品を選んで、ご紹介したいと思います。
一本はイランの若い監督、マジッド・マジディという監督さんが撮られた
「運動靴と赤い金魚」という作品でした。
お父さんとお母さん、
小学校六年生ぐらいの長男、小学校二年か三年生ぐらいの妹の、
とても貧しい家族が主な登場人物です。
自分は昔、「ゴルゴ13」という映画を撮るためにテヘランに行きましたので、
よけいに印象深かったんですが、
昔からある、迷路のような住宅地の一角に共同住宅があって、
その小さなスペースの中で、彼らは暮らしているという設定です。
お母さんは、お父さんの収入を助けるために洗濯の仕事をやっているんですが、
腰を痛めて、なおかつ、新しい子どもが生まれてくるから、
お腹の子どもをカバーしながら生活をしているという、
とても厳しい状況に置かれた家族の話なんです。
お兄ちゃんは、腰を痛めたお母さんの代わりに、
家庭の仕事をいろいろ手伝っているんですが、
そうです、いちばん最初の画(シーン)は、靴屋さんでしたねえ。
修理した妹の靴を受け取る。
それから、お母さんに頼まれていた買い物をするために、
それを八百屋の店先に置いて、
メモを見ながらあれこれ買っているうちに、
たった今、修理の終わった妹の靴が、
ゴミと間違えられて、廃品回収のおじさんに持ち去られてしまう。
今の日本では考えられませんが、家族が一足ずつしか靴を持っていないんです。
家へ帰っても、お父さんにもお母さんにもいえなくて、
宿題をしているような顔をして、妹だけ、
「実は靴をなくしてしまった」と打ち明ける。
お兄さんは、
「自分の大きな靴を貸すから、
午前中、君は学校にそれを履いて行って、
自分は君が帰ってくるのを待っていて学校に履いて行く」と言う。
そういう切ない家の情景があった後、
彼は学校の貼り紙で、マラソン大会があるのを知るんです。
三等賞の賞品が運動靴で、
これを妹のためにどうしても取りたくなるんです。
マラソンなんかやったことのないお兄ちゃんは急いで申し込み、
この大会に参加します。
本当に胸が痛くなるほど素晴らしい映像が続いた後に、
なぜかお兄ちゃんは、一等になってしまう。
一等の賞品は、カスピ海の観光旅行でした。
欲しかった三等賞の運動靴は結局、手に入りません。
しょんぼり家に帰ると妹が待っていて、
無言の兄弟を映す不思議な画(シーン)の後
貧しい家族ばかり三世帯ぐらいの共同住宅の中庭の、
小さな噴水が映ります。
その中では金魚を飼っているんです。
兄妹がいつも餌をやっている金魚のいる噴水の中に、
靴を脱いで豆が破けて傷だらけの両足を浸けると、
金魚がその傷をいたわるように寄ってくる、というラストシーンでした。

『旅の途中で』 高倉健著 新潮社 本体1800円 より抜粋

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映画が始まる時

僕は四年ぶりに「鉄道員(ぽっぽや)」という映画をやることにしました。
そのきっかけは、やっぱり人々の思いに、
自分の心が動かされていったことだと思います。
去年の何月だったでしょうか。
東映東京撮影所の撮影所長、坂上順氏から手紙をいただいて、
「鉄道員(ぽっぽや)」の話を初めて知りました。
坂上ちゃんとは長い間の仲間で、「新幹線大爆破」とか、
六十日間のオーストラリアロケで撮ってきた「荒野の渡世人」とか、
イランへ行った「ゴルゴ13」とか、
何故か海外でとっても苦労して撮った仕事が多くて、
彼が製作進行で走り回ってる姿を思い出します。
今は偉くなって撮影所長。
やっぱり苦労した人は違うなと映画が終わった今、
つくづく思います。
最初、「鉄道員(ぽっぽや)」の原作を読ませていただいた時は、
はっきり言ってそれほど乗り気ではありませんでした。
それなのに、僕の気持ちがなぜ不覚にも動いたのか?
坂上ちゃんから手紙のアプローチがあって、
三通ぐらい手紙をいただいたでしょうか、
じゃあ珈琲でも飲んで話をしようかということになったんです。
それから、監督の降旗さんにも相談してみようという話が出たものですから、
監督の家へお邪魔しました。
いろんな話をしているうちに、
坂上ちゃんの撮影所のスタッフを思う一途な熱い気持ちとか、
降旗監督の「一緒に五月の雨にぬれましょう」という、
人を煙に巻くような、呪文のような言葉を聞いて、
帰りの車中、
(いくら暖かくなってきても、
五月の雨で風邪をひくかもしれないよ、と脅かされているんだろうか)とか、
(いや、東大出ているヤツはやっぱり洒落たことを言うな)とか、
いろいろ考えていました。
その時、僕はもう、「鉄道員(ぽっぽや)」の世界に一歩足を踏み入れていたのかも知れません。
今、走馬灯のように、映画が始まる前の自分の思いが、
頭の中に甦ってきます。

大泉の東映東京撮影所は「動乱」以来、
十九年ぶりでした。
衣装合わせの日、久しぶりの東映なので早めに行ったんですが、
昔、僕たちが撮影していたオープンセットにはスーパーができていたし、
撮影所の入口の向きも変わっていたものですから、何となく一気に入れなくて、
「撮影所の周りを、このまま少し回ってください」と頼んで、
昔、通った大泉学園の駅から大泉の町、
撮影所の裏のほうへとしばらく車で走ってから入りました。
撮影所に入ると、知った顔がずらっと並んでいてくれて、
ちょっと参ったなと思いました。
僕がいた頃の部屋はもちろん、撮影所内の模様替えでなくなっていたんですが、
二階に新しい僕の部屋を作っておいてくださって、
その部屋へ入ると、自分が東京撮影所で仕事をしていた頃の神棚が、
そのまま飾ってあったんです。
これはかなりボディーにきましたね。
こんな神棚がまだ取ってあったのかと思って。
あそこから「鉄道員(ぽっぽや)」が始まったと思います。

『旅の途中で』 高倉健著 新潮社 本体1800円 より抜粋

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感動

大晦日でした。
母のために建てた小さな家が、九州の海辺にあった頃の話です。
何年ぶりかで、そこでお正月を過ごそうと思い、九州へ帰りました。
夜、久しぶりに逢った仲間と食事をして、
「いいお正月をお迎えください」と挨拶して、
みんな帰って行った後、僕はシャワーを浴びて、寝ることにしたんです。
僕のベッドルームは、
押入れのような本当に小さなスペースに、
ヨットの船室を模して作って貰っているんです。
屋根はガラス張りのスライド式で、
寝転がると空が見えるようになっている。
要は、米軍の組み立て式のベッドに寝袋だけみたいな、
簡素なベッドルームなんですが、その晩飛び込んだら、
スライド式屋根のゴムがいかれていて雨漏りしていたらしく、
布団がびしょびしょに濡れていたんですね。
あーあ、大晦日についてねえな、と思ったんですが、
気を取りもどして、もう一度シャワーを浴び直しました。
夜中だからベッドは乾かせないし、
本当に寝袋を出して寝る羽目になってしまいました。
僕は暖炉の前で寝袋で寝るのが好きなんですけれども、
それに入って暖炉の火を見ながらなんとなくテレビを付けたら、
たまたま東映映画をやっていました。
大好きな山下耕作監督の
「夜汽車」という映画でした。
これが、実に素晴らしい映画でした。

東映を離れてから、
この会社の映画をあまり観ていなかったんですけれども、
後輩の小林稔侍が、とってもいい仕事をしていました。
たった一人、海辺の家で大晦日の晩に、
暖炉の前で寝袋で寝転がって、
退屈しのぎに眠くなるまで、と思って観ていたのが、
物語の展開も、出ていらっしゃる俳優さんたちも素晴らしくて、
気がついたら自分はいつの間にか正座して、
映画が終わった時には拍手してました。

住んでいる方が何人かしかいないというような、
冬の別荘地の、それも土砂降りの雨の中の、
大晦日の明け方の出来事でした。

拍手している時は、我を忘れていると思うんですね。
我を忘れているということ、そんなに心が高揚できるということは、
素晴らしいことだなとその時に思いました。
何を見ても、何を食べても、何の感動もしないこと。
感動をしなくなったら、人間おしまいだと思うんですね。
こんなに寂しいことはないと思います。
人間にとっていちばん贅沢なのは、心がふるえるような感動。
お金をいくら持っていても、
感動派、できない人にはできません。
感動のもとは何でもいいんじゃないでしょうか。
美しいとか、旨いと感じるとか、
一日一回でいいから、我を忘れて、立ち上がって、
拍手ができるようなことがあればいいですね。
今の世の中で、こんな幸せなことはないんだと思います。
一日一回では、多すぎるかもしれません。
一週間に一回でもいいですから、
心が感じて動けることに出会いたい。
とても贅沢だと思いますが、
感じることをこれからも探し続けたいと思ってます。

『旅の途中で』 高倉健著 新潮社 本体1800円 より抜粋

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ダイアナ妃が残したもの

先日、コマーシャルの仕事で、フランスへ行ってきました。

フランス北部、
ノルマンディーのドーヴィルという町に一週間泊って、
その後パリへ。

何度かノルマンディーにもパリにも行って、決して嫌いな街ではないんですが、
今回は居心地がよくありませんでした。
というのは、今年の大きなニュースの中で、
何度もテレビに映し出されたあのトンネル、
ダイアナ妃が亡くなった事故現場を、撮影にいくたびに、何度も通りました。
残骸があるわけでも何でもない。
ほんのちょっとトンネルの柱に、
そうかな、という傷が残っているだけなんですけれども、
そこを通るたび、鳥肌が立つ思いを何度もしました。

そして、ダイアナ妃の事故で、世界中が深い悲しみに暮れたのは、
何故なんだろうと考えました。
彼女は慈善事業や、地雷の廃止運動に力を尽くしたからだと言う方もいますが、
そんなことだけが理由ではないはずです。
恵まれているようで、決して恵まれていなかった彼女の生い立ちとか、
人がもって生まれた運命とか、自由を求めることの難しさや哀しさとか、
さまざまなことに想いを巡らせながら、
僕は、深夜のBBCの葬儀中継を、身を硬くして観ていました。

発売してから五十九年かかって、三千万枚売り上げたビング・クロスビーの
「ホワイト・クリスマス」の記録を
わずか三十七日で塗り替えたという、
ダイアナ妃を偲ぶエルトン・ジョンの歌、
「キャンドル・イン・ザ・ウインド」も買いました。

これを聴きながら、
いま、彼女が残していってくれたものに、想いを馳せています。

『旅の途中で』 高倉健著 新潮社 本体1800円 より抜粋

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めぐり逢い(2)

寒いところには慣れているつもりだったんですが、
北極とか南極の寒さは、そういうレベルではないんですね。
その寒さが恐ろしい。
ちょっと油断すると全員が本当に死んでしまう場所というんでしょうか、
地の果てという印象です。
北極でのロケーション中、ブリザードが来て、
三日間全然動けなくなったこともありますし、
南極のニュージーランドのスコット基地に入って、
そこから犬ぞりを使ってペンギンを撮りに行く途中で、
やっぱりブリザードに襲われてテントが吹っ飛ばされ、
本当に死にそうになった経験もあります。
あの時は監督に、キャメラマン二人、俳優は僕だけで、
あとニュージーランドの兵隊さんが四人、サポートに付いてくれました。

テントが飛ばされた後に凍傷にかかった時の写真があります。
少し気持ちがだらけて、
「いやこんな仕事はやれない」
とか、生意気なことを考え出した時にそれを見ると、
いつも背筋がピンとします。
その写真は、今も自宅の目につくところに置いてあります。

僕は映画を作ることを、よく航海にたとえるんです。
できるならあまり揺れないで景色のいいところを、
美人のお客さんを大勢乗っけて、
楽しい船に乗ろうという狡いことを、
心のどこかでいつも考えるんですけれども、
なかなかそういう役は回ってこないですね。

いつだったか大滝秀治さんに、
「どうしていつも僕は
こんなに酷い目にばっかり遭わされるんでしょうね」
と話をしたことがあります。
すると大滝さんは、
「健さん、それは全然違うんじゃないか。
俳優というのは、自分が行きたくても身体が弱かったら行けないし、
まず、俳優は『この役をやりませんか』と指名されなければやれない。
あなたは指名された上に、身体も丈夫でそこへ行って、
しかも成功したんだから、こんなにいい経験はないじゃないですか」
と言ってくださいました。

確かに、そんな経験ができたことは幸せだったんでしょう。
挫けそうになる度に励まされて、
なんとか今日までやってこられたんですね。
自分の非力をつくづく感じます。

『旅の途中で』 高倉健著 新潮社 本体1800円 より抜粋

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めぐり逢い(1)

映画との出会いは、
人との出会いにとてもよく似ていると思います。

この映画は絶対にうまくいくぞ、と思っても、
全然そういう風にならない場合があるんです。
逆に、そんなものがいまくいくかよと、思っていても、
潮というのか、リズムというんでしょうか、
思いもかけない方向に進むこともあるような気がします。

配給収入五十九億円という、
日本映画の興行史上のレコードを持っていた
「南極物語」も、
そういう潮に恵まれた映画です。

「南極物語」を撮る前に、僕は東宝で、
青函トンネルの工事に二十八年、命を賭けてきた男たちの物語
「海峡」という映画を、
青森県の竜飛岬で、一年がかりで撮っていました。
寒風吹き荒ぶ竜飛岬の現場まで、
フジテレビ映画部の角谷優さんと監督の蔵原惟繕(くらはらこれよし)さんが、
「南極物語」という映画を北極で撮りたいと、
何度も僕を誘いに見えたんです。
「今もこんな寒いところで仕事をしているのに、
北極なんか、僕は絶対に行きたくないです。勘弁してください」
とその度にお断りしました。

撮影後、個人的にいろいろなことがあって、
京都へ暫く気を鎮めに行った帰り道、
自分で運転して東名を走っている車の中で、
「ああいって断ったけれど、寒い場所へ、自分は行ったほうがいいのかな」
「北極へ行けば、誰も追っ掛けてきたりしない」
と突然思えてきたんです。
あれは、豊橋のパーキングだったと思いますけれども、
公衆電話から、蔵原さんのところに
「ご一緒します」と電話をかけていました。
これが僕の「南極物語」の始まりでした。

『旅の途中で』 高倉健著 新潮社 本体1800円 より抜粋

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無口な男

よく、僕は無口な男、寡黙な奴とか言われますけれども、
自分ではそんなふうに思ったことはないですね。
ラジオ番組でも台本なしで結構喋ってますから、
自分ではそれほど無口だとは思いません。
今まで二百一本の映画で演じてきた役柄から、
不器用とか無愛想とか寡黙とか、
そういういイメージがあるんだと思います。
しかし、言葉というものはいくら数多く喋ってもどんなに大声を出しても、
伝わらないものは伝わらない、そういう思いは自分の中に強くあります。
言葉は少ないほうが、自分の思いはむしろ伝わるんじゃないかと思っています。
映画の中でも、ほんの短い一言の台詞に、
自分の思いを凝縮できた瞬間がありました。

映画一本撮るのに、どんなに短くても三ヶ月はかかりますが、
今まででいちばん長かったのは「八甲田山」という映画、
これは二年半。
あの冬山に百八十五日、二冬半ですね。
僕らが演じた弘前連隊の小隊は総勢二十八名。
十日間の行軍予定が、あの過酷な嵐でスケジュールが狂って十二日間。
たった二日間延びたという設定なんですが、
実際の撮影は雪山の中で百八十五日だった。
今ではとても考えられないような話ですけれども、
日本の陸軍史に残る、
あの悲惨な遭難事件が起こったコースを、実際に辿りました。
そのラストシーンーーー。
青森連隊の北大路欣也君たちの遭難した死骸を発見した後、
一名も落伍することがなかった自分たちの隊に、
僕が、八甲田の連山を振り返りながら、
「軍歌『雪の進軍』始め!」
と号令を下すんです。

「軍歌『雪の進軍』始め!
 雪の進軍、氷をふんで、どれが河やら道さえ知れず・・・・・・・・」

実際、青森ロケの最後に撮ったこのシーンで、
あー、自分はこの一言をいうために二年半、
この映画に携わったんだなと、
八甲田山を振り返りながら、胸を突き上げるものがありました。
今でも自分だけがそう感じるのかも知れませんけど、
あのシーンを見ると、言葉はペラペラ喋ればいいってもんじゃないぞと、
とても強く思いますね。

『旅の途中で』 高倉健著 新潮社 本体1800円 より抜粋

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父の涙(4)

兄が予科練の甲種飛行訓練生の試験に受かって。町を出発する日のことだった。
兄の予科練合格について、父はよかったでもなければ、嬉しいでもなく、
一言も言わなかった。
そしていよいよ出発の日、
父は相変わらず「頑張れよ」でもなければ「気をつけて」でもなかった。
僕は、同級生と二人で兄を見送る駅へ行った。
当時の若者にとっては、まさに晴れの日。
町の人たちが打ち振る日の丸の旗の波の間に、父の顔があった。
ばんざーい、誰かの第一声をきっかけに「ばんざーい、ばんざーい」。
兄を送る大合唱が起きた。僕はふと父の顔を見た。
その時だった。
万歳もせず、手も振らず、無表情だった父の目から、
すーっと一筋、涙が落ちるのを僕は見た。
へー、お父さんも泣くんだ。
これが父が教えてくれた、川筋男の泣き方だった。

兄は奈良県の丹波市町に、甲種予科練として派遣された。
といっても、戦争末期、飛ばそうにも飛ばす飛行機がなくて、
ボートに爆弾を積んで敵艦にぶつかる要員にされていたらしい。
終戦間際になって、福岡の八幡製鉄を、
B29が毎晩のように空襲にくるようになった。
ある日、そのうちの一機が高射砲で近くに落されて、
落下傘で搭乗員が降りるのを見た時に、
親父が、うちにあった槍を持つと「昭二の敵討ちだ」と、
自分は自転車に乗って「お前も一緒に来い」と言う。
兄貴はまだ死んでもいないのに、
敵討ちとはどういうことなのかと、とっても不思議だったけれど、
その時の親父の凄まじい形相を考えると、
やっぱり子どもへの親父の愛の表し方なのかなと思う。
父が他界したのは、
「君よ憤怒の河を渉れ」という映画の、
奥能登でのロケーション中だった。十一月三十日。

撮影がようやく終わって、一週間遅れてお線香を上げに帰った。
僕の映画は観ていてくれたようだったけれど、
一度だって、感想を言ってくれないまんまだった。
ただ嬉しかったのは、福岡でのロケの時、
父が結核で入院していた博多の病院に見舞いに行って、
病院にテレビを贈ったことを、
「病棟のみんなが喜んでおったよ」
と嬉しそうに呟いてくれたこと。

そんなことが、親父にできた数少ない親孝行かもしれない。
                                      〈ラジオ朗読文〉

『旅の途中で』 高倉健著 新潮社 本体1800円 より抜粋

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父の涙(3)

わが子を怒鳴ろうが殴ろうが、誰にも文句を言われない時代。
けれども、僕にそんな覚えはない。父に叱られたという記憶はほとんどない。
ほとんどないと言うのは、たった一度だけ、
ひどく叱られたことが忘れられないからだ。
ことの発端は犬だった。
小学校三年か、四年だったと思う。
その頃僕は、とっても犬を飼いたかった。
そんな時、当時、みんなが回し読みしていた人気雑誌「少年倶楽部」に、
秋田の大館という町で飼育している大館犬という日本犬の宣伝写真が出ていた。
コリーとかシェパードではなく、
僕はその犬を、どうしても欲しくなった。
今考えたら父の月給の三ヶ月分とか四か月分ぐらいする値段の犬だったと思う。
犬を買ってくれないんなら、もうご飯食べないと言って、駄々をこねていたら、
突然親父が怒り出して、子どもながら大変な危険を感じて、
裸足のまま廊下を飛び出して庭へ逃げたのを覚えている。
それから何年かして、やっぱり犬は買ってくれなかったけれど、
友達から犬を貰うことできた。
マルという名前をつけたけれど、乳離れをしていない子犬は、
夜になると母犬を恋しがってキャンキャンキャンキャン泣くので、
庭の外れの小さな物置で、マルを抱いたまま、
蚊に食われながら一晩中一緒にいた。

炭鉱の労務管理をしていた父は、
満州に何百人もの人を連れていくといった、
大きな仕事のおかげで町に顔がきいた。
その威光で、僕は小学校の友達を六人も七人も連れて、
映画館にただで入ることができた。
「小田でーす」と一声かけて、ぞろぞろと入っていけたのだ。
ある日、映画のスクリーンで見たジョン・ウェイン。
僕は親父に少しだけ似ているなと思った。
そんな父の涙を一度だけ見たことがある。

『旅の途中で』 高倉健著 新潮社 本体1800円 より抜粋

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父の涙(2)

ここまで四十年も映画の仕事を、ーそれも過酷な役柄がほとんどだったー
今日まで何とか続けてこられたのは、
やっぱり父親ゆずりの体力のおかげとしか考えられない。
一方、大変な新しがり屋でもあって、僕が生まれ育った炭鉱地帯では珍しかった
インディアンというサイドカーの付いたオートバイに乗ったり、
ローライフレックスというドイツ製のキャメラを持っていたり、
ついには自分の家に、暗室まで拵えてしまった。
昭和十年、二十年頃の話だから、相当なものだったろう。
ドイツまで潜水艦を引き取りに行って、インド洋を通って帰ってきたとか、
小さい頃にはよく外国の話もしてくれて、
後に僕が、明治大学の商学部に入って貿易商になりたい、
幸せは外国にあるんじゃないかと思うようになったのも、
父の影響が否めない。
九州福岡県の筑豊地帯を流れる遠賀川。
その川筋の地方の男たちは、独特の気風に気骨を備えていた。
父もそんな川筋男の一人だった。

しかし父は、無頼派という硬派な面と、
海外通という洒落た一面を兼ね備えてもいた。
従って、ユーモアとウィットに富んでいたので、
女性にもよくもてたと思う。
祭りの時などに父と出掛けた際、
どこかの粋な人に可愛がってもらった覚えがある。
今思えばその人は、父にとって大切な人であったのだろう。
こんなこともあった。
小学校二年生くらいであったろうか。
虚弱体質であった僕が、例によって病気で寝ていた時のこと、
何を思ったか、父が台所のゆで卵を見ながら言った。
ロシアの女の人の肌って言うのは、あのゆで卵みたいに真っ白で綺麗なんだぞ。
ロシアの女の人を、お前のお嫁さんにもらってやるからな。
病気ばかりしている息子を不憫に思ったのだろうか。
小学校二年生の僕に女性を見つけてやろうという話、
それは、不器用な父の不器用な慰めだったんだろう。
とにかく、子どもをとっても大事にしてくれた。
博多の祭りには、いつもいい席で見せてもらった。
毎年夏が来ると、筑後川沿いの杷木(はき)というところに旅館を撮ってくれて、
屋形船で繰り出して、鵜が取ってきた鮎を焼いたり、
天ぷらにして食べさせてもたったりもした。

『旅の途中で』 高倉健著 新潮社 本体1800円 より抜粋

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父の涙(1)

父はとても体格のいい人だった。
父の膝にすっぽりと抱かれた写真があるが、
自分の小ささを差し引いてもやっぱり大きな人だなと思う。
僕は自分の腕白ぐりにそればりの自信を持っているが、
父と比べるとその比ではない。
父の幼少の頃の暴れん坊ぶりは凄まじかったと聞いている。
五人兄弟の末っ子だったというのに、一度兄弟喧嘩が始まって火がつくと、
兄たちを蹴り飛ばしてしまうほどの凄さだったという。
大きいだけでなく実力のほうも相当で、
十三歳の時に米俵をニ俵担いだという逸話が残っている。

父は十六歳で海軍に入った。
と言えば聞こえはいいが、父の言動にはほとほと手を焼いた祖父が、
海軍に送り込んだというのが正しいようだ。
祖父が自分で願書を出して、無理やり連れていったという。
後に父は祖父のこの仕打ちを県外追放だと言って苦笑していた。

海軍でも父は、その並々ならぬ体力を生かして、
おおいに無頼派ぶりを発揮したらしい。
普通ならば、四人で運ぶ重機関銃を自分一人で運んだとか、
連合艦隊の相撲大会で優勝したとか、
そんな話を何度も聞かされた覚えがある。
相撲にかけては玄人はだしで、
亀ヶ嶋という四股名まで持っていたという。
大相撲に福岡出身の梅ケ谷という横綱がいたが、
父も角界入りを随分誘われたという話だ。
引退相撲の時の、たくさんお酒の樽が積んである派手な写真が残っている。
自分が後に明治大学の相撲部へ一年間お世話になったのも、
父の相撲好きの影響だったに違いない。

『旅の途中で』 高倉健著 新潮社 本体1800円 より抜粋

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少年たちへ

あれは何年前だったでしょうか、
法務省の要職に就いている高校時代の親友の依頼で、
少年鑑別所を訪れたことがありました。
「網走番外地」とか、二百一本出演した映画の百本以上でしょうか、
いえ百五十本ぐらいははいっているでしょうか、
僕は前科のある人を演っていますので、
収容施設にはまるっきり縁がないとは言えないようです。

ちょうど暑い夏で、盆踊りのイベントを目前にしていたらしく、
練習が終わった後に、グラウンドで少年たちに挨拶をしてほしいと言われました。
僕は「口下手なのでうまく挨拶ができない」と言いながらも、
「どんな挨拶をすればいいの」と聞きました。
そうしますと、「世界中で日本だけが、刑務所や少年鑑別所で、
看守の人たちが拳銃も鉄砲も持っていない。
いかに少年たちを信頼しているか、
そんなことを言ってもらえればいい」
ということで、壇上に上げられました。
でも、実際に大勢収容されている少年たちを前にしたら、
最初に約束した話なんかどこかへ吹っ飛んでしまって、
まったく違うことを喋り出したんですね。
自分が、刑務所の中にいる囚人ばかりを
何年も演ってきたせいもあったのかもしれません。
熱いものがジーンと込み上げてきて、
「いろんなことがあったから、皆さんにここにいるんだろうけど、
目を瞑って自分のいちばん好きな人、恩のある人を思い出してください。
その人のために、他の誰のためでもなくその人だけのために、
一日でも早くここを出て、更生してください」
そんなことを話してしまいました。
たとえば恋人や母親、父親・・・目を閉じると浮かんでくる人のために頑張る。
そういう人を持つ、そういう気持ちを持つことが、
とっても大事なんじゃないかと思います。

最近、子どもが起した悲惨な事件が続いているけれど、
そういう子どもたちは目を瞑った時、
お父さんの大きな背中が、瞼の裏に浮かんでくるんでしょうか。
親父が怒った時の本当に怖い顔が、浮かんでくるんでしょうか。
そう考えると、もう何年も前に亡くなった、
自分の親父のことが思い出されてきます。

『旅の途中で』 高倉健著 新潮社 本体1800円 より抜粋

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